隔離が必要だと通達された時、速やかに準備しておいた身の回り品のバッグを持って新しい環境に移った。毎日、窓の外にある草木を眺めながら、自分の心境も映して観ていた。
新型コロナが津波のように押し寄せ、私たちを覆い尽くしてしまった。幸い、前もって防疫対策の通りに身の回り品を準備しておいた。隔離が必要だという通知を受け取った時、迅速に身の回り品を持って静かな環境に移った。独りで過ごす日々で、心の修養に専念し、体を大切にして、自分の心を見つめた。窓の外の青々とした芝生を眺めながら、一本一本の木が大地に作る木陰、鳥や虫の透き通った鳴き声、美しい草や木の全てが精舍の師父たちの欲のない日常を反映していると言える。一方で、自分の心はこのような心境になっているだろうか。
家を出る直前にスマホのメモに入力した隔離期間中にできる事柄を調べたり、持ってきた本を開いてじっくり読んだ。また、スマホにはユ―ティリティログがあるのを見付けて、日頃の写真を整理したついでに、気持ちを少しずつ整え、日々の積み重ねで得られた小さな幸せを振り返ってみた。コロナ禍においてもいつも通りの暮らしと修行ができるのは、実に感謝すべき幸せである。
短期間、新しい環境に泊まっていても、絶えず精舎の師父たちから愛と思いやりの品々が届いた。防疫用品の本草飲ハーブティーとその濃縮液やロールオンオイル、救急箱、体温計、血圧計、血中酸素濃度測定器が入った医療パック、即席麺、榖物粉などが入った祝福パックなどである。衣食住の不足がなくなり、師父の祝福と共に、毎日、簡易検査キットで陰性を確認してほっとした。自主隔離は、大勢で生活するル―ムメイトの不安や心配、パニックなどのマイナス感情を和らげるだけでなく、突然やって来る試練に直面する訓練をする場でもある。全力で状況に合わせ、心身を整えて落ち着けば、気持ちも楽になるのだ。自分が平穏に暮らして初めて他の人に平穏をもたらすことができるのだから、互いに皆の平安を守り合い、愛と善でもって、コロナ禍を安全に乘り越えよう。
生活の元来の姿
静思精舍の毎日は、朝の三時五十分に魚板(ぎょばん)が打たれ、朝の日課、お諭し、朝食、雑用、「協力」工場の仕事に取り掛かる。忙しい一日を法悦に浸りながら終え、夜九時四十分に魚板が鳴ると就床し、心身の疲労を回復させて、再び新しい一日を迎えるのだ。精舎の生活の中で一日また一日と修行を積み重ね、良い生活習慣を身につけるようになり、心も時の流れと共に広がる中で、海が無数の川を受け入れるように、寬容さを身につけることを学ぶのである。
かつて證厳法師が語った白浄比丘尼の物語を読んだことがある。白浄比丘尼は過去世ではとても貧乏で、もっていた唯一の財産である臭くて汚い毛布をお釈迦さまに敬虔に供養した。それは、お釈迦さまにとってこの上ない供養だった。白浄比丘尼はどの世でも禅定し、三昧の中で心が揺らぐことはなかった。生活は元々、安らかで淡泊で、無為無欲であった。尼僧団に入ってからは、そういう無為な清らかさから直ぐに悟りを得て、阿羅漢果の境地に達した。
《無量義経偈頌》の「徳行品第一」には、「その菩薩たちの心は静かに落ち着いており、常に一つの道に集中して思いを散らさず、どんな境遇にも安んじ、物事にこだわらずさっぱりとしている」とある。この偈頌を暗記するのはとても簡単だが、自分がこういう境地に入ることはできるのだろうか。
今生は、精舍で修行できることに感謝している。安らかで心配のない暮らしの中で、ずっと善に導いてくれる人がいて、何か試練に出会っても、仏法や證厳法師、師父、清修士(蓄髪修行者)などのお陰で無事に過して来た。隔離期間中、皆が私の安否を気遣って、精一杯力を貸してくれた上に、自分の安楽を求めず、私が一日も早くいつも通りの修行生活に戻ることを願ってくれた。重ねて感謝するしかないこの気持ちを忘れずに修行を続け、愛と感謝を伝えて行きたい。
(慈済月刊六六九期より)