能登半島地震—空き家の足音に心が痛む

能登半島地震から9カ月が経ったが、多くの損壊した家屋は未だ解体待ちの状態にある。多くの高齢者は時折、我が家に戻って、柱に刻まれた子供たちの成長の跡をなぞったりして、幸せだった日々を思い出したりしながら、再び前へ進む勇気を得ようとしている。

八月二十九日、台湾から来た私たちは小松空港に降り立ち、日本の慈済ボランティアと合流し、翌日から、能登半島地震の見舞金配付を開始する準備を行なった。五月から七月までに四回の配付活動を終え、この五回目の配付は主に七尾市の被災者を対象としている。加えて中能登町、輪島市、珠洲市、志賀町で配付条件は満たしているが、まだ受け取っていない一部の住民も対象となる。

三日間の配付活動は、午前九時から午後四時までだったが、早朝の六時にもならないうちに、会場に来て並んで待つ住民がいた。初日は二千百世帯余りが受け取ったが、これは予測総数の六割を占めた。多くのボランティアは水を飲む時間もないほど忙しかったが、皆、住民を長く待たせたくないという共通の思いがあった。

これまで日本語を学ぶ時や日本人と交流した経験の中から、日本の社会には「内」と「外」の文化があり、個々の家庭と会社またはコミュニティに区別されていることを知っていた。しかし、七尾市の住民たちは、遠くから配付に来てくれた慈済ボランティアに感謝し、また竹筒歳月の話を聞いた後は、こぞって財布から硬貨や紙幣を取り出し、人助けのために竹筒に入れた。その中の田本泰一郎さんは涙を流しながら、「大衆の小さな力を合わせてこそ、愛と善の心を伝えて行くことができ、世界は平和で調和の取れた世界になるのです」と言った。

六十八歳の高岡園子さんは、ボランティアベストを着て、慈済ボランティアが説明してくれた「慈済の行動様式」を引き継いだ。「一円じゃなく、五十銭でも善行ができるのです。信じられますか?」。彼女自身も被災者だが、もっと多くの人に「一日一善」を知ってもらい、愛が循環するよう期待している。

見舞金を受け取った何人かの女性は翌日も続いていた慈済の配付活動に、急いでいっぱいの小銭を持って来て、寄付した。実は、その小銭は、日頃の買い物のお釣りが、月日が経つにつれて貯まったもので、かなりの量になっていた。正に慈済の初期に三十人の主婦が五十銭の買い物用のお金を節約して竹筒に入れていたように、「小銭で大きな善行をする」という行為が、時空を超えて受け継がれたのだ。

晩年になって無常に遭遇した

五十八歳の辻井明弘さんは、八十歳の母親に代わって見舞金を受け取りに来たが、翌日になんと四つの大きな袋に入った小銭を持って現れた。それは地震の後、自宅を片付けていた時にかき集めたもので、彼はそれを全て寄付することにした。

私たちは、大愛テレビの記者と一緒に彼の家を訪ね、被害状況を詳しく聞いた。辻井さんは大変気さくな人で、一つひとつの部屋の損傷状況を滔々と説明してくれた。家の片付けは終わっていたが、地震当時の揺れがどれだけ激しかったかを感じ取ることができた。彼の家は居住不可と判断され、目下、国の公費解体を申請している最中である。彼は足場工事の仕事をしていたため、この解体工事にも参加したいと考えており、それはこの古い家に対する感謝の気持ちと愛着を表していた。

今年八十歳で、陸上自衛隊に約三十年間勤務した白瀬政一さんは、私たちが一緒に彼の家を見に行くことに同意してくれた。彼は戦争孤児で、生年月日も分からないが、親切な人に育てられたと言う。三十五年前、奥さんと貯金で二階建ての家を建て、生涯をここで過ごすつもりだった。しかし、震災で家は居住不可と判断され、住めなくなってしまった。彼はとても悲しみ、いっそのこと死んでしまった方が、生きて行くよりも楽だとさえ思ったことがある。

今、白瀬さんは仮設住宅に一人で暮らしており、奥さんは娘さんの家で療養中である。人生の晩年に子供や孫たちと楽しく過ごしていた矢先に、このような無常に遭遇した、と言った。部屋の柱にある、子供や孫たちの身長を刻んだ痕は、成長の記録であり、彼が最も諦めきれない思い出でもある。彼はこの二本の柱を新しい家に使いたいと考えていたが、解体手順を聞いた後、諦めるしかなかった。

白瀬さんのその家に対する愛着を感じたが、どうにもならなかった。きっと、多くの住民も彼と同様の思いを抱いているに違いない。家が取り壊される瞬間、それまでの人生を奪われたような気持ちになるだろう。空になった家の中を歩く白瀬さんの後ろ姿から、家族みんなで楽しく過ごした日々を思い出している様子がうかがえた。

夜行バスで被災地へ

配付活動がある度に、ボランティアは各居住地から駆けつけた。新幹線を利用したり、時間と交通費を節約するために夜行バスを使ったりした。活動全体の企画は若い世代のチームが担い、経験豊かな師姑や師伯たちは指導とサポートをする中で、慈済の次世代へ引き継がれる姿が見られた。

五十一歳の竹下美穂さんは、わざわざ配付会場にボランティアするためにやって来た。台湾が大好きだという彼女は、台湾の慈善団体が配付に来るという話を聞いて、親近感を覚え、会場を見に来たいと思った。ボランティアたちの若々しい活気と熱意に感動したと言う。

彼女の家は修繕して住み続けることはできるが、地震で彼女の心境は変わった。石川県は元々地震帯であることは知っていたが、まさかこんな大規模な地震に見舞われるとは思いもよらなかったという。無常を身近に感じ、自分も被災者の一人になったことを実感したそうだ。以前は毎日当たり前のように仕事に追われていたが、今は月に二日しか働かず、生活費を稼ぐためにアルバイトを探さなければならなくなった。政府の失業手当てがいつまで続くのか分からないため、少しでも貯蓄を増やしたいと考えている。

能登半島地震から九カ月が経ち、多くの損壊した家屋は未だ解体待ちだが、住民たちのスタンスは変わって来ており、将来の生活に向かって頑張っているように見える。慈済ボランティアは自ら実質的な経済支援を行って来たが、最も重要なのは、住民一人ひとりと顔を合わせ、お茶を飲みながら言葉を交わすことで、お互いに心の支えとなったことである。ある住民は、「慈済ボランティアからたくさんの元気をもらいました。その元気は尽きることがありません」と語った。

一期一会、能登の幸せを祈る

私の母方の祖母は日本教育を受けたため、毎晩日本語の歌を歌って幼い私を寝かせてくれたり、小学生の私に日本語の本を読んで聞かせてくれたりした。中学生の頃、私は日本語に強く興味を持ち、最初は独学で辞書をめくって、一字ずつ習い始めた。社会人になって経済的に余裕が出てからは、積極的に勉強するようになり、数年後、日本語能力検定試験N1を取得するまでになり、日本の大学に進むことができる基準を突破した。

幼い頃、日本語の子守唄が、私の日本文化に対する鍾愛へのきっかけとなった。前回日本に行ったのは、東京と大阪の慈済の会務に関心を寄せるためだったが、もう七年前のことである。今、再び日本を訪れる機会ができ、往路の飛行機の中で若い頃にひとり旅したことを思い出した。ある時、地下鉄のホームに立って、時間とお金を日本への旅に費やす熱意は、正しいことなのだろうか、と考えたことがある。それからは、そういう旅をすることを止め、生活の重点を慈済の職務と志に置くことにした。

日常、宗教処で多岐にわたった煩雑な海外の慈済事務と向き合って、いつも時間に追われていた。今回の訪問で、「周りとそして自分の心を観察する」という課題を自分に課した。見舞金の配付を通して、日本のボランティアの心遣いと願力によって、世界中から集められた善意の心が発揮されたことを感じた。それによって、私は「どんなことをしたらいいか。何に貢献できるだろうか」などと自分に対する過度の期待は止め、目の前のことに集中して、心することが最も大切なのだと悟った。

見舞金の配付は円満に終了し、中長期的な支援が始まりを告げた。多くの被災住民がボランティアとして参加し、「人傷つけば我痛み、人苦しめば我悲しむ」という精神を学び、内と外の区別を超えるのを目のあたりにした。そして私も、「一期一会」を大切にして、純粋な心に戻り、心から能登を応援したいと思う。

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