中学生の外出日記
問:中学生は、大人の付き添い無しで、グループで外出してもいいでしょうか。答:この質問を聞くと、私の中学生時代を思い… Read More »
専門家の視点—台湾が食べることに困らないように
農業生産は、商品作物だけに焦点を当てて主食や雑穀を無視してはならない。食糧の自給率を維持、アップすることで、災害や… Read More »
基隆刑務所での歳末祝福会—感動を遮るものはない
警備体制下で開かれた歳末祝福会では、十九名の基隆刑務所慈済読書会メンバーが、一年間の読書の心得を慈済手語劇で表現し… Read More »
九月の出来事
09・01
慈済チリ連絡所は僑聯総会友好会館で、アブラザルテ財団及びフェルナンド・アラゴン・スカウト連盟と共同で、… Read More »
飢餓をゼロに 茶碗一杯の幸せ
異常気象、地域間の衝突、インフレの深刻化によって食糧不足のリスクが増大しつつある。命を守るための食料援助など慈善支… Read More »
菜園から食卓まで 新鮮で清らかそして健康な食事
数日前、寒波が襲来した。雨が降りだす前にと、朝早く徳(ドーライ)師父と数人のボランティアの後ろについて、畑の草取り… Read More »
見舞金に込められた気持 確実に届けた
地震の後、娘や孫たちは倹約した生活を送って、損壊した家の再建に頑張ってくれています。見舞金を受け取ったので、彼女ら… Read More »
モザンビークに希望が見えた
心して伝法し、当地に智慧を伝え、助けを求める声を聞けば駆けつける菩薩の精神と愛のエネルギーを大衆に伝え、人と人が愛… Read More »
三十年を振り返る 愛で以て傷を癒す
華人を標的にしたジャカルタ暴動、ジャカルタの大洪水、スマトラ島沖地震(インド洋大津波)、新型コロナウイルス……この… Read More »
能登半島地震—空き家の足音に心が痛む
八月二十九日、台湾から来た私たちは小松空港に降り立ち、日本の慈済ボランティアと合流し、翌日から、能登半島地震の見舞… Read More »
腹八分にして二分で人助け
七月中旬、慈済は能登半島地震被災地において、四回合わせて一万世帯余りへの見舞金配付を終えた。後日、日本在住の慈済ボ… Read More »
心は菩薩道から離れない
菩薩になれるよう学びましょう。聞こえて目にすることができれば、助けることができるのです。広く見聞きして、世の苦難に… Read More »
今月の内容
扉の言葉
編集者の言葉
親と子と教師、三者の本音
證厳法師のお諭し
農禪‧生活
グローバル慈善
行脚の軌跡
九月の出来事
20241020
SDGs〜慈済の取り組み〜災害をなくし、飢餓をゼロに
慈済ボランティアはモザンビークで慈善農耕プロジェクトを推進し、ジョアキム・マラ小学校の貧困児童に温かい食事を提供している。同じような活動は、長年にわたり世界中の慈済拠点で行われており、飢餓に苦しむ家庭を支援しているが、これは国連の持続可能な開発目標(SDGs)2「飢餓をゼロに」にも対応している。
20240920
慈済は早くにSDGsの取り組みを開始している
慈済が60年近くにわたって取り組んできた活動の指針と、国連が掲げる持続可能な開発目標(SDGs)と図らずも一致する。月刊誌『慈済』は今月から関連記事を連載する。西アフリカのシエラレオネ共和国において、慈済は過去9年間にわたり、カリタス基金会やヒーリー国際救済財団などの組織と協力して、炊き出しの提供や現地の学校へリソースを拡充させてきた。
20240820
能登半島地震 復興の道
石川県の北西部に位置する有名な輪島市白米千枚田は、元日の強い地震で被害を受け、千枚の棚田のうち、八割に亀裂が入るか、土砂で押し潰された。六月の強い日ざしの下で、農家の人々は田植えを済ませた田で草むしりをしていた。現地で農業が復興の道を歩んでいることの象徴だ。( 撮影・林玲悧)
20240720
能登半島地震 支援をここで終わらせてはならない
能登町役所の入口には、各地から寄せられたカードや布がいっぱい掲げられ、励ましのメッセージが書かれてあった。(撮影・顔婉婷)慈済基金会は能登半島地震の被災者ケアを続けている。7日から9日まで石川県鳳珠郡能登町で第二回の見舞金配付活動が行われ、5つの会場で722世帯に手渡された。
20240620
愛ある商店 地域の愛が集まる場所
台湾全土で2万軒以上の店と屋台が慈済の「愛ある商店」活動に参加している。店主は店に置かれた竹筒貯金箱に客が釣り銭を入れるのを見ると、嬉しくなる。店と客が一緒に善行して福を作っている。(挿絵・徐淑貞)
20240520
コーラン経筆写本─百、千刧経て、器用な手で復元された
胡光中さんは、大切に所蔵していたコーラン経筆写本を證厳法師に寄贈した。検証の結果、紀元15世紀から16世紀に、10人以上の人の手によって書き写されたものと判明した。紙が変色して脆くなっていたページには血痕や水シミ、カビ、虫食い跡、焦げ跡まで残っていた。修復士は細心の注意を払って修復し、2年余りを費やして、本来に近い状態に戻した。