重量級の愛 ぶれない心

スリランカ

ガソリン不足の中、ボランティアは移動手段として自転車も使って、1日48キロ走ったこともある。貧困世帯5軒を訪問するためだった。

スリランカは年間を通して政治的、経済的混乱が続いているが、慈済人はいつも通りに苦しんでいる人々のために奔走している。

ガソリンが手に入らないため、徒歩や自転車でケア世帯を訪問している。

物価も高騰しているが、それでも何とか乗り越えて、各世帯に三十キロの食糧を用意した。この愛は決して軽くない。

「お爺さん、本当にごめんなさい。今回はあなたを配付者リストに入れることができないかもしれません!」 ボランティアのビクトリアさんは、八十八歳になる独り暮らしのエティンさんが申請基準に合わないことを発見した。お爺さんは毎月老人手当の他にパートの収入があり、仕事先では昼ご飯も提供してもらっているからだ。

エティンお爺さんは怒らなかったばかりか、ポケットからお金を取り出した。

「慈済に寄付したいのだよ!」

実は前回ボランティアから贈られた竹筒貯金箱を無くしてしまったことを、ずっと気にしていたそうだ。ボランティアは、その寄付金をどうしても受け取れなかった。お爺さんはそれでも、「大丈夫です、また来ますよ」と嬉しそうに言い残して去っていった。

ボランティアは、このお爺さんが高齢を押して暮らしのために苦労して働く必要がないように、本当の意味で助けたいと思い、直接訪問することにした。

配付当日、製造業者は米を届けた上に荷降ろしも手伝い、高齢者、弱者、女性、子供が重い米を運ぶのを手伝っってくれた。

政府は破産、貧困者は益々苦しい

二〇二二年の初め、スリランカの経済は破綻し、債務不履行に陥った。外貨準備高が底をつき、燃料や食糧を輸入できなくなり、七月初め、政府は破産を宣言した。石油、ガソリン、医薬品、食糧は深刻な不足状態に陥り、わずか半年で生活物資は価格が二倍になった。慈済コロンボ事務所には、日に五~八件の助けを求める電話が数カ月にわたって寄せられている。実はボランティア自身も経済危機の影響を受けている。

一日中、時には数日間、給油の列に並ぶことは、人々にとって日常茶飯事となった。ハンバントタの慈済ボランティアであるウディニさんによると、夜まで待つ人が多く、そのまま車の中で寝る人もいて、バイクの人は道路脇の地面に寝ているそうだ。ボランティアは白内障手術を受けさせる二十二人の貧困家庭の患者を送るために、四日間続けて交替で給油の列に並んだことがある。しかし、結局ガソリンは手に入らず、一リットル七十三台湾ドル(約三〇〇円)相当のガソリンを買うしかなく、それも十五リットルしか買えなかった。それは丁度、九人の患者を病院に連れて行き、翌日に家まで送って行くだけの量である。他の十三人の患者は病院に比較的近いため、自分たちで行くよう頼んだ。

混乱は十月になって少しずつ治まってきたが、人々の生活は依然として苦しいものだった。慈済基金会宗教処の陳尚薇(チェン・シャンウェイ)さんによると、現地では食糧と石油の価格が一年間に四十三%上昇した。四月と五月には毎日約十三時間も停電となって、その後は三時間に改善したが、十月からは再び十時間に延長された。スリランカにある二つの慈済事務所は、それぞれコロンボとハンバントタにあるが、ソーラーパネルのおかげで、停電の影響をほとんど受けずに済んだ。

スリランカの人口は台湾とほぼ同じだが、四分の一にあたる約五百万人が貧困ラインを下回っている。政府は毎月、貧困世帯に二十二〜四十三台湾ドル(九十五〜百八十五日本円)相当の補助金を支給しているが、この金額で生活するのは困難である。四月以降、慈済はコロンボと中央及び東部の州で、ハンバントタ大愛村と近隣の村、慈済国立中学の教師と生徒を対象に生活支援を行った。十月までに七回活動を行い、合計七千七百九十三世帯の三万一千百七十二人に物資を支給した。

陳さんによると、慈済は一括して白米、レンズ豆、小麦粉、油、香辛料などの食糧を購入してから配付している。「以前はクーポンが使えましたが、今は食糧が不足しているので、クーポンやお金をもらっても、最も必要としている物が買えるとは限らないのです」。

多くの人は徒歩で物資を受け取りに来るが、経済的に余裕がある人は自転車で物資を運びに来る。政府は車一台につき、一週間に入れるガソリンの量を制限しており、ボランティアたちは各地で配付活動を行うため、自分たちのガソリン券を寄付している。慈済コロンボ事務所に隣接する二つのガソリンスタンドの管理者は、慈済が貧しい家庭のために慈善活動を行っていることを知っているので、ガソリンが余ると慈済に優先的に分けてくれる。

七月九日に全国規模のデモが行われた時、ハンバントタのボランティアは通常どおり配付活動を行い、また、コロンボのボランティアはリサイクルステーションの隣の空き地を開墾して、食糧不足の窮地を乗り越えるために、野菜や果物を植える準備をした。ビクトリアさんは、「危機の中でも学ぶチャンスがあります。今では生ごみの発生量が大幅に減りました。なぜなら、誰もが食べ物を大切にし、これ以上無駄にしてはいけないことを理解し始めたからです」。

88歳で一人暮らしのエティン爺さんは、配付基準を満たしていなかったが、逆に慈済に寄付したいと言い張った。

あなたが私を助け、私が彼を助ける

「私は人の親切に頼って生きて来ました。この三年間の慈済の支援には本当に感謝しています。毎回物資を受け取ると、二カ月間は心配しなくても済みます」。九月最初の配付活動は、慈済コロンボ事務所があるケスベワ地区で行われた。六十七歳のスマンさんは、身体障害で働くことができないので、慈済の長期ケア世帯になっている。

彼は手こぎ三輪車で歩くぐらいの速度で一時間半かけて到着すると、「外で手続きしてもいいですか?車から降りるのが大変なので」と丁寧に尋ねた。ボランティアが急いで腰を屈めて、詳細に資料を確認した。

配付当日は、千四百十三世帯の低所得者に恵みを届けた。製造業者は米を届けた上に荷降ろしも手伝い、高齢者、弱者、女性、子供が重い米を運ぶのを手伝っってくれた。「水を飲んでください!」 。「静思語クラス」の子どもたちも、現場で長い間待っていたお年寄りたちに水を補給するよう熱心に呼び掛けた。また、彼らは速やかに物資の袋を並べ、人々が簡単に受け取れるようにした。

「各世帯に三十キロの米とその他の食品を配付しました。合計約四十キロで、平均的な家庭が一カ月生活するのに十分な量です」。この寛大な愛は決して軽いものではない。或る女性グループは共同で、物資を家まで運ぶための運転手を雇った。運転手は、「賃金がなくても、私は皆さんを家まで送る手伝いをします」と感動して言った。

村人は物資を取りに来るだけでなく、持ち帰っていた竹筒を持ってくることも忘れなかった。愛は人に伝わる。初めてここに来た村人も、熱心に人助けをしようとしていた。最終的に彼らのような貧しい人々を助けるために、約八千台湾ドル(約三万二千円)相当の寄付金が集まった。

二〇二一年、スリランカ政府は「農業の全面有機化」政策の推進を加速させたが、農家は対応が間に合わず、作物の収穫が少なくなってしまった。スリランカ・ブディスト・ジェム・フェローシップのマハウィラ尊者の協力の下に、ボランティアは九月下旬に中部及び東部の州を訪れ、三百世帯に配付して、偏境で最も弱い立場の農民の世話をした。

ドルア地区に到着した初日、マハウィラ尊者は、ボランティアのアロシャさんによる農民への慈済の紹介に深く感動した。彼は配付が終わるとすぐ、ネットで慈済について検索した。翌日はデヒア地区だったが、尊者は皆と分かち合うのが待ちきれなかった。そして、アロシャさんが分かち合うつもりだった話もしてしまった。ボランティアは笑うしかなく、どうしたらいいか分からなかった。

多くの母親は、夫が仕事に出かけなければならず、家に子供の世話をする人がいないため、子供を連れて配付会場に来るしかなかった。プリヤンティカさんは、生後一カ月余りの赤ちゃんを抱いてやって来たが、あのような重みのある愛がもらえるとは思ってもいなかった。彼女はとても喜び、日雇いをしている夫に運ぶ手伝いをしてくれるよう頼んだ。

デヒア地区の物資供給業者であるアルナさんは、「政府は十キロのお米と一リットルの牛乳を提供していますが、家庭によってはとても十分ではありません。ここで配付に来てくれるのは皆さんが初めてです」と語った。彼は慈済が貧しい家庭を支援するためにどのように募金しているかを理解した他、ボランティアのためにたくさんのベジタリアン料理を用意した。

ボランティアは、こんなにも多くの人が喜んで寄付してくれたことに心から感謝した。「ホタルの力は小さくても、菩薩(慈済ではボランティアのこと)を募る努力をしなければなりません。力を結集すれば、社会の暗闇も照らすことができます。人々の善の心を啓発して苦しみから解放したいのです」。

(慈済月刊六七五期より)

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