サンディープ君初めて街へ行く

インド

仏陀の足跡を尋ねるはずの撮影中、不意に捉えた画面には、病に苦しむ名も知らぬ男の子が映った。その姿に證厳法師の目は釘付けになった。

台湾とインドのボランティアは連携してその子を探し出しただけでなく、千里を超える距離を付き添って医者に診てもらった。

経典劇「静思法髄妙法蓮華」の伝道上映の完成度を高めるため、撮影チームはインドへ赴いてラージャグリハなどの地域の映像を撮り、観客を二千五百年前の仏陀の足跡へと導くことにした。六月十二日、その進捗について報告があり、映像が送られてきた。すると予期せぬことだったが、画面に一人の男の子が映った。体は痩せ細っているがお腹が太鼓のように大きく膨れている。この姿に證厳法師の目は釘付けになり、大きく慈悲心を動かされた。それからの二日間は、朝の開示でもこの病に苦しむ男の子のことを話し、気にかけていた。

病の苦しみを衝撃的に映し出したこの画面を、見た人は誰でも忘れられないだろう。慈済は基金会全体で国境を超えてこの子を探すことにした。まずこのドローン撮影した会社に尋ねたところ、村の名前が分かった。インドは台湾から四千二百キロメートルの彼方にあり、面積は台湾の九十一倍だ。そこで人探しをするなど、まるで海に落ちた釣り針を探すようなもので、言うは易く行うは難しである。

皆は、最近慈済ボランティアとなったインドのシーグオさんが、ここラージャグリハに住んでいて、中国語のガイドをしていることに気がついた。六月十三日にこの人探しの任務を心得ると、十四日午前九時半に出発したが、分かっていることは村の名前とその写真、映像があるだけだった。彼はオートバイを走らせ、日差しが照りつけて日中は摂氏四十六度から四十八度にも気温が上がる猛暑の中、村に一つ辿り着いてはまた一つと尋ねて回った。

「これがこの映像に出てくるガジュマルの木で、その右側に道と言えるかどうかわからない道があって、この男の子の家まで続いているのです」。夕方五時になり、日も暮れかかった頃に、彼はとうとう映像に映っていたその木に辿り着いた。尋ね回った村の七つ目がそのバドレプールという名の村に着き、村人に尋ねながら、日が暮れる前にその男の子を見つけ、直ちにオンラインで台湾のボランティアに報告した。その時の感激で、彼は疲れも忘れるほど喜びが込み上げ、目を潤ませた。

人海でその子に出会う

名前をサンディープというその男の子は今年九歳で、七人の兄弟がいて、十人家族で暮らしている。一番上のお兄さんは十八歳で、すでに家庭を持っていて子供が二人いる。サンディープ君の家を訪ねると、典型的な農村の景色である舗装されていない道、レンガ造りの家などが目に飛び込んできた。十人で住んでいるというその家には、ベッドが一つしかなかった。屋外では、母親が稲の茎のような作物を刈り、牛などの家畜を飼っていた。質素な佇まいが、楽ではない生活を表していた。

台湾のボランティアは、オンラインの画面を通して、證厳法師と慈済基金会が彼らに関心を寄せていることを伝えた。すると母親は驚きと喜びを隠せない様子でこう言った。「心から慈済に感謝します。この子に治療と教育を受けさせてあげてください」。

仏陀の生まれた国で、海を超えて辿り着いた無私無欲の大愛は、浸透してシーグオさんの心を打った。大家族が貧しい暮らしをしている様子を目の当たりにしたシーグオさんはすぐに米を二十五キロと小麦粉を十キロ、ジャガイモを五キロ、食用油一リットルとスパイス、ビスケット、チョコレートを購入して届けた。

彼はこのように感動を行動に移し、ブッダガヤに住むもう一人のボランティアのシーヤンさんと連絡をとると、六月十六日に二人で再びこの場所を訪れ、サンディープ君の治療について話し合った。

縁とは不思議なもので、この二人は二〇一三年にニューデリーで中国語を学んでいる時に知り合い、九年後に慈済の関係で再び連絡を取ることになったのだ。彼らの間には七十キロ、車で三時間かかる距離があった。

シーヤンさんは、出発する前によく考えて、サンディープ君へのお土産を用意した。文房具と新しい服だった。膨れたお腹でも着られるように大きなサイズにしたそうだ。

しかしやっと新しい服を着られたというのに、サンディープ君は笑顔になれなかった。おそらく彼は、自分が人と違うことで嘲笑されるという境遇にいたため、子供らしさや素直さを忘れてしまったのだろう。不幸な環境で育った彼の無関心で空虚な表情を見ると、一層手を差し伸べたくなった。

五年前、サンディープ君はビハール州の州都パトナ市の病院で治療を受けたことがある。その時はX線と超音波検査をしてその報告を持ち帰った。経済的事情に加えて手術にはリスクがあるという医師の説明もあり、それ以上は治療を進めなかった。

二人のボランティアは、この報告を台北慈済病院の趙院長に送った。専門的判断によると、彼のお腹の膨らみはカイチュウや腹水によるものではなく、腎尿路の病気ではないかということだった。そこで、児童泌尿器科の権威である楊副院長が引き継ぐことになり、直ちにコルカタとニューデリーの医師たちと連絡をとり、オンラインで治療の可能性を検討することにした。

シーヤンさん(左)とシーグオさん(左から2人目)は、手術が終わって集中治療室に移動するサンディープ君に付き添った。

二十時間かけて未知の門を叩く

六月二十三日に、治療の説明を受けるため、サンディープ君とご両親はシーグオさんの付き添いの元にブッダガヤへ向かった。そこでシーヤンさんも合流した。サンディープ君は入院して検査を受けることになった。

翌日、シーヤンさんはX線検査の写真をもらうとすぐに慈済に連絡した。趙院長は報告を読むと、親心をこめて言いにくそうに見解を述べた。「これは自然な現象と言えます。治療をしなかったために病気が徐々に進行して極端な外観を形成してしまったのです」。

「もし台湾に来ることができるなら、適切な良い治療を受けられますが、このお子さんはまだ一度も村を出たことがないのですから、配慮してあげなければなりません」。趙院長はサンディープ君のために多方面にわたって検討を重ね、治療の方向性を打ち出した。「右の腎臓は正常ですから、適切な治療をすれば成人する見込みは十分にあります。左の腎臓についてもう少し調べてみて処置を決めましょう。まずニューデリーにいる専門家のスージア先生に、のう胞に溜まった液体を吸引する治療をしてもらってから、今後の治療を決めましょう」。

ニューデリーは、自宅のあるバドレプール村から千百キロも離れている。七月十八日、シーグオさんは親子に付き添って、最寄りのバス停からラージャグリハまで行って列車に乗り、三時間かけてガヤ駅に着くと、シーヤンさんと合流した。そこからニューデリーまでが問題だった。七、八月はシーズンなので切符がなかなか買えないのだ。シーヤンさんがやっとの思いで快速列車の切符を手に入れたが、それでも十二時間かかる。列車を降りてから病院までは、さらに一時間ほどなので、全て合わせると二十時間の道のりとなった。

サンディープ君の一家は、村から遠出をしたことがない。全てが新しい体験だ。シーヤンさんが寝台車の座席を整えてベッドにしてあげたので、ご両親は恐縮し、サンディープ君ははしゃぐこともなく、旅の疲れからすぐに眠りに就いた。

夜が開けるとベッドを座席に戻して座った。シーグオさんはいつも笑顔で彼らに接し、食事をする時も温かく親子を見守った。自分にも小さい子供が二人いるので、親としての苦労も楽しみも共感することができるのだ。

気温は高く、長距離列車の中ではみんな汗だくになり、その苦労は言うまでもない。ご両親はほとんど黙っていたが、子供の未来のためには恐れてはならない時であり、この機会を逃さず、勇敢に前に進んだ。

サンディープ君のウエストは、治療後に72センチから59センチに縮まったが、まだ観察して腎臓の機能を見極めなければならない。

苦労は厭わない ただこの命を救いたい

「こんなになるまで放っておいて、なぜもっと早く医者へ行かなかったんですか。早く治療するべきです」。アポロ病院はインドで最高と言われる病院である。台北慈済病院と連携しているスージア医師が自ら治療してくれた。お腹が台湾スイカのように膨れた子供を目の前にして、そのお腹の大きさに驚きながらこう言った時、母親は改めて我が子の病状を認識し、一刻を争う状態なのだと知った。そして、慈済ボランティアが自主的に訪ねて来て、時間と競争するように善意を尽くして寄り添ってくれる理由がわかった。

その時、シーヤンさんが病院の手続きに奔走し、シーグオさんが親子に付き添って落ち着かせていた。サンディープ君はまだ小さいので、医師は母親に手術服を着せて、手術室に入ることを許してくれた。一時間ほどで体液排出の手術は終わり、集中治療室で観察することになった。お腹が小さくなったのは見ただけでもわかった。

お腹に溜まっていたのは全部尿だったなど、想像できただろうか。毎日どうやって生活していたのかわからない。手術で排出したのは七リットルで、その後も数日間、少しずつではあるが排出が続いた。ウエストは七十二センチから次第に五十九センチまで縮んだ。医師は、腎臓機能について一カ月から一カ月半の間観察してから診断すると説明した。

そこまでは順調だったが、また一つ衝撃的なことが起こった。「お腹は平らになると思っていたのですが、内側にへこんでしまったのです!」。シーヤンさんは慌てふためいて台湾と連絡を取った。趙院長によると、長期間圧迫されていたので内臓がすぐには元の位置に戻っていないだけで、だんだん回復するということだった。予想通り三日目になると、張り詰めていたお腹の皮膚も、徐々に正常に戻り始めた。

「ベッドで足を高く上げ、逆立ちに似た姿勢をとって、もう少し尿が排出できないかやってみてください」。オンラインで、趙院長が丁寧に指示を出した。それを受けて、シーグオさんとシーヤンさんはサンディープ君にいろいろな姿勢を取らせた。管の中の尿が移動して漏れ、体にかかっても気にしなかった。

趙院長に帰って良いかどうかを確認してもらうため、シーヤンさんはもう一つエコー検査ができるクリニックを探した。「エコー検査の報告から見ると、体液排出は非常に成功しており、まだ少しは残っているようですが、自宅に戻っても問題ありません」。専門家の趙院長の意見をもらったので、彼はシーグオさんとやっと安心して、サンディープ君が帰宅する準備をすることができた。

「最初に疑ったことからは信じられないことですが、今の状態を目の当たりにすると、本当によくなったのです」。七月二十四日、帰宅すると近所の人たちが一斉にサンディープ君に会いに出てきた。みんなの顔には驚きと歓喜の表情があふれていた。

ボランティアが家まで付き添ってくれた後、「あなた方が訪ねて来なかったら、私は子供の命を助けることが出来ませんでした」と始終口を開かなかった父親が、感動を抑え切れず、感謝の言葉を口にした。また、お爺さんとお祖母さんも駆けつけて、シーグオさんの手を握りしめ、「敬愛なる上人様、子供の人生を変えることができて、感謝しています」と言った。

シーグオさんが、「シーヤンさんがいてくれなかったら、私もどうしたらいいのか分かりませんでした」と言った。今その過程が終わり、彼はシーヤンさんが支えてくれたことに感謝した。シーヤンさんは振り返ってこう言った。

「こんな病状は初めて見たので、本当はとても怖かったのです。でもシーグオさんがいてくれて、ずっとこの子の世話をしてくれました。だから治療も成功したのです」、と。

台湾とインドの慈済人が連携してサンディープ君を救うことができたが、愛はまだ続いているのだ。


(慈済月刊六七〇期より)