板橋静思堂へワクチン接種に訪れた男性が体温を測っている様子。外出時にマスクやフェースシールドを着用し、体温を計ることは全国民の共通認識となっている。一体いつになったら、これまでの生活に戻れるのか、このコロナ禍の収束を待つしかない。
七年前、シエラレオネの国民がエボラウィルスに直面していた恐怖は計り知れないものがあった。だが、命が脆くも崩れ去っていくあの災難でも、他人事に過ぎなかった。まさか同じシナリオが七年後の今日、世界各地で繰り広げられるとは知る由もなかった。
二〇一三年の十二月、アフリカ西部でエボラウィルスが出現した。台湾から一万三千五百キロ以上離れ、台湾の約二倍の面積と七八〇万人の人口を有する、シエラレオネ共和国は流行地域の一つで、翌年に流行が起きると、エボラウィルスによる死者は三千九百人を超えた。
流行のピーク時には、毎日多くの人が亡くなり、葬儀業者の対応も追い付かず、墓地に浅い穴を掘ったり、早々に埋葬していた。深夜に飢えた野良犬が掘り返して、埋葬したばかりの死者を食べてしまうという話を現地に住む友人から聞いた。
エボラウイルスの流行開始から二年余り後、国際医療組織の尽力のもと、二〇一六年三月には流行を一旦食い止めることに成功した。二〇一六年九月、私は慈済ボランティアと共に、初めてシエラレオネ共和国を訪れて、人道支援活動を行った。それはWHOがエボラウィルスの流行収束を宣言してから半年後のことだった。当時シエラレオネでエボラウィルスについて語ると、現地の友人は容易に消えない恐怖を抱いているのが感じられた。
実際、彼らがどれだけエボラウィルスに恐怖を抱き、うろたえ、いかなる時も全国七百万余りの人々が神経を尖らせても、私は彼らの気持ちを実感することができなかった上に、今は既に過ぎて状況は変わっている。発生当時に現場にいなければ、ウィルスがもたらした衝撃を本質的に理解することはできないのだ。だが、命が脆く崩れ去っていくあの災難でも、他人事に過ぎなかったのだ。
6月初めの午後、万華区にある龍山寺は人影がなく、1人の信者が廟の門の外でお参りをしているだけだった。警戒レベル3の中、宗教施設を含む公共の場への立ち入りは厳しく制限され、閉鎖されていた。
まさか同じシナリオが七年後の今日、世界各地で繰り広げられるとは知る由もなかった。
エボラウイルスに続いてコロナウイルスが現れ、すでに世界で四百万人の命を奪い、目に見えない殺人犯のように形跡を残さず、死に至らしめている。コロナウィルスへの警戒レベルが3に引き上げられた台湾では、神々に祈る人々の姿が見られたが、廟の中に入ることはできなかった。西門町の灯火は暗く、映画館が軒を連ねる通りには人影もなかった。普段なら多くの人で賑わうエリアも空っぽだった。公共交通機関や会社、商店への出入りも大敵に対峙するようだった。そして、病院への出入りは更に厳しく管理され、影が付きまとうように感染への危機意識は高まっていた。そして、ちょっとしたことで恐怖が迫り、死がいつでも静かに忍び寄るかのように身の危険を感じていた。
この時ようやくシエラレオネの人々が当時、エボラウィルスに抱いていた恐怖心を理解することができた。異なっているのは、エボラウィルスはアフリカ大陸の限定的な地域に限られたものだったが、コロナウィルスはすでに世界的に流行している点だ。これは全人類の課題であり、ドキュメンタリーでもあり、誰も逃れられることではないのだ。遂に台湾も例外ではなくなり、世界にコロナウィルスが出現してから一年後、警戒レベルが3に引き上げられ、その間の感染者数と死亡者数が徐々に増加した。
6月14日、旧暦の端午節の連休にも関わらず、がらんとしている台北駅。コロナウィルスの蔓延により、人影は少なく、繁華街も息をひそめていた。店だけでなく、教育、医療機関などを含めた様々な産業が影響を受けた。
かつて病床にいたのは私だった
コロナウィルスが爆発的に感染が広がっているインドやアメリカなどの国に比べ、台湾の感染による死亡者は多くない。しかしどれも大切な命である。もしあなたの家族や親戚、友人だったら、命への考え方も変わるだろう。
病院のコロナウィルス感染症専門病室では、俗称「ウサギウェア」と呼ばれる防護用の重装備を着用した専門の医療スタッフが、生死の淵をさまよう患者のケアを行っている。この光景は、二〇一五年に八仙水上ランドで発生した粉塵爆発事故で、重度のやけどを負った患者がICUで治療を受けている様子と重なった。その時も医療スタッフは何重もの防護服を着て協力し合い、ミイラのようになってしまった身体から命を救い出そうとしていた。しかし、当時と異なる点がある。当時は外部から細菌が病室に入り、やけど患者が感染症にかかってしまうのを防ぐために防護服を着ていたが、コロナウィルスの患者をケアする際は、患者を守るほか、医療者を守るのが主な目的で着用しているのだ。
コロナウィルスの感染力が強いことは、ここで述べるまでもない。医療者と患者とのやり取りはすべて、生死の間を行き交うものである。命を救うことも自分の命を守ることも、どちらも疎かにしてはならない。万一感染してしまった場合、それは自分だけの問題ではなく、一家全体、そしてコミュニティ全体、ひいては台湾にとっての問題となるのだ。それゆえ、何枚もの防護服と手袋を着用し、靴カバーを付け、N95マスクの上に医療用マスクを重ね、帽子付きの防護服であってもさらにキャップをかぶり、ゴーグルとフェースシールドを付けてこそ万全な装備となる。装備の装着方法も基準に則ってしっかりと行わなければならない。
これまでのインタビューでは、医療スタッフの協力のもとに十数分間かけて装着を完了していた。ちまきのように包まれた装備で熱がこもり、汗をかくので耐えられなかった。プロの医療人員はこのような防護装備で命を救うという前提の下、慎重に数時間の仕事を全うする。その精神や心理、生理面での大きなプレッシャーは言い表せるものではなく、傍観者には簡単に理解できないものがある。
病室内の患者は、目を閉じながら、口には管が繋がれ、頭上やベッドの側に置かれた生命維持装置の数字や曲線だけが、彼らが生きるために必死にもがいている様子を示していた。この光景はどこかで見たことがあるような気がした。
そうだ、確かに私の人生にも同じ場面があったのだ。二〇一六年九月に出張で西アフリカのシエラレオネ共和国を訪れた時、マラリアに感染し、台湾に戻ってから体調に異変が起きたため、入院して治療を受けたことがあり、昏睡状態に陥り、ICUで治療を受けた。生死の淵を彷徨っている時に友人が見舞いに訪れ、人生最後の写真になるかもしれないと当時の様子を撮影してくれた。写真の中の私は疲れ果て、同じく目を閉じて、口には管が繋がれた同じ光景であった。
幸運なことに医療スタッフの治療と看護のもと、命拾いをすることができた。この世界的なコロナウィルスの流行の中で、不幸にも感染して生死の淵を彷徨っている人たちが、一人でも多くこの峠を越すことを願っている。
台北慈済病院の専用病室では、医療者が協力し合いながら、入院したばかりの感染者の看護を行っていた。第一線で働く医療者のプレッシャーは言葉では表現できない。(写真提供・台北慈済病院)
コロナ禍収束後も覚えているだろうか
週末の朝、山道は清らかで静かだ。台湾のコロナ禍は七月二十七日からやっと、警戒レベルが2に引き下げられ、人々の生活も次第に戻りつつある。山道を歩く人は以前より少なく、二カ月あまりの静けさを経て、小鳥が高らかに歌っていた。
ネット上ではある人がこんなことを書いていた。地球にとっては人類こそが重大なウィルスであり、新型コロナウィルスは人類というウィルスの拡散を抑制しようとする、地球が自分を守るためのワクチンなのだという。これは面白い見方だと言える。今世紀最大の災難が過ぎ去ったのち、人類の、自分自身の生活習慣や命に対する見方、そして大自然への向き合い方や他の動物たちとの関わり方に、変化が見られるだろうか。
(慈済月刊六五八期より)