心に欲がないということは何も求めないことであり、何も求めない善の念が大きくなれば、誘惑に負けて悪に向かうようなことはなくなります。
自分が模範を示すことで、人を悟りに導く
彰化での歳末祝福会で、上人は彰化での慈済志業が既に四十年になることに言及しました。初めは数人が発心して慈済の志業を始め、善の種を蒔き、会員を募って委員に育て上げました。今ではこんなにも多くの慈誠と委員がいます。その多くは全く慈済を知らなかった人たちで、少しずつ理解して会員になり、慈済委員の後ろ盾となることを発心して他の人が会員になるよう呼びかけています。一方、自分も養成講座に参加して委員の認証を授かり、菩薩道を歩む志を立てました。今では志を守って仏法を奉じ、社会大衆のために奉仕しています。
「彰化に来ると必ず、百四歳の黃蔡寬(ホワン・ツァイグアン)師姐が、他の師兄や師姐たちと一緒に私を出迎えてくれます。最も賞賛に値するのは、彼女が百歳を超えても、目も耳も衰えが見られず、頭もはっきりしていて、心に偏りがなく、幼い頃からこの歳になるまで奉仕し続けている姿です。とても価値のある人生です」。
「生命は役に立ってこそ価値があるのですから、自分で老いたと思ってはいけません。菩薩の大願を発心したからには、大衆に分け入る使命を持っているのですから、自分の健康を守り、動き続け、体を鍛えなければなりません」。
上人は彰化の師兄師姐たちが引き続き人間(じんかん)菩薩を募るよう励ましました。認証を授かった委員には、続けて慈済ボランティアたちの先頭に立ち、機会を逃さず大衆に慈済を紹介することで、会員を募って欲しいのです。慈済のことを知らない人たちに、慈済が台湾国内や海外で貢献していることを知ってもらうのです。人間(じんかん)菩薩は代々引き継がれるべきで、ここでも家族で慈済に参加している姿を度々目にすることができます。三代または四代が集まって、皆で慈済という大家族に投入してボランティアをしている様子を見ては、とても喜ばしく感じています。その心掛けがあれば、誰でも模範を示して家族や隣人を導くことができますし、そうして結集した心が世の中を救うのです。
暗闇に微光が灯る
上人は十一月六日の彰化歳末祝福会で、全世界の慈済人が長年、地域の恵まれない家庭をケアしたり、誠意でもって災害支援に臨んで、助けを求める声を聞けば支援に駆けつけたりしていることに感謝しました。「台湾は善と愛に満ちた宝島です。慈済人は無私の大愛で奉仕し、人間(じんかん)に温もりをもたらしていますから、台湾は菩薩を養成する道場とでも言いましょうか、世界地図で見ると、台湾はとても小さな島ですが、この小さな土地から絶えず蛍が飛び立ち、それが世界のさまざまな場所へと到達していったので、益々多くの人が暗闇の中で希望の光を見るようになりました」。
そして、こう続けました。「無明の濁流が流れる人間(じんかん)には二つの極端な現象が存在します。一つは善であり、もう一つは悪です。凡夫はとかく善と悪が綱引きする中にいますが、善が勝てば、平穏に暮らして、仏法に満ちた喜びの中に浸ることができます。しかし、悪が勝った時、人と人の間に争い事が起こっては尽きず、自分も他人も心休まる日々を過ごすことはできません。衆生は欲望によって心が乾き切り、善悪の綱引きの中で、簡単に悪の誘惑に負けてしまいます。心にある欲望を取り除くには、仏法を取り入れるしかありません。そうすれば、その教えは清浄無垢なる甘露の法雨で心を潤し、欲のない善の念を育てることができます。欲のない善とは即ち最上の善であり、心に欲がないことは即ち何も求めないことです。心に欲望がある時、善行しても煩悩に満たされています。仏教に学ぶと、心から欲望を取り除くことができるのです」。
「慈済人の心には、仏法という宝で甘露の法雨がもたらされていますから、乾き切った人の心を潤し、人々が無明を取り除くよう導き、心に善法を取り入れさせることができます。実際に、各地の慈済人は多くの独居老人や身寄りのない病人を訪ね、不足していた物資を補い、壊れた家屋を修繕しています。それ故に、慈済人は観世音菩薩のように、衆生が助けを求めていれば、そこに菩薩が訪れ、必要としているものを与えているのです」。
「今年の祝福会でも至る所で菩薩の姿を見ることができました。皆さんの分かち合いを聞いていると、誰もが価値のある人生を歩んでいるのが分かりました。ですから、人生を省みて価値を認め、この人生で何をして来て、善と悪のどちらが多かったかを振り返って見るようにと、私はいつものように言いました。人はこの世を去る時、『業だけが付いてまわり、何も持っていくことはできない』のです。過ちを犯したのであれば、早く懺悔して改め、縁を逃さず人間(じんかん)に福をもたらすのです。人間(じんかん)に福をもたらすのは、自分の力だけではできません。一匹の蛍が暗闇の中で飛んでいても、孤独で目立ちません。もし、蛍が群れを成して飛べば、人々の目を引きつける美しい光景となるのです」。
(慈済月刊六七四期より)