奉仕できることは幸せ

(絵・陳九熹)

幸せであることを知って、それを大切にすれば、毎日感謝するようになります。
何事も辛いと思わないのは、「行動に移せるのが幸せだから」です。
社会に幸福をもたらす人々を招き、その流れが途切れないようにしましょう。

五十七年前、慈済は一日五十銭の竹筒貯金から始まり、三十人の主婦の会員が市場や道ゆく人に募金を呼びかけて、四大志業を確立させたのです。それは大変な苦労であり、奇跡とも言えますが、人々の心にある殊勝な「善の因縁」が寄り集まったからこそ今日があり、今では百以上の国と地域に愛を広めています。

毎日気がかりなことは多く、私が憂いているのは、四元素(地、水、火、風)の調和が崩れていることと人間(じんかん)の病による苦しみに対する思いですが、私の周りにはこんなにも多くの善人や菩薩がいて、私の憂いと捨てがたい思いを分担してくれていることに感謝しています。世の中でこんなに多くの慈済人が心を一つに慈済の志業を行い、大衆に混じって、偽りのない真心で人間(じんかん)に尽くしていることを思うと、私は今生をとても満足に思っています。

艱難な中で設立した慈済で、常住尼の生活は非常に苦しいものでしたが、法悦に満ちていました。私たちは救済の時に、病ゆえに貧しく、貧しい故に病になっていることに気がつきました。生活が困難な家庭には三度の食事を与えるだけでいいのでしょうか?一度の支援は解決にはならず、慈善は長く続けなければなりません。愛の心も積み重ねて大きくする必要があります。

当時、私は皆に、毎日買い物かごを持って市場へ出かける前に、五十銭を節約して人助けするよう呼びかけました。ある会員が、「一日五十銭なんて面倒臭いと思います。一日五十銭であれば、三十日で十五元ですから、ひと月に十五元納めようと思います」と言いました。しかし私は、ひと月に一回だけ発心して、一回だけ善行するのではなく、毎日善行して欲しいのです、と言いました。誰もが日々「善行して」、「人助けしたい」と思うような信念にこそ価値があり、それが幸せをもたらすと言うことなのです。

喜んで愛を奉仕すれば、十元でも百元でも、人から人へ託す福は集まれば、大きな力になります。更に一歩踏み込んで、福と慧の双方を修めるならば、自分が幸せになるだけでなく、智慧で以ってプライドを捨て、人々と共に幸せ作りを呼びかけ、その幸せが途切れないようにしなくてはなりません。

台湾でもこの数十年間、大きな災害が発生しています。前線にしろ後方支援するにしろ、各地の慈済人は皆、動員して大愛を奉仕して来ました。これも五十銭の力で多くのことを成し遂げたのです。九二一地震の後、五十数カ所のプロジェクト・ホープ(学校の支援建設)を行いましたが、「師父、お金はどこにあるのですか?」と心配するボランティアがいました。

「皆さんのポケットの中にあります。私は自分の無私を信じ、人々の愛を信じています」と私は答えました。
この度のトルコ大地震とウクライナ難民、そして仏陀の故郷ネパールへの恩返しと続き、私たちが少しでも多くの力で支援できることを願っています。世の中に目をむけると、旱魃や飢饉、貧困、天災、人災など、苦難のなんと多いことでしょう。或る時、「私はとても苦労しています」という人がいましたが、どんなに苦労しても、慈済人がネパールのルンビニで見た、あのような苦しみとは比べられない、と私は思いました。何本かの竹と少しの草でできた住まいは、家の表から裏まで見通せるのです。これが私たちと同じ時代に生活している彼らの現実と苦しみなのです。人生はなぜこんなにも苦しいのでしょうか?彼らがそこから出られないのなら、私たちが発心して彼らのもとへ行かなければなりません。

現代科学のお陰で社会は発展し、繁栄しています。恵まれた環境の中の生活では、幸せを大切にしなければなりません。幸せであることを知っていれば、日々感謝する気持ちになれるのです。慈済人が志業に打ち込んでも、「辛い」とは言わず、「幸せです」と言います。なぜなら「できるからこそ幸せ」であり、それも自分のためにするのではなく、先ず社会のニーズを考慮しているのです。「利他」が先で、「利己」を後にすれば、世の中は進歩し、人々の事業は発展します。人を利することは己を利することなのです。

私たちの幸せに感謝すると共に、それ以上に、智慧で以って仏法の真諦を広めなければなりません。私は以前のようによく通る声で、仏法を詳しく語ることができなくなりましたが、文史係が慈済の歴史を細かく整理しているのには大変感謝しています。慈済は人間(じんかん)の必要に応えて奉仕して来ました。一つひとつのストーリーには年月、関わった人、出来事が記載されており、「如是我聞(私が聞いたところによると)」ではなく、「私が成したこと」なのです。ですから、慈済人はそれを聞いて、当時の歴史は自分たちが作りあげたものだと気づき、豊かな人生だったと感じることでしょう。

慈済人が仏法を聴いて心に留め、身で以って仏法を実践していることに感謝しています。そしてそれ以上に、この因縁で以って、発逹した科学技術で仏法を広めなければなりません。「法を軽く見て、心尽くして教えることをしない」ではいけません。たとえば、幾つかの道理を得ても、口先だけで、傲慢になるなら、言っても言わなくても、聴いても聴かなくても大して差はなく、仏法に対して何の益もありません。敬虔に仏法を尊重した気持ちで心から信服し、更に日常生活で実践しなければなりません。仏法を足下に敷いて一歩一歩着実に歩み、本当に価値のある人生を送ることです。どうぞ心してお過ごしください。

(慈済月刊六七七期より)

    キーワード :