(絵・陳九熹)
人心に愛があれば、力が結集し、直ちに苦難の人を助けることができます。
しかし、無明があると、自ら妨げてしまいます。
どんなに近くても、一線の隔たりでも救うことはできません。
十二月五日、歳末祝福会の主催に行脚し、一月四日に花蓮に戻りました。その三十一日間に諸々の世の出来事を見聞きすると同時に、多くの人間(じんかん)菩薩の成就も目にしました。毎日のようにボランティアのお話しには、善に向かう人生や純粋で厚い人情が感じられ、とても安心し、慰められました。
彼らはまるで菩薩のように目の前に現れ、無私の大愛をもって奉仕する中で得られたのは喜びであり、人間(じんかん)で発揮された力は実に多いのです。台湾全土には大小七千以上のリサイクル拠点があり、リサイクルボランティアがどれだけ大きな力を発揮してゴミを減らしているかが分かると思います。そして、それよりも重要なのは、身を以て社会の環境教育に力を注いでいることです。三十年あまり前、私が簡単に、「拍手する手で環境保全をしましょう」と言った後、慈済人はそれを着実に行い、リサイクルステーションを責任を持って運営してくれました。社長さんや事業を営んでいる師兄たちは一介のボランティアとして、回収物資をトラックで運んだりしています。愛という力が誠、正、信、実になって現れているのです。
また、各地のエコ福祉用具のボランティアチームの話も聞きました。彼らは回収した古い用具を修理し、きれいにしてから一新させ、必要としている人の家まで送り届けています。山間に住んで貧しさと病に苦しんでいる人もおり、彼らは重い電動ベッドを担いで届けています。高齢者が高齢者を、病人が病人を世話するのはどんなに大変なことか。一つのベッドを何人もの手を通して家まで届けるのは、世話をしている人の苦労が少しでも軽くなって欲しいとの思いがあるからです。
これが菩薩です。相手と縁もゆかりもありませんが、苦を見て、自分のことのように受けとめ、無縁大慈(縁がなくても大慈を施し)、同体大悲(その身になって悲しむ)のです。苦がある所に行って苦を取り除いて楽を与えるのは、困った時に「観世音菩薩様!」と唱えれば、直ちに現れるようなものです。あなたも私も一緒に奉仕すれば、力も物も揃うのです。
私たちが冬に寒さを感じた時、世の中の苦難の人たちを思い、薄着のままあばら屋で生活をしている人たちのことを思いやるのです。忍びないと思っても、時には救いの手が届かず、とても無念に思います。距離が遠いという障害も無明という障害もあります。天地は広く、宇宙は果てしなく、人はとても微小ですが、人同士が無明によって争いを起こし、境界線を作ってこの世に障害をもたらしています。災難は恐ろしいものではなく、人々に愛があって、結集すれば、直ちに人を救うことができます。もし、人の心に無明が起きた時は、たとえ近くにいても、一線の隔たりであっても救うことはできません。
能力があっても、多く奉仕すると、もったいなく感じ、少なければ面子が立たないと思い、いっそのこと聞かなかったことにしてしまう人もいます。手をこまぬいて傍観していたら、人間(じんかん)はとても冷めたい所になってしまいます。心に願いを持つことは、一粒の種が撒かれると、自然と生気が現れるようなものです。もし願いに力がこもっていなければ、「分かっていてもできない。彼の苦しみは理解でき、私にも能力はあるが、自発的に助けに行きたくない」と思うようになってしまいます。これも自らを妨げている道理です。
「仏教の為、衆生の為」というのは私の立てた志であり、毎日自分に言い聞かせています。「志を守って道を奉じ、その広い道を歩むのだ」と。数十年来、道に逸れることなく歩いて来られたかどうか、私は自分で点検しては安堵を覚え、法悦を感じており、このような心得を皆さんも得られるよう願っています。
慈済はいつも人々の愛に委ねており、皆さんの私に対する敬愛に感謝しています。私がしたい事を皆さんが護持し、私に成就する力を与えてくれています。シンガポールとマレーシアのボランティアは私の願いである、「仏陀の故郷への恩返し」を知って、直ちに発心立願して、行動を起こしました。ネパールのルンビニから送られてきた映像の中に、偶然一軒の貧しい家が映っており、外からでもその貧しさが分かりました。そして、丁度そこに地べたで哺乳瓶を探している子供がいたのですが、慈済ボランティアの制服である白いパンツと靴を履いた人が入っていくのを見て、「この子は救われる」と心に閃きました。その家庭と慈済の縁はそこから始まり、その子は医者にかかり、姉の方は学校へ行くことができるようになり、村全体に慈済人が関心を寄せるようになりました。
智慧を以て導くことが大切です。世の中に病の苦しみがあり、人生は無常であることを人々に知ってもらい、心の奥にある煩悩と無明の中から自分の仏心を啓発するのです。善の心を育み、毎日善人と向き合い、良い言葉を口にしていれば、自然と善い行いができるようになるものです。善いことと善い人は善い環境を作り出します。
自分の力は微々たるもの、と軽く見ないで、人助けをしましょう。また、年老いたから、リタイアしたから、社会とは関係ないと思ってはいけません。私はこの歳になっても、声が出る限り、話すことが困難に思えても、努めて話をしなければいけないと思っています。もし、聞き入れてくれる人がいれば、それだけで力を発揮しているのです。常に言っていますが、たとえ両手でなくても、指先ひとつで、パソコンや携帯で慈済の消息を発信するだけで、人間(じんかん)を浄化することができるのです。
皆さんが他の人に呼びかけて、力を結集すれば、人の役に立つ善い事ができるようになりますよ。
(慈済月刊六七五期より)