(↑慈済ものがたり創刊号)
大勢の無償奉仕する「台湾」のお年寄りたちが、日本語の月刊誌を立ち上げてから既に二十五年が経つ。みんなで毎月定期的に出版し、一度も途切れたことなく、300号の奇跡を成し遂げた。それは「慈済ものがたり」である。
「慈済ものがたり」という月刊誌で、その刊行物に命を吹き込んだ人は、「杜ママ」と親しまれている杜張瑤珍(ドゥ・チャンヤオジェン)大姉(だいし)である。
杜ママは花蓮慈済病院の初代院長杜詩綿(ドゥ・シーミェン)医師の夫人で、今年九十五歳になる。彼女は七十歳の時にワープロの使い方を学び始めて日本語を入力し、その次にパソコンを使えるようになり、この二十五年間、その非凡なる生命の楽譜を書き綴ってきた。
95歳の杜ママはいつも元気はつらつとして笑顔を絶やさず、心温まる雰囲気の中で、私たち日本語翻訳ボランティアの大先輩として励み、大愛を広め続けている。前列左から杜芸芸師姐、杜ママ、陳秀蓮師姐、編集者の王麗雪師姐。後列左から葉美娥師姐、林麗瓊師姐、許丕展師兄。(撮影・蕭耀華・2019年9月10日)
杜ママは、少し耳が遠いことを除いて、現在も至って健康である。彼女は日本語で翻訳チームの「歴史」をこう語っている。
「陳靖蜜(チェン・ジンミー)師姐(スージエ)は創刊号に深く関わった四人の中の一人で、最年長の家庭主婦でした。私より五歳年上で、今は既に他界しています。そして、羅美麗(ルオ・メイリー)師姐は陳靖蜜師姐や私よりも実力があったのですが、惜しいことにやはり他界しました」。
「日本人の三宅教子さんは、長く故宮博物院や台湾の観光名所のパンフレットを日本語にして解説する仕事をされていて、また、和歌の会も主催しておられる方でした。多忙な中で『慈済ものがたり』創刊号の誕生に協力してくれました」。
このように、二十五年前の「慈済ものがたり」創刊号は、杜張瑤珍女史、陳靖蜜師姐、羅美麗師姐という三人の台湾人のお年寄り主婦と一人の日本人ボランティアの三宅さんが力を合わせた結果、「生まれた」ものである。
また、杜ママはこう書いている、
「陳植英(チェン・ジーイン)師兄(スーシオン)は創刊号が出版される前、奥さんの紀雅瑩(ジー・ヤーイン)師姐の推薦で既に日本語チームに参加していました。しかし、彼はとても忙しい人で、時々、夜の時間に台北支部に来てくれました。第2号から彼も手伝ってくれるようになり、今に至っています」。
「当時、王執行長が職員の呂淑芳(リュー・シューファン)さんに、右も左も分からなかった私たち主婦を手伝うよう取り計らってくれたお陰で、創刊号を出すことができました。その頃の翻訳者は皆、日本統治時代に高等中学校を卒業した程度の人ばかりでしたので、翻訳した文章を東京在住の山田さんに送って校閲してもらっていました。私はただ、字の間違いを見つける程度の校正をするだけでした。
しかし、黒川さんが来てくださってからは、苦労しながらも校閲してくれるので、より完璧なものができあがり、私はとても嬉しく感じると同時に忍びなく思っています。黒川先生にお礼を申し上げます」。
5月、新型コロナウイルスの感染が拡大する前、陳植英先生と日本語チームのボランティアたちが人文志業センターで行われた灌仏会に参加した。最高に敬虔な心で衆生が世の汚れから離れ、仏と同じように清らかさを保ち、智慧と福徳を有することを願った。左から陳先生、周賢農師兄、陳錦河師兄、許丕展師兄。(撮影・蕭耀華 2021年5月11日)
長い間校閲を担当してくださった山田さんが、子供の世話で忙しくなったため、今は台北在住の黒川章子さんが引き継いでいる。職員としては、創刊号のお世話をした呂淑芳さんから数人の編集者を経て、今は東呉大学日本語学部を卒業した王麗雪さんが担当している。この二十五年間変わらないメンバーは、杜ママと陳植英師兄だけである。
毎週火曜日と月一回金曜日が日本語チームの勉強会の日である。杜ママと陳植英先生、黑川さん、麗雪さんのほか、徐々にボランティアが増えているが、大半は日本語教育を六年間受けたお年寄りたちである。しかし近年、日本育ちの若者が二人加わった。彼女たちは台湾に戻って大学に通う傍ら、日本語の翻訳を担当しており、ボランティアの平均年齢を引き下げてくれたことは、喜ばしいことである。
黒川さんは毎週、林口から通って来て皆の勉強会を指導している。コロナ禍が厳しさを増してからは、オンラインで勉強会になったが、皆で互いを思いやりながら、良い文章を題材にして、日本語の力を付けている。
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王麗雪さんは目下、唯一の日本語月刊誌専属の職員で、彼女は毎月、中国語の月刊誌と雑誌「経典」、慈済のニュースの中から適していると思う文章を選び出し、ボランティアに渡して翻訳してもらっている。
「内容は主題報道や編集者の言葉、證厳法師のお諭し、行脚の軌跡、環境保全、人物インタビュー、ニュースレターなど幅広く、最初の頃は證厳法師が台湾文化に関する報道を入れるよう指示していました」。
ボランティアが翻訳した後、杜ママと陳先生、黒川さんによって一回目の校閲をする。その後、レイアウトされてから二度目の校閲を経て、印刷様式に編集して、日本語組で最終校正をする。
「普段は黒川さんと陳先生がパソコンで校閲を行い、杜ママはゲラを受け取ってチェックしています」。麗雪さんは、「お二人が交換して校閲するので、訳者たちは綺麗な文章や正確な漢字を注意して使うようになりました」と言った。
校正が終わると印刷、製本、配送となる。また現在は、電子版がHPに掲載され、より多くの人が便利に閲覧できるようになった。
毎月の刊行物のほか、陳植英師兄は本の翻訳をしており、出版されたものに次のような本がある:『静思語』、『人の基本は孝行にあり』、『清らかな智慧』、『證厳法師がかたる昔話(漫画本)』。そして、「慈済ものがたり」の「編集者の言葉」を編集した『地球と共に生きていく』という本が出版されている。
「『行願して半世紀』は、二、三年前には翻訳が終わっており、今年の年末までには出版できると思います」と陳師兄は言っている。
月刊誌であれ書籍であれ、文字を通してより多くの人に慈済を知ってもらい、慈済精神を理解してもらいたいのである。
毎月の月刊誌の翻訳で忙しい陳植英師兄は、すでに出版された中国語の書籍を翻訳し、日本語で證厳法師の生活の智慧を世に広めている。
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陳植英師兄は香港に生まれ、二歳半の時に家族と共に日本に移住した。従って彼の第一言語は日本語だが、家では上海語を話していたため、以前は北京語が全く分からなかった、という。
家業を継ぐために台湾に来た陳師兄は、台湾で結婚して家庭を持った。後に子供たちの就学のためにオーストラリアに移住した。奥さんは長期間、子供たちと現地に残っていたが、数年後、長期的に台湾で生活し始めたご主人に慈済の外国語チームに参加することを勧めた。陳師兄は英語チームに参加してから、日本語チームに移った。
「陳先生の日本語はとても上手で、翻訳の他に校閲の仕事もしてくれるので、月刊誌の主力の一人になっています」と王麗雪さんが言った。
杜ママは高齢なため、「引退」を考えたこともあるが、陳先生が考え直すよう「引き留めた」のだそうだ。今、九十五歳になっても、二度と「引退」を口にすることはない。
「陳先生は私に引退させません。私も彼を引退させません」。親子のような情で互いに励まし合い、周りを感動させている。
黒川さんは九州・福岡の出身で、れっきとした日本人である。しかし、大学で中国語学部に学び、ご主人は台湾の人である。二十四年前に台湾に来て定住し、流暢な北京語を話す。
「私は日本語チームの皆さんに感服しています。皆さんは六年間の日本語教育を受けただけなのに、翻訳を引き受けているのです。多くの方は高齢になっても、命ある限り、学んで奉仕しています」と黒川さんが言った。
黒川さんはとても杜ママを尊敬している。「これほどのご高齢でも、こんなに有意義な仕事ができるなんて素晴らしいです」。
「日本には病床に伏せている高齢者が多いですが、杜ママはとても健康で、歩くスピードが実に速く、階段も上り下りします。彼女は上の娘さんと同居していますが、時には、娘さんが世話を焼きすぎる、と文句を言います」。
杜ママの他の子供さんは日本に住んでおり、長女の芸芸さんがお母さんを至れり尽くせりと世話していて「座ってばかりいないで、少し動きなさい」、「はい!お水」などと声を掛けるそうだ。
「娘がボランティアで家にいない時は誰にも構われることがないので、とても気軽で自由です」と、杜ママは冗談を言ったことがある。
黒川さんはまた、台湾で発生した災害(タロコ号列車事故など)が起こると、慈済人が即座に支援と世話をしているのを見てとても感動しているという。慈済人が心温かく被災者を慰めるので、被災者が感情を昂ぶらせたり、抗議したりして混乱が起きるようなことはなく、社会を安定させる力を発揮していると考えている。
「天理教大学の金子昭先生は、台湾に三カ月間滞在されていましたが、その間に日本語チームの勉強会にも来られました。先生は慈済のことを研究し、『驚異の仏教ボランティア』という本を書いておられます。その本が反響を呼び、非常に多くの日本の方々が台湾に来て慈済を研究しておられます。とても大きな影響を与えています」と黒川さんが紹介した。
火曜日の勉強会。麗瓊さん(後列左から3人目)はいつも一番早く来て、掃除して机を拭いたり、椅子を並べたりして、皆に快適な勉強の環境を提供している。
台湾が中華民国に戻ってから生まれた林麗瓊(リン・リーチオン)さんも、日本語月刊誌の翻訳ボランティアである。彼女は「主人の仕事の関係で、日本に四年間住んでいました。その後、ヨーロッパに八年間住んだ後、再び東京で十四年間暮らしました」と説明した。
世界は不思議なところで、異なった皮膚の色をした人にそれぞれの言葉がある。「ウイーンにいた時、秋が深まるととても寒かったのを覚えています。ある時医者にかかったのですが、辞書を持って、通訳を連れて行きました」と林さんが話してくれた。
彼女はとても熱心に勉強し、数年後にはドイツ語で手紙を書くことができるようになった。「しかし、時間と共に、次第にドイツ語を忘れてしまいました。日本語も同じで、二〇〇〇年に台湾に戻って来てから、随分、下手になりました」。
幸いにして縁があって外国語チームに参加することができ、翻訳ボランティアをしている。「学びて時に之を習ふ(学んだことを機会あるごとに復習して身につける)」、「温故知新」、ボランティアをしながら日本語を復習する良い機会なのである。彼女は、黒川さんが校閲した文章を見ると、理解できると共に勉強にもなるので、とても楽しい、と言っている。
杜ママは、同年輩の翻訳ボランティアで非常に熱心に参加してくれていた姚望林師兄(前列中央)に寄り添った。その日は、許師兄(後列右)と秀蓮師姐、杜ママ、王梅師姐、高雪白師姐が一緒だった。
高齢のボランティアたちと比べると、六十歳に満たない許丕展(シュー・ペイジャン)師兄は「中堅」と言える。王麗雪さんによると、彼は「読者」から始まって、「ボランティア」になった、とのことだ。
二〇〇三年、許師兄は中壢中山路にある慈済連絡所で、第84号の「慈済ものがたり」を目にした。その時彼は、日本語の勉強を始めて間もない頃で、一番基礎的な五十音から学び始めていた。
金門出身の彼は、十八歳の時に台湾本島の軍官学校で勉強し、苦学して英語を自修した。彼は英語版の『千手仏心』を読み、英語を勉強しながら慈済と仏法を理解するようになった。
十一年間の部隊生活を終え、七年間仕事をした後、毅然と自分を取り戻すことにした。彼は一年半、京都で日本語を学ぶ傍ら、多くの寺院を参観した。その後、台湾桃園県観音区にある仏教弘誓學院に通い、法鼓山の中華仏学大学院の修士課程に進んだ。
「インドへ巡礼に行って戻った後、事故で怪我をして、大学院に通い続けることができなくなりました」。
偶然に中壢の慈済で日本語の書籍を五冊買うことができ、それを大事にした。しかし、彼はそれらの中に印刷ミスを見つけ、直ぐ慈済人文出版社に電話した。
その後、王麗雪さんが「慈済ものがたり」252号を彼に郵送したことがきっかけで、慈済の日本語チームと縁を結んだ。
許師兄は全ての「慈済ものがたり」を二十カ月かけて読み終わり、惹きつけられた文章をまとめた。そして再び、十八カ月かけて二回目を読み終えた。それによって日本語が上達しただけでなく、慈済に対してもより深く理解することができたのだそうだ。
許師兄は、読者から翻訳ボランティアになった人だ。「読む」のは比較的容易だが、聞いたり話したり、書いたりするのが難しいと言う。
だが、許師兄は努力して翻訳を続け、今は皆に認められるまでになった。以前杜ママが翻訳していた「編集者の言葉」は今、彼が引き継いでいる。黒川さんは、「許師兄の翻訳はとても上手ですが、なぜか話すことはあまり得意ではないようです」と残念そうに言った。
慈済には『衲履足跡』のように、證厳法師の日々を記録した部数の多い書籍がたくさんあり、一冊ずつが分厚いものである。それを五年ごとに優れた部分を一冊の本にして出版することができれば、より多くの人に読んでもらえるのではないか、と許師兄は提案している。
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御山さんと荳荳さんは日本で育った台湾人の女性で、二十歳を過ぎてから台湾に戻って大学に通い、日本語チームに参加している。彼女たちのお陰でチームの平均年齢が引き下げられた。
御山さんのフルネームは御山凛といい、日本国籍を取得しているそうだ。母親は彼女を「瑄瑄(シュェンシュェン)」と呼んでいる。彼女は三歳の時に両親と共に東京に移住した。お父さんの江正殷(ジアン・ジョンイン)さんは早稲田大学の教授で、お母さんの羅文伶(ルオ・ウエンリン)さんは慈済委員である。
羅さんは、「私の父は羅陸源(ルオ・ルーユエン)、母は江碧雪(ジアン・ビーシュエ)と言います。二人とも400番代の慈済委員です」と説明した。ということは彼女自身、すでに二代目の慈済人で、凛さんは三代目ということになる。
凛さんは上智大学の哲学部を卒業した後、台湾中国医薬大学に合格し、今は三年生としてお母さんと共に台中に住んでいる。
「大阪の静慧(ジンフイ)師姑(スーグー)の紹介で日本語チームに入りました。分からない言葉は辞書をひいたり、お母さんに尋ねたりしています」。
自分で翻訳した文章が、黒川さんや陳先生が校閲した後で月刊誌に掲載となった時、感無量だったそうだ。「縁のある人がそれを読み、誰かの助けになれば、と思っています。どの文章も誰かを救うことができると思います」と彼女は話してくれた。
荳荳さんの本名は王譽蓁(ワン・ユージェン)で、十二歳の時に両親と共に日本に移住した。お父さんの王騰衛(ワン・トンウエイ)さんはハイテク企業で設計技師として働いており、お母さんの陳麗芬(チェン・リーフェン)さんは主婦である。二人とも慈済日本支部の優秀なボランティアである。
彼女は高校を卒業した後、台湾に戻って台湾大学国際関係学部に入学し、今は三年生である。彼女が日本の華僑学校に通っていた時、凜さんは高校生で、彼女は中学生だった。今二人とも台湾で日本語チームに参加して翻訳をしているというのは、縁のあることだ。
「翻訳するので、文章を何度も読み返します。慈済人のストーリーや環境保全、コロナ対策等に関する文章をたくさん読んでいますが、とても心を打たれます。私自身の収穫が一番大きいのですが、これらを読んだ人も何かを得られれば、と思っています」と彼女が言った。
中国語、日本語、英語に精通した荳荳さんは今、アラビア語を勉強している。彼女の願いは「社会のために尽くす」ことである。
今年初め、陳先生夫婦(左から6番目が奥さんの紀雅瑩師姐)の招待で、日本語チームの新春会が開かれた。若い2人(右から2人目が御山凜さん、3人目が荳荳さん)が来てくれ、皆、楽しい時間を過ごした。大家族のような日本語チームには様々な年齢の人がいる。皆で一緒にボランティアのドキュメンタリーを日本語で広め、平和で災害のない世にする手伝いができれば、幸いである。
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「慈済ものがたり」は300号を迎え、二十五年の歳月が流れた。九十五歳という最高齢の杜ママから二十一歳の荳荳さんまで、皆、見返りを求めないボランティアである。
「そのほかの翻訳ボランティアとして、高雄の百年翻訳社、詹明峰師兄、翁俊彬師兄、李曉萍師姐、江愛寶師姐、何慧純師姐がおられます」と王麗雪さんが説明した。
この他、年配の方では姚望林師兄と廖連恂恂さんご夫婦、王得和師兄、沈國明師兄、楊棟沂師兄、呉薌薌師姐、張美芳師姐、李全妃師姐、高碧娥師姐たちも初期の頃に翻訳に尽くしてくれた人たちである。
今は亡き羅美麗師姐、陳靖蜜師姐、楊金華師兄、葉英晉師兄たちも、かつて「慈済ものがたり」に足跡を残してくれた。
彼らは困難をものともせず、奇跡を起こしてくれたのである。