タイに滞在する難民 一家の希望を担ぐ肩

不法滞在者は、能力があっても働くことは許されていない。

いつでも逮捕され、刑務所に送られる可能性があるため、難民家庭は毎日、戦々恐々として日々を過ごしている。

唯一期待できるのは、第三国への定住許可を得て、家族の暮らしを立て直すことである。

コロナ禍は故郷を離れた難民の生活を更に困難にしている。慈済タイ支部は、今年4月、再び救済活動を展開し、生活用品セット、マスク、消毒用アルコール、3000バーツの生活補助金を配付し、10数カ国から逃れてきた1500を超える世帯を支援した。ボランティアは親身になって白米と小麦粉を用意し、それぞれの食習慣に沿って選択できるようにした。(撮影・蘇品緹)

「ある日、弾丸と爆弾が雨のように降って来て、二人の兄が重傷を負い、一人は亡くなりました。お父さんはもう一人の兄を治療のために国外に連れて行きましたが、その後、二度と戻って来ることはなく、彼らが生きているかどうかもわかりません」と今年三十一歳のオマールさんが言った。彼は内戦が絶えないアフリカのソマリア出身だ。そこでは数十年来の紛争が計り知れない損失をもたらし、罪のない人々までが残酷な運命に見舞われた。何度目かの紛争で、オマールさんは愛する家族を失い、厳しい生活に追い込まれ、彼は同時に少数民族出身者として武装集団の攻撃の標的になった。二〇一五年、彼は妻のハムダさん、妻の弟と三人の娘と一緒に故郷から逃がれることを決意した。

ソマリアから逃れる人のほとんどはブローカーを頼って先ずマレーシアに行き、その後、タイに不法入国している。ブローカーは、万が一逮捕された場合に国へ強制送還されるという理由で、パスポートを没収している。オマールさんはタイの英文国名をヨーロッパのフィンランドと勘違いし、タイに着いてから、東南アジアに来たことを知った。タイ政府は国連難民条約に加盟していないため、多くの難民は当国で合法的な身分を取得することができず、不法滞在者になるしかないのだ。

オマールさんと家族は、タイに到着してわずか十一日で、パスポートを所持していなかったことと不法入国の罪で警察に逮捕された。ムスリムの助けで保釈された後も合法的な身分はなく、隠れて暮らすしかなかった。再び逮捕されないように、外出をできる限り控えるだけでなく、やむを得ず外出する際は、警察がいないか、前後を確かめなければならない。仕事に就くことができないので、異郷で生きていくのは本当に大変なのだ。

2020年5月のコロナ感染拡大の期間中、慈済タイ支部はバンコクにある静思堂で難民と貧困者に生活物資を配付し、「働いて救済に替える」方式で、難民(左から1番目)に通訳をしてもらった。

労働で救済に替える 通訳をして同胞を助ける

バンコク難民センター(BRⅭ)から毎月補助金は出ているが、家賃を払うと何も残らない。一家の大黒柱としてオマールさんはベストを尽くして生計を立てている。最初、彼はバンコク難民センターで通訳の仕事をしていたが、二〇一七年からは慈済の地域医療サービス活動でも通訳をするようになった。それがオマールさんの慈済との良縁の始まりである。

二〇一四年、慈済タイ支部とアメリカ総支部は、アメリカ国務省と難民に医療を提供する協力体制の覚書を交わした。その翌年から二〇二〇年までの間、慈済タイ支部は毎月第四日曜日に、定期的に地域医療サービス活動を行った。二〇一八年以降は、毎月第二日曜日にも小規模な施療を八カ月間続け、バンコクに滞在している各国からの難民を世話すると共に、その時に彼らが安心して施療を受けるための外出ができるよう、関係する公的機関と相談した。

難民は三、四十の国から来ているため、ボランティアは「働いて救済に替える」方式を採用し、施療会場でそれぞれの言語能力を生かして通訳をしてもらった。その報酬は彼らの生活の足しになった。
当時、地域医療サービス活動における通訳関係の窓口をしていた郭玫君(グオ・メイジュン)さんによると、オマールさんの家族は、妻、娘三人、生まれたばかりの息子、そしてケアが必要な妻の叔父の合わせて七人なのだそうだ。「家族が多いのでオマールさんの負担は大きく、大変な状況に置かれていたため、常時、通訳の仕事を頼みました」。

翻訳の仕事でオマールさんは多少の収入が得られ、生活の重責が少しは軽減されたが、間もなく大きな試練が再び訪れた。二〇一八年、オマールさんは再び移民拘置所(IDC)に収容されたのである。妻のハムダさんは一人で家計の重責を担うしかなく、厳しい状況にどう対処すればよいか分からなかった。

オマールさんは収監される前日、郭さんに電話をかけ、慈済ボランティアに家族の世話をしてくれるようお願いした。郭さんは、オマールさんの置かれている苦境を聞いて大変驚いた。彼女はオマールさんの住所を聞いて、すぐにその地域のボランティアである王忠炎(ワン・ジョンイエン)さんと王敬閎(ワン・ジンホン)さん、謝超(シェ・チャオ)さんの三人に報告した。

その翌日、ボランティアたちは直ちにオマールさんの家を訪ね、ケアを始めた。オマールさんとの電話が通じなくなったのもその日だった。オマールさんが収容されてから毎月、米二袋と粉ミルク、生活補助金をハムダさんに届けた、と王さんが言った。その支援にハムダさんは深く感動した。「慈済ボランティアが支援に来てくれたあの日は、私の人生で最高の日でした。本当に嬉しくて、生まれ変わったような感じでした!」と語った。

円満への遠い旅、新しい生活のスタート

二〇二〇年十月、オマールさんはやっと、ある公益団体のサポートにより、拘置所から保釈された。 収容されていた二年間、彼は家族とコミュニケーションをとることができなかった。自由の身となって帰宅した彼は、慈済ボランティアのお陰で家族が安心して過ごしたことを知り、感極まった。「慈済ボランティアのことはいつまでも私たちの心の中に刻まれます。永遠に忘れません!」と感謝の気持ちを述べた。

オマールさん一家は七年間タイで生活したが、今年ようやく国連難民高等弁務室の審査を通り、第三国で定住することが許可され、彼らはまもなくカナダに向かうことになった。よい知らせを受けて、慈済ボランティアは祝福に訪れ、善意の人たちから寄贈された冬物の衣類を届けた。どんなに距離が遠く、雪国の気候が寒くても、善の愛が一家の心身を温めてくれるようにと願っている。

世界各国の難民が集まるバンコクで、慈済タイ支部は2015年から2020年まで定期的に医療サービスを提供した。写真はアフガニスタン難民への施療。

この三、四年間、オマールさん一家に寄り添って来た王さんはこう言った。難民であるがゆえに、働く能力があっても希望する職業に就くことができず、厳しい生活を強いられている。「彼らが別の国に行く機会を与えられ、合法的に新しい生活を始められるようになり、とても安心しました」と王さんは語った。

彼ら一家は三月二十四日に出発する予定だったが、出発の数日前にコロナウイルスに感染したことが判明したため、出発は五月二十五日に延期された。

コロナ禍と物価の高騰を受け、慈済タイ支部は一月末から今年最初の貧困救済活動を展開し、六千六百世帯あまりの恵まれない家族に生活物資を届けた。三月には、感染による隔離生活をしていたオマールさん一家に薬とジンスー本草飲(漢方茶)と五穀パウダーなどの物資を届けると共に、彼らに医師によるオンライン診療を受けさせた。その後、症状は改善し、PCR検査の結果も陰性になった。

二〇一八年から今年一月まで、慈済タイ支部は長期的にオマールさん一家を人道支援して来た。その案件は一段落し、彼らはもう直ぐ遠い国に旅立つが、この善縁が長く彼らの心の底に残ると信じて疑わない。

(慈済月刊六六六期より)

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