支援は一時的なもの お菊さんは百万元を寄付した

六十八歳の時、お菊さんは息子が残した三人の幼い孫を育てた。

十二年後、孫たちは成人し、お菊さんは重責から解放された。

そして別の重荷を引き受けた。最も困難な時の誓いを実現するために。

回収資源をいっぱい載せたカートを推しながら、一人の婦人が新北市土城区延和路を足早に歩いていた。「今日は何か回収するものはありますか?」 彼女は印刷屋やレストラン、廟に寄っては親しく挨拶し、回収資源の段ボールや缶・びん類を運んだ。彼女はこの道を十五年以上も歩いて来たのだ。元気そうな姿を見ると、八十三歳だとはとても思えない。慈済の栄誉理事であるが、かつては慈済のケア世帯だったこともある。

晩年に息子を亡くし、祖母と母親を兼ねた

林陳阿菊(リン・チェンアジュー)さんには息子二人と娘三人がいたが、長男が二十歳の時に交通事故で亡くなった。下の息子は外国籍の妻との間に三人の子供をもうけたが、後に夫婦は離婚した。その息子は双極性障害を患っていて、妻が家を離れて三年後にうつ病で亡くなった。後には小学二年生と一年生、幼稚園の幼い子供たちが残された。学校からそのような連絡があったので、二〇〇六年に慈済の訪問ケアボランティアがその家を訪れた。

当時六十八歳だったお菊さんは、夫が糖尿病と高血圧を患い、介護が必要だった。娘たちは各自の家庭を持っていた。末の息子の死後、死別の痛みに直面すると同時に、三人の幼い孫を世話しなければならなかった。彼女は家族を養うために工場で働いたり、料理や掃除など家政婦をしたりしたこともある。慈済ボランティアの蔡束止(ツァイ・スージ)さんは、「この家庭はお菊さんが一人で支えてきたのです」と言った。

慈済ボランティアが初めてその家を訪れた時、一万元の緊急支援金を届け、敬意を表して両手でお菊さんに手渡した。證厳法師の祝福と慈済人の愛を受け取った時、彼女はまるで肉親に会ったように涙を流した。「どうしてこんなことになったのかわかりません。毎日学校の先生が用意した給食の残りを持って家に帰る時、いつも『恥ずかしい』と感じていました…」。そして、彼女は誓った。「自立できた暁には、人を助ける!」。

毎月、蔡さんと呂許月蓮(リュー・シューユエリエン)さん、陳玉蘭(チェン・ユーラン)さんは、交代で補助金を持って訪問し、時々電話でも様子をうかがった。お菊さんは、慈済の補助金と夫婦の農民退職手当で一家五人の生計を維持した。

その数年前から、彼女は公園で運動しながら、ペットボトル、鉄やアルミ缶などリサイクルできるものを拾っていた。また、自転車で寿徳新村の慈済リサイクルステーションに行き、回収分別作業にも参加していた。慈済の支援を受けるようになってから、生活は落ち着き、それまで慈済でしていたリサイクルに、一層熱心に取り組むようになった。また、毎日三人の孫の登校に付き添い、通学路安全指導のボランティアを終えてから、自宅のアパートと七、八軒の店舗を回って資源の回収をした。いつもカートに段ボール箱やペットボトル、鉄缶とアルミ缶をいっぱい積んで何回も往復した。

ある人が彼女に訊いた。「あなたは生活が苦しいのに、なぜ自分でそれを売らないのですか?」。お菊さんは、「私は毎月慈済から支援してもらっているので、この一万元は私にとってとても重要なのです。證厳法師から頂いた情けに報いることができるからです」と答えた。

2019年、蔡束止さん (右)は林陳阿菊さん(左)に同行して、慈済ボランティアの前で、楽しくリサイクル活動してきた人生ストーリーを分かち合った。(撮影・黄秀琴)

雨の日も風の日も、リサイクル作業を続ける

毎日四輪カートを引っ張って資源回収をするお菊さんは、雨の日も風の日も休んだことがなかったが、二〇一三年、彼女は乳がんを患い、五日間入院した。店先に溜まったリサイクル資源を思い、退院して間もないうちに、もう回収作業を始めた。その二年後、今度は胃に腫瘍が見つかり、入院して手術をしたが、またしても、退院して間もなく回収作業を始めたので、娘たちはとても心配した。

お菊さんは、土城リサイクルセンターまで運ぶトラックに便利なように、毎日カートに各拠点からの回収物を載せると、土城区延和路の路地裏にある暫定集積場に届けている。忙しい日々を送っていたが、新型コロナウイルスが発生して、やっと休むようになった。

「コロナ禍の間、回収物が少なかったので、一日置きに取りに行きました」。蔡さんによると、お菊さんは、二〇二〇年は一日働いて一日休んでいたが、二〇二一年に警戒レベルが三になった時は、リサイクルステーションが一時閉鎖されたため、その間だけやっと休みをとったとのことだ。

お菊さんが育ててきた三人の孫のうち、上の孫は中学を卒業した年の夏休みからすぐに左官屋として働き始め、給料を全部お婆さんに渡した。「僕はお祖母ちゃんと一緒にこの家を養っていく」と言ったのだそうだ。

そして、彼は公立の職業高校の夜間部に合格したので、勉強も続けることにしたのだが、昼間は学校の先生から紹介された電子会社に勤めた。全てはお祖母さんを手伝って家族を養うためだった。

上の孫のアルバイト収入はわずかだったが、お菊さんはその頃から、慈済からは月々五千元の補助金しか受け取らなくなった。二〇一三年になって、上の孫は固定収入が入るようになり、お菊さんに月々一万元を渡すようになった。そこで彼女は直ちに慈済の支援を断った。一家は段々と自立できるようになったのである。

二〇一八年、孫たち全員が卒業し、家計の負担が少なくなった。お菊さんは「毎月の退職農民手当をもらっているので、私たち二人の生活には十分だ」と考えた。そこで、彼女は、毎月娘や孫たちからもらうお小遣いを貯め始め、三年間で百万元になったので、全額を慈済に寄付した。二〇二〇年に慈済の栄誉理事になった。

「彼女は栄誉理事になっても、引き続き慈済病院の病室一間につき三十万元を寄付すると発願しました。毎月一万元ですが、今日まで既に二十数万元を寄付しましたよ」と、蔡さんが説明した。

林陳阿菊さんは廟に行って、2日間に溜まったボトルや缶、カートンを集めた。そこに行く途中にある店は長年、彼女が来ると決まって回収物を渡してくれる。

善行できることは人生で最大の財産

二〇〇六年、ボランティアがケアを始めた時は、お菊さんが息子を失った悲しみから抜け出せるようにと考えていたので、蔡さんは彼女と三人の孫を慈済の親子成長クラスに連れて行った。

蔡さんは、「私は自分の末の孫娘を連れていき、菊さんは彼女の三人の孫を連れて来て、円卓を囲みました」と言った。毎月、親子クラスで深く話し合ううちに、愛が温かさを増した。親の付き添いがなくても、孫娘は「学校に行けるし、お祖母さんの側に寝ることができて、幸せ!」と言った。

「自分が楽しんでいれば、忙しくても苦労には感じないものです。むしろ幸せです」。親子クラスの先生が教えてくれた幾つかの静思語は、上の孫にとって生きていく上で役立ったそうだ。彼は今家計を担い、祖父母を養っている。その思いやりが皆から賞賛された!

二〇一九年、お菊さんの夫が亡くなった。父親のために助念(お経を唱える)したり、葬式に出席してくれたりした慈済ボランティアの姿を見て、三人の娘は感動した。長女は蔡さんに、「慈済の皆さんはとてもいい人たちですね。ありがとうございます!」と言った。

慈済のイベントには必ず、蔡さんの夫である洪志明(ホン・ジーミン)さんがお菊さんを連れて行く。コロナ禍でも洪さんがお菊さんをワクチン接種に連れて行ったので、娘さんが何度もお礼を言った。

「三人の子供をよろしくお願いします」これがお菊さんの末の息子の最後の言葉だった。十数年経った今、三人の孫は成人になり、安定した職業に就いた。特に土城の電子会社で働いている上の孫は、同僚にも慕われている。

「自ら福田を耕して、福縁を得ました」と林陳阿菊さんは幸せそうに笑って言った。大きな願が彼女の人生を変えた!

(慈済月刊六六二期より)