私が元気でいれば、皆安心

  • お年寄りも人間。何ごとも学ぶべきで、出来なければ、聞けばいい。そうすれば、できることが一つ増える。
  • 体を動かしながら学べる上に、多くの友人ができる。これがボランティアをする喜び。
  • 自分の面倒をよく見れば、子も孫も仕事に専念できる。私が元気でいれば、皆は安心できる。

頭に布を巻いて編笠を被り、チェックの長いエプロンを着て、雨靴を履く─これが余錦絨(ユー・ジンロン)婆さんの日常のリサイクルボランティア姿である。雨さえ降らなければ、八十八歳の彼女は軽快に自転車を漕いで、七、八分間かけて台南の塩水区リサイクルステーションにやってくる。

錦絨婆さんはどんな作業でも引き受ける。日によって、仕事量の多いエリアや代表者の蘇秀香(スゥー・シューシアン)さんに言われた仕事をこなす。「何ごとも勉強です。出来なければ聞けばいいのです。そうすれば、また一つできるようになり、頭も使えていいことづくめ」と彼女は目を細め、事もなげに言った。

ビニール袋の分別もガラス瓶の洗浄作業も、彼女は何でもこなす。「中に入ってから、人手が足りないエリアを目にすれば、一緒に作業します。できないことがあれば、隣の人を手本にします。それでもできなければ、聞けばいいのです。体を動かしながら学び、人と触れ合って、話がはずめば友達ができます。これがボランティアをする最大の喜びです」。

88歳の余錦絨さんは体を動かし続けている。毎日リサイクルステーションに来て、善行しながら、友達を作っている。

長生きを求めず、
元気でいられればいい

一九三五年生まれの錦絨婆さんは八人兄弟の二番目で、長女である。父親は新営区役所の公務員で、子供の教育を重視した。錦絨さんは日本統治時代は小学校に通い、日本語と漢文を学んだ。台湾が返還されてからの三年間、注音符号で中国語を学んだ。彼女は小学校を卒業すると、自分の進学を諦めて、母親の畑仕事を手伝い、兄と弟や妹が学校にいけるようにした。後に彼らは皆出世した。特に長兄は海外に留学して博士号を取得し、そこで就職した。今は九十歳の高齢で、今でもカナダに住んでいる。

錦絨婆さんは二十四歳の時に、塩水出身の李栄坤(リー・ロンクン)さんと結婚し、四人の息子を育てた。ちょうど長男が兵役を終えて、塩水中学校に教師として赴任した時、四十八歳だった李さんは病気で他界した。幸いにして実家の両親が畑仕事や子育てを手伝ってくれた上に、兄弟たちからの支援と励ましがあり、とても世話になった。

ご主人が他界してから十数年後、子供たちはそれぞれ仕事を持って独立した。錦絨婆さんは義理の姉に付いていて学甲区にある開元寺に行き、念仏するようになった。「仏法を学ぶ道に私を導いて、人生の何事も因縁であることを分からせてくれたお姉さんに感謝しています。私は一九九一年に法源寺へ行って受戒しようと思いましたが、お姉さんは、私が菜食に耐えられないと思って、賛成してくれませんでした。しかし、私は決意して、自分でその道を選びました。後に兄弟や妹が後押しし、息子たちも賛同してくれたことで、私は慈済のリサイクルステーションに通い始めました。今年でもう二十数年になります」。

この十年間、彼女は近所の媽祖廟でも清掃ボランティアをしている。「月曜日と金曜日は媽祖廟の二階にある玄天上帝壇の掃除を終えてから帰宅し、朝の日課をするので、他の日よりも一時間余り遅れて、自転車でリサイクルステーションに行っています」。

錦絨婆さんは、朝晩の日課をいい加減に行うことは全くない。指で数えながら、「私の朝の日課は《楞厳経》、《金剛経》、《薬師経》、《阿弥陀経》の読経で、読み終えるまでに一時間余り掛かります」と言った。三十年間途切れることなく朝晩、真面目にお経を唱えている。彼女は何も求めず、長寿すらも求めない。人生は苦であることを彼女は心から理解しており、最期まで元気で過ごしたいと願うだけである。

「人は業を背負ってこの世に生まれてきます。人生には多種多様の苦しみがあります。仏法を実践し業を残さなければ、その人生は円満になることが分かるのです。この世に生まれたのは、真っ当な人間になり、修行するためであり、楽をするためではありません。この世で修行し、来世はこれほど苦しまずに、極楽浄土に行けるよう望んでいます」。

余錦絨婆さんがリサイクル活動に行く生活は規律正しく、サラリーマンのようである。8時にリサイクルステーションに着き、11時頃にそこで用意してくれる大愛弁当を持って退勤し、自転車で帰宅する。

考えすぎない 
心配しても仕方ない

錦絨婆さんには台北在住で定年退職した三人の息子がいる。彼らはよく週末を利用して帰ってくる。三番目の息子は早くに亡くなったが、お嫁さんは台南に住んでいるので、よく顔を出す。「嫁には本当に感服しています。彼女は学校帰りの子どもを預かる施設の先生をしています。あの時は三十五歳という若さでしたが、再婚せず、実家の両親の助けもあって、心して孫を育てました。孫は国立成功大学医学部を卒業して、今は既に医者になっています」。

息子たちは、それぞれ結婚して異なった仕事をしている。錦絨婆さんは独り暮らしだが、元々独立心が強く、他人に頼らずに暮らしている。彼女は子や孫、兄弟に対する思いを毎日の規則正しい修行に託して、彼らを見守るよう仏様にお願いしている。

彼女の兄や弟、妹は、国内外の別々な所に住んでいる。皆、八十代の高齢者だが、毎月必ず、国際電話で互いの健康に関心を寄せ合い、家族の絆を保ち続けている。これは彼女に豊かな知恵をもたらしている。「仏法は、人生の無常を説いています。上人(證厳法師)の話を聞いて、善い事を沢山して貯めるのです。また、生きるには体を動かなければならないとも言っています。他人の迷惑にならないように、自分の面倒を自分で見ることで、子も孫も仕事に専念できるのです。私が元気であれば、皆は安心できるのです」。

この二十数年間、彼女は自宅前の軒下のスペースを提供して、隣近所からの資源ごみの置き場にしている。隔週ごとに、慈済のリサイクルボランティアが車で運んで行ってくれる。彼女は毎日リサイクルステーションに行って作業し、毎週月曜日の朝には読書会にも参加している。コロナ禍前は、毎週水曜日に必ず「エコ太鼓」の練習に参加していたが、感染が厳しくなってからは月一回に変えた。

どうしてあらゆる活動に参加するのですかと聞くと、「年寄りも人間です。何でも学ぶことができるし、何でもやってみるべきです。そうすれば、ボケにくくなります」と答えた。

「一日中家に閉じこもっていないで、外に出て人と触れ合いなさい。人と会わないと益々出不精になって、老化が早まりますよ」とよくそう言って仲間を励ましている。

彼女はコロナ禍のために、リサイクル活動を止めたことはない。「マスクの着用をきちんと守り、ワクチン接種の知らせを受けたら、直ちに行くのです。私は既に四回目の接種を終えました。こうすればウイルスから守られて怖くなくなります。怖がっていても仕方がありません」。

「長男には暫くリサイクル活動を休むように、と勧められましたが、私は自分の安全は守れます。作業に出て来て、手を動かせば、体も機敏になります。子供たちは、無理しないように、と言いますが、私は大丈夫ですよ」。

「人生には多かれ少なかれ、病苦は付き物です。考え過ぎなければいいのです」。実は六〜七年前、眩暈と胸の圧迫感を感じた。血圧が少し高めだと医者に言われたので、きちんと薬を飲んでいる。平穏無事でありさえすればいいのだ。

二年前から膝に力が入らなくなり、痛みを感じ始めた。膝関節の変形と医者に診断されたので、一定期間に一回、ヒアルロン酸の注射を受けている。「こんな歳になれば、長年、使われた機械が故障するのと同じで、どこか壊れてくるものです。でも、痛いからと言って動かない、やらないのはいけません。業を孫が背負わなくていい様に、やれるだけやります。外に出て、人と会えば話をしますし、家にいる時は念仏しています。何かしていれば、時間が過ぎるのも早くなります」。

お婆さんがリサイクル活動に行く生活は規律正しく、サラリーマンのようである。八時にリサイクルステーションに着き、十一時頃にそこで用意してくれる大愛弁当を持って退勤し、自転車で帰宅する。「慈済のリサイクルステーションに行くことができて、本当に良かった。感謝しています」。

お婆さんは、目をキラキラ輝かせ、笑顔で、彼女は独り暮らしでも孤独ではないと言った。自分はいつも感謝の気持ちを持ち、楽観的で、全て天命に従っている。毎日したいことがいっぱいあり、媽祖廟でボランティアができ、観音様と媽祖様が隣近所を守ってくれていることに感謝している。自由気ままにリサイクル活動に行けるのも、人付き合いの方法だと思っている。よく食べてよく寝て、何の悩みもなく、充実した時間を過ごす。一日長く生きれば、それだけ得したことになる!

(慈済月刊六七一期より)

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