真夜中に水を汲みに行って取り合いになり、喧嘩になる。水汲みに行く途中で蛇に噛まれることも、ゾウの群れに追いかけられることもある。
または汚れた水を飲んで病気になることもある。ジンバブエではそれは日常茶飯事だ。慈済ボランティアが井戸を掘るのは、命を救うことなのである。
2020年、コロナ禍が続く中、人々はきれいな水が手に入らなかった。慈済ボランティアが井戸の支援建設を始める前、朱金財さんは、現地の水汲み場である水たまりを調査した。 (撮影・ヘレンジサイル ジヤネ)
最近、読書会で《法華経・髻珠喩(けいしゅゆ)》を読んでいる。経文には転輪聖王について言及している‥「聖王は、戦いで大きな功績を残した兵士を見ると、とても喜び、畑、家、集落、町、衣服や防具、さまざまな宝物など、褒美を与えた。しかし、まげにさす宝珠だけは決して人に与えなかった」。
まげにさす宝珠とは、大乗仏教の甚深妙法で喩えられている。法師はよく、「法華経は諸経の王である故に、機が熟していないうちに、相応しくない人に、適当でない場所でやみくもに仏法を説けば、相手を驚かせたり、誹謗中傷を引き起こしたりするので、容易に与えてはいけません。このことから、この宝珠の貴さが分かります」と言っている。
證厳法師はまた、この宝珠には濁った水を清める徳があり、それを濁った水に入れると水が澄むと言っている。水道がなかった時代、人々は水を汲んで持ち帰り、一粒のミョウバンを入れて、濁った水が清らかになってから、飲めるようにしていた。
今年の五月中旬、台湾に戻ったジンバブエのボランティア、朱金財(ヅゥー・ジンツァイ)さんが次のように述べていたのを思い出した。「私たちは近年、水不足の村々を調査し、村人を水不足の苦痛から解放するために、直接、重点的に井戸を掘る支援をしています」。
ある六百八十世帯、約三千人の村では、村人が直径二センチほどの水道管を丘の中腹に差し込み、口で強く吸って水を汲んでいると聞いたボランティアの朱さんは非常に驚き、村の酋長に連絡してから、ボランティアに見に行かせた。思った通り、水を汲む村人の窮状を目の当たりにした。その水道管から出てくる水は、二十リットルのバケツ三つ分しかなかった。それが終わると、水がまた出て来るまで数時間待たなければならない状況だった。
水源は遠い山奥にあり、誰も水を汲みに来ない夜になると、水は溢れ出て、窪んだところに水が溜まる。村人はその水を汲むために二、三時間歩かなければならないが、きれいな水を得ようと早めに行って汲む人もいれば、列に割り込む人もいるため、女性たちはよく、水を奪い合うために、殴り合いになる。
酋長は秩序を保つために、列に割り込んだ人は一頭の羊を差し出すこと、という罰を科した。水欲しさから、一日に二人が続けて列に割り込んだこともあった。羊を飼っていない人の場合、自分で何とかしなければならない。一頭の羊には約八十ドルの価値があり、大きく育てるには八~九カ月以上かかるので、羊はジンバブエの人々にとっては大きな資産なのである。
その後、酋長は、皆で朝三時に水を汲みに行き、誰もが決まった位置に立ち、自分の範囲を超えた場合は、罰として一頭の羊を差し出すよう規定した。これら全ては、村人の生活がどれほど困窮しているかを物語っている。
二〇二一年、八人の現地ボランティアが、村人の状況を理解するために車で現地を訪れた。コロナ禍のため、夜九時以降は夜間外出禁止になっていたため、彼らは車の中で寝た。朝三時に起きて、村人の水汲みの様子を観察した。すると、彼らは皆ルールを守って水を汲んでいた。
しかし、これほど長い距離を歩いて、一回に二十リットルバケツ一杯の水しか汲むことができない。しかも、最初の十五~十六バケツの水は比較的きれいだが、後になるにつれて水が濁ってくる。地元ではミョウバンでさえ簡単に入手できないので、彼らは水を持ち帰ると、布でろ過していた。ジンバブエでは、多くの日用品が自然素材でできていて、石けんにも化学成分が一切含まれていないため、服を洗った後の水を畑に撒いたり、鶏や羊などの家畜の飲み水に利用している。
一口の水は宝物よりも貴重
食事は大切だが、水は最も大切だ。水がなければ、何もできない。内陸国のジンバブエは、国土の大半が平均海抜千余メートルを超える、広大な高原にあり、水資源は極めて乏しい。首都のハラレでさえ、週に一日半しか水道が使えないほどの水不足に陥っている。
二〇〇八年、ジンバブエでコレラが蔓延した時、深さ四十メートルの井戸を掘るのに一万二千米ドルかかっていたが、後に五〜六千ドルまで下がった。慈済は、苦しむジンバブエの人々のために井戸を掘ることにした。二〇一三年十一月に最初の井戸が完成して以来、新設と修復を含め、今年までに百五十六本の井戸が完成した。朱さんは、「当時は四十メートル掘っても、しばらくすると水が涸れてしまいました。今は八十メートルの深さまで掘削し、約十二~十四人のボランティアからなる改修チームも編成され、水資源の調査と部品の修理を同時に行い、それぞれの井戸の寿命を延ばしています」と言った。
ボランティアは山を幾つも越えて、遠くの村や部落に行き、人々の生活状況を理解すると同時に、水資源を探索した。ジンバブエでは、水汲みによる死亡事故はニュースにならない。二〇二〇年に田舎を訪れた時、村人が水汲みの途中でヘビに噛まれて死亡したこと、また、二十数頭のゾウの群れに襲われ、踏まれて死んだ話を聞いた。ボランティアたちは不憫に思い、本来は二日間に二つの井戸を探索して掘削する予定だったが、その後、さらに一日余分に滞在して、より多くの水源を探し、村人のために四つの井戸を掘削することにした。朱さんは、「ジンバブエ人のために井戸を掘ることは、彼らの命を救うことでもあるのです」と語った。
地方の役人や水利関係の人、住民たちは、水が湧き出るのを見ると、水が本当に大きな命であることを感じ、喜びと共に踊り出すのである。長い間、水不足に悩まされて来たため、やっと手にした水は一滴たりとも大切にしている。毎回、井戸から水が汲み上げられる瞬間、朱さんは取り囲んで様子を見ていた人たちに水をかけ、水が使えるという体験を他の人たちに分かち合ってほしいと言った。
ある三十歳の女性は、「生まれてから今まで、こんなに楽しく体を洗ったことはありません」と言った。彼女の家は井戸から百~二百メートルほど離れており、以前は週に一回しか体を洗わず、しかも一度に二リットルしか水を使わなかった。「今では二十リットルの水を使って、家でゆっくり使えるのが嬉しいです。自分の肌がこんなにキレイだったなんて」と言った。
ある若者は、「私はここで生まれ、汚い水を飲んで育ちました。井戸水を飲んでも下痢をすることがありましたが、これから自分の子供たちは汚い水を飲む必要がなくなったことが分かり、とても感動し、感謝しています」と述べた。それは痛ましい話だが、彼らにとって喜んでもいいのだ。
ジンバブエの慈済ボランティアが人里離れた部落で井戸の採掘が成功するたびに、住民は待ちきれずに容器を持って来て水をいっぱい入れる。(写真提供・朱金財)