新しい家ができた─ようこそ我が家へ!

インドネシア

イード・アルフィトル(ラマダン明けを祝う行事)の時、清潔な床に座って、強固な壁にもたれながら、親族と一緒におしゃべりを楽しみたい。これが小さな漁村に住む貧しい村人たちのささやかな願いだった。

慈済はその願いを叶えてあげ、一緒に、潮が満ちる度に水害に見舞われてきた過去に別れを告げた。

カマル・ムアラ村は、インドネシア北ジャカルタの海辺の漁村である。村人の家のほとんどが道路より低い位置にあり、潮が満ちると浸水する。二〇一八年、村の世話役の一人が慈済基金会に支援を申請した。ボランティアが実地調査を行った後、貧困改善と住宅の建設プロジェクトが立ち上げられた。その第一段階として、二〇一九年十一月に新居引渡しが行われた。

その後、コロナ禍で活動を一時的に停止したが、二〇二一年五月、ボランティアたちはやっと、第二段階のプロジェクトである、五世帯の新居建設をするために、再び村へ入った。二〇二二年四月十五日、ボランティアは、村人たちが入居を喜び、安心してイード・アルフィトルのを祝うことができるよう、カマル・ムアラ村のジャミアル・フダ・モスクで、新築引渡し式を行った。

新居の前に立つムハンマドさん(右から2人目)と彼の家族。妻のカルティニさん(右端)はイード・アルフィトルの期間中、ボランティアたちをお客さんとして招待した。

さらばバスルームのない日々

慈済は各家庭に寝具を提供すると同時に、ボランティアの間でガスコンロ、電鍋(電気釜)、扇風機、ワードローブ、テーブルと椅子、プラ製衣装ケース、ベッドなど家電製品や家具を募って集めた結果、入居者が新生活を迎えるのに十分な生活用品が揃った。

新築引渡し式の後、ボランティアは五つのグループに分かれて入居者の家具運びを手伝った。式典でテープカットをした時、とても緊張したというネネンおばあさんは、「本当に嬉しくて幸せです!感謝の気持ちでいっぱいです」と傍にいたボランティアの盧德汕(ルー・ドーサン)さんに言った。

ボランティアは、当初の実地調査から家の解体、再建、塗装、新居引き渡しに至るまで、村人たちに付き添ってきた。盧さんはネネンおばあさんに「さあ、もう泣かないで。つられて僕も泣きそうです。おばあちゃん、おめでとうございます。来週はベッドを届けますね」と冗談を言った。

ネネンおばあさんの孫娘、ラスティちゃんも新居に足を踏み入れた瞬間、感激で涙が溢れた。ラスティちゃんは今年中学一年生。将来の夢は先生になることで、新居を清潔に維持すると約束した。「以前は雨が降ると雨漏りで本が濡れてしまうので、いつも急いで宿題を終わらせていました。今、新しい家ができてとても嬉しいです!」

慈ボランティアが新居に引っ越したケア世帯に祝福の言葉を贈ると、彼らは恥ずかしそうに感謝の意を述べ、各方面からの愛の心で建てられたこの新居を大事にすると約束した。

入居者となったムハンマドさんの妻のカルティニさんは、ボランティアに次のように語った。「何日か前、工事中の新居へ行って中を覗いて見て、私は泣いてしまったんです。そして、トイレの前にしゃがんで感謝しました。私の今までの人生に、バスルーム付きの家などありませんでした。アッラーに感謝!本当に素晴らしいです!」。

カルティニさんによると、彼女たちの元の家は家とは言えず、頑丈な壁も快適なベッドもなく、風雨から室内を守る屋根も、最も基本的なトイレやキッチンさえなかった。学校の清掃員として働いているカルティニさんは、トイレや入浴はこっそり学校で済ませ、校長や教師に見つからないようにしていた。新居に入居した今、彼女は全ての不便さから解放された。

新居の面積は十六・三坪あり、間取りはバスルーム付きの2LDKで、一家で暮らすには十分なスペースである。入居がイード・アルフィトルの期間と重なったので、お祝いすることができた。カルティニさんは喜んで言った。「キッチンがあるので、イード・アルフィトルの期間に電鍋でマレー風のちまきを作れるし、ガスコンロの使い勝手は、以前のディーゼルコンロよりも便利です。皆さん、イード・アルフィトルの期間中にお客さんとして遊びに来て下さい。きっとですよ!」。

カマル・ムアラ村の家屋のほとんどは道路より低く、ボランティアは腰をかがめて中に入って調査した。 (撮影・アナンドヤヒャ)

ボランティアとして最も嬉しいこと

カマル・ムアラ村建設支援プロジェクトの総責任者を担当した盧さんは、最初の調査でコマ・ルディンさんの家を見て強いショックを受けた。彼の家の横は元々空き地だったが、長期にわたって沿海地域の洪水で侵食を受け、沼地となってしまった。家に浸水して倒壊するのを防ぐために、彼は貝殻を敷いて床面を高くしたが、屋根の高さはそのままだったので、家に入るたびに腰をかがめなければならなかった。

当時、盧さんは、こんなひどい家は見たことがなかったので涙を流した。「自分の住まいがどんなに悪いと言っても、こんな酷い状況ではありません。そして彼らは、愚痴をこぼしたり恨んだり、人からの同情を期待したりすることなく、何十年もそこに住んで来たのです」。

あの時、現地のあるモスクの建設工事が、七年もかかっているのに遅々として終わらないことにボランティアたちは気付いた。みんなで話し合った結果、モスクの建設支援を優先し、当初予定していた貧困改善のための第二プロジェクトは、その後にすることにした。

当初は、住民たちが慈済のことを知らなかったために誤解が生じたが、交流を重ねるうちに、慈済ボランティアの訪問を次第に受け入れるようになった。ボランティアたちはわざとらしくすることなく、誠心誠意で接したので、ついに彼らの警戒心を解くことができた、と盧さんが語った。また、「私たちが愛の心を表せば、人々はきっと理解してくれます。子どもたちは『師姑(スーグ)』と『師伯(スーボ)』の区別がつかず、私のことを『師姑』と呼びますが、挨拶してくれました。それでも私はうれしく感じました。慈済のイベントがあれば、彼らも手伝いに来てくれます」。

瞬く間に三年が過ぎた。以前の乱雑な環境はすっきりして綺麗になった。「彼らが私たちのアドバイスをきちんと守ってくれていることに感謝します。これも彼らの衛生的な環境と健康を考えてのことですから」と盧さんは心から喜んだ。

ある時、工事の進み具合を見ていた盧さんのところに、一人の住民が時折、水が滴る黒い手提げ袋を持って、遠方からやってきた。彼は「これは私が釣った魚です。どうぞ受け取ってください」と言った。住民たちは、我々ボランティアが菜食主義者であることを知らなかったようで、断るのは忍びなかったため、とりあえずその好意を受け取ってから他の人にあげた。「その後、私たちは菜食主義者なので、そういう心配は無用ですと、住民たちに説明しました。新居を大切に使っていただければ、私たちは十分に嬉しいのです」と言った。


(慈済月刊六六八期より)