わずかなお金でも人助けができる

全ての人がトルコ・シリア地震の被災地へ辿り着けるわけではなく、一人の力で苦難に見舞われている多くの人を救い出すことはできない。

だが、あなたの百元や私の五十元を合わせれば、微かな光が灯火となり、持続すれば、十分に被災地での復旧・復興の心強い後ろ盾となる。

「こちらにお住まいの良きご近所さんの皆さん、こんにちは!私たちは慈済ボランティアです。今日は皆さんの愛を募りに参りました。トルコ・シリア震災の被災者を助けましょう…」休日の朝早く、慈済ボランティアがプラカードを手に持ち、募金箱を抱えて市場に立つと、買い物客やお店の人がぞくぞくと集まってきた。

「大愛には国境がなく、わずかなお金でも大きな善行ができます。五元が少なすぎることはなく、十元でも人助けができます!」ある人は寄付した後、「台湾の九二一地震の時、トルコは私たちを助けてくれました。今回は私たちが助ける番です」と話した。またある人は「お疲れ様。慈済がいてくれて良かった!」と慈済人を励ました。

劉昭君(リュウ・ヅァオジュン)さんは花蓮市中央路にある青果市場の入口で募金活動をした時、多くのことを感じた。「たくさんの人がわざわざ寄って来たり、バイクを止めて寄付してくれました。台湾人の心に愛が溢れていることを感じました。募金をした後に『台湾人の愛は誰にも負けてはいけない!』と叫ぶ人もいました。上人がおっしゃった『善と愛が台湾の宝』という言葉を実証しています」。

二二八連休の間、台湾各地の市場では、野菜を買いに来たおばさんたちがボランティアの誠実な姿を見て、次々に手元の小銭を「愛の募金箱」に入れた。

花蓮市から最も遠い富里郷は、慈済人が十人にも満たないが、同様に街頭で募金活動をした。鍬を担いで田んぼに行く農夫は、慈済人を見かけて千元を入れた。また野菜を売る人も買う人も百元や五百元を入れ、ヨモギ餅を売っている劉徳茂(リュウ・ドマオ)さんは先ず千元を寄付し、ヨモギ餅を完売した後、更に売り上げの半分を寄付した。

桃園埔心市場で募金活動をしていた蔡芬煅(ツァイ・フェンドゥァン)さんは、活動が終わって愛の募金箱を集計していた時、先ほどの露天商が一束のお札を入れたことに気づいた。「輪ゴムで束ねた千元と五百元札で、一万三千五百元もありました。それは彼の一日の野菜の売り上げかもしれないと思うと、とても感動しました…」。

ボランティアが肌寒い小雨の中で立っているのを見て、ある人が「もう朝ごはんは食べましたか?皆さんに買って来ましょうか?」と聞くと、もう一人が「慈済がここで募金活動をしているので、来ない?」と直ぐ友人たちに電話をかけていた。また、自分から近づいて来て、「以前慈済に助けられたことがあるので、今が恩返しの時なのです」と明かした人もいた。

二月七日から一カ月半の間、台湾全土でボランティアが街頭募金を展開し、市場やデパート、駅、夜市などで善と愛を織りなした。三月上旬の統計では、二千八百カ所の街角で、計延べ三万二千人以上のボランティアが人々に愛の心を募った。

被害の特に大きかった場所に辿り着ける人は多くはないが、慈済ボランティアは共に善を行う心で繋がり、災害支援チームと共に八千キロを越えて物資を届けた。全世界の愛は前線の災害支援ボランティアを支える最も強くて頼もしい後ろ盾であり、被災地で再建に向け、最も大きな拠り所となっている。

台中、南投、苗栗など中部地区の慈済人が同時に街頭募金を行った。2月19日午前に台中市政府前広場で、ボランティアたちが愛の募金箱を手に持って出発した。(撮影・楊凱誠)

善行に私一人が欠けてもいけない

二月六日に強い地震が発生し、被害はこれまでになく大きかったので、八日、台中慈済ボランティアは直ちに、どのようにして災害支援活動をサポートするかを話し合った。甘美華(ガン・メイフワ)さんは、社会の人々が共に参加できるように、「道場を出て、心と愛を募る必要があると思います」と提案した。そして早ければ早い方が良いので、十日後の二月十九日に行うことで結論に至った。だが、台中市政府との協議で、人が最も多く集まる場所はすでに借りられたことが分かった。しかし、思いも寄らず二時間後に良い知らせが入った。市政府前広場が使用できることになり、台中メトロ局もLED情報案内板でトルコ支援チャリティー活動を紹介すること、また慈済ボランティアがメトロ駅出入口で募金活動することを許可した。カルフールやファミリーマートも追随して協力した。

時間が切迫していたが、ボランティアは依然として公的手順通りに申請した。ブースの準備の際、ボランティアは得意な料理をチャリティー活動で販売するほか、企業にも声をかけたため、二十のブースを出店することになった。そして企業間で相互に誘い合ったことで、最終的には五十五ブースまで増え、慈済ボランティアにブーススペースを譲ってほしいと頼んだ会社もあった。

府前広場には百を超えるブースが設置され、ネットで情報を得た人々が朝の七時からぞくぞくと集まってきた。イベントが始まると、台中全域にある十一の慈済連絡所をオンラインでリンクし、同時に平安の鐘を三回鳴らした。すると、六千を超える人々が敬虔な一念で、震災に見舞われた住民に祈りを捧げた。

台中市内をはじめ大甲区や清水区、東勢区、豊原区、南投県、苗栗県などで、慈済ボランティアは一斉に道場から出て、一つひとつの「愛の募金箱」が道を成していった。人々の集まる場所で愛の心を募った。
台中の大雅野菜市場で、呉佩瑩(ウー・ペイイン)さんは寄付した後、ボランティアにこう語った、「三番目の兄は大里に住んでいましたが、購入したばかりの家が九二一地震で損壊し、梁と柱が傾きました。政府の認定では半壊でしたが、住むことができなくなり、全ての財産が一夜にしてなくなったと言っても過言ではありません。幸いなことに家族はみんな無事でした。九二一地震から二十年余り、兄は二年前に亡くなりました。この二十年間、彼は地震の恐怖と悲しみの中で生きていました」。

悲しいことに触れたことで、呉さんは気持ちが高ぶって涙を流した。ボランティアは急いでティッシュを渡し、彼女の肩を軽く叩いて慰めた。彼女は気持ちが落ち着くと、「トルコで地震が発生したと聞いて、私は本当に心が痛みました。皆さんに敬服しています。私に同じようなことはできませんが、できるだけのことをやるべきだと思いました。なぜなら、私たちも明日がどうなるか分からないからです」。

「あなたたち慈済人が現れるのを待っていました!」、「あなた方の奉仕に感謝しています。

家族が平穏無事で健康でありますように!」。

人々はボランティアと大愛の心を通わせて、最も美しい街の風景を作り出した。

自分も人助けできるとは
思わなかった

台中の九番と十番登山道の入口に、募金活動の助っ人が現れた。張(ヅァン)さんは購入したばかりの電動車いすに乗って東山路から登山口にやって来ると、人々の愛の心に呼びかけた。彼はかつて刑務所で二十三年服役し、出所後脳梗塞を患い、今でも台中慈済病院でリハビリを続けている。人文室職員の游恵菁(ヨウ・フウェイジン)さんは彼の状況を知ると、病院の近くにある新田リサイクルステーションに来るよう勧めた。エコボランティアをする際には、同じボランティアの呂明煌(リュ・ミンフワン)さんに付き添ってもらった。

この一年で、彼は既にリサイクルステーションの固定メンバーになった。思うように行動できないが、心の拠り所を見つけ、自主的に募金活動に加わった。募金チームが予定を終えた時、呂さんは張さんに、「外で愛の募金をした気分はどうですか?」と聞いた。張さんは「とても嬉しいです!私でも人助けできるとは想像もしていませんでした」と答えた。

カルフール宜蘭店の店長・林美玲(リン・メイリン)さんは、二二八の連休前に、自分から慈済ボランティアに連絡し、店の一部を使って募金活動することを歓迎した。期間中に使用する場所の配置や災害状況を放映する大型テレビの設置など、全て店長の林さんが準備した。ボランティアは毎日十二時間、交代しながらハイパーマーケットの入口と出口で募金を行った。林店長の慈悲心が数えきれないほど多くの人の「共に被災者を助けよう」と言う心を啓発した。

高雄大愛幼稚園の園児たちは、先生に教えてもらいながら園内で食べ物を作り、チャリティーバザーで販売して災害支援にあてた。(撮影・周幸弘)

気温は低いが、情熱は冷めない

全世界の慈済人がトルコ・シリア地震の災害をサポートし、すでに四十五の国と地域がチャリティーバザーと募金活動をスタートさせた。慈済香港支部執行長の施頌玲(スー・ソンリン)さんによると、ボランティアたちは素早くチャリティーバザーを開くことで意見が一致したという。

「どれだけの募金を集められるかは分かりませんが、一番大事なのは、私たちが多くの人の愛と祝福を集めることであり、このようなチャリティーバザーを円満に行ってこそ成功と言えるのです」。福建省泉州市石獅の慈済蓮暦リサイクルステーションは、特製の手作り食品を香港のチャリティーバザーに送り届けた。ボランティアの蔡微微(ツァィ・ウェイウェイ)さんによると、二月の気候はまだとても寒いので、年配のリサイクル菩薩たちは寝具を持参してリサイクルステーションに寝泊まりした。朝四時に起床して準備を整え、八時にボランティアが揃うのを待ってから、夜の十一時まで作業をし続けるのは、ただ被災者のために尽力したいからなのだ。

カナダでは、慈済ノーストロント連絡所のボランティアがスーパーマーケットにブースを設けて募金活動をしたその日、気象庁は悪天候警報を発令した。雨と雪混じりの強烈な風が吹き、道路の視界が非常に悪かった。防風ドアの中にいたボランティアはその寒さを身に感じ、朝の十時半から夜六時半まで、二時間シフトを行ったが、手足がかじかんでしまった。その状況下で、被災者の拠り所のなさをより身近に感じることができた。ボランティアたちが全身防寒服を身にまとった姿を見た客はとても感動し、夕方時刻に寄付したある人は、ボランティアを気遣って「時間はもう遅いし、寒いので、早めに切り上げて帰ってください!」と労った。

ロシア・ウクライナ戦争が始まって一年が過ぎた。慈済から支援を受けて暫時ポーランドに住んでいるウクライナ難民が、自発的に災害支援のために竹筒貯金を差し出した。それは彼らが持っていた残りわずかな生活費か毎月受け取る補助金だったのかもしれない。

「トルコの被災者は故郷を離れることを余儀なくされ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になっている人がたくさんいます。彼らにケアとサポートをすべきです。なぜなら、家を無くして見知らぬ土地に来て、仕事を失ったままという状態がどれほど不安なものか、私たちは知っているのですから」。

台北ボランティアの林秋鳳(リン・チュウフォン)さんは、二十数年前のトルコ地震で行った街頭募金活動を回想した。人助けの心は揺るぎなかったが、心中気が気でなかった。なぜならその時、「なぜ慈済は外国を助け、台湾を助けないのか」と大衆から疑問視されていたからだ。その一カ月後、誰が想像したであろうか。台湾で九二一大地震が発生した。林さんはとても感慨深いものがあった。

今回の街頭募金活動が始まるや否や、彼女は直ちに応募し、人心の善の念を呼び覚ましたいと思った。なぜなら「愛はこの世の最も強力な保護膜」だからだ。彼女は心から、世界に災難が無くなり、二度と街頭募金をする必要が無くなるよう願った。(資料提供・グローバル人文真善美ボランティア)

2月19日、台中市政府広場前でチャリティーバザーが開かれた。企業と慈済ボランティアが共同で百余りのブースを運営し、民衆から熱烈な反響を得た。(撮影・葉文楷)

思いやり伝言板

訳・惟明

地震は本当に怖い!921大地震の時、弟の家が倒れ、一生の苦労が水泡に帰しました。そして二○一六年の〇二○六地震(台湾南部地震)の時、台南市の「維冠ビル」が倒壊し、人々の悲しみを誘いました。今回私はトルコで地震が発生したと聞くと、直ぐオンラインで寄付しました。今日、あなた方慈済ボランティアが街角で募金しているのを見て、再び献金しました。その僅かな心遣いは取り立てて言うことではありません。トルコは遠く離れていますが、私たちは平時から危険に備えるべきです。いつか台湾に災難がやってきた時、他の国が喜んで支援の手を差し伸べてくれるかもしれません。 ─台南李女史より

災害が遠のき、死者が安らかに眠り、生者が安心できるよう、天がトルコを守ってくれることを願っています。愛を被災地に届け、一日も早く人々に笑顔が戻ることを望んでいます。私は、あらゆる資源と力を使って、心から現地の人々を支援したいのです。刑務所から出て職業訓練する時、人命救助の仕事に就き、生命を守ることを志しています。台北刑務所 簡受刑者より

トルコ地震は我が身のこととして感じました。私は南投出身で、九二一地震の時はまだ小学校三年生でした。トルコの子どもたちの気持ちを察すると、きっと当時の私と同じに違いないと思います! 台南 曽女史より
私は六十歳過ぎですが、休日に観光客を三輪車に乗せて生計を立てています。力仕事では稼ぎは多くないため、微々たる額を寄付するしかなく、私が寄付できるのは百元が精一杯です。私も以前、慈済に助けられたことがあり、今日は自分がトルコを支援したいと思いました。
   鹿港 粘金亮

老農夫の福田

文、撮影・陳詠芯(高雄慈済ボランティア)
訳・惟明

私が義父の採取したニンジンを載せて、そこを離れようとした時、 後ろから「もっと寄付したい」という声が聞こえた。

老農夫の黄進財はニンジンを採取し、苦労して栽培したものを寄付して、人助けをした。

ニンジンの故郷」として知られる台南将軍区は、春の収穫期に農村の小道に入ると、淡い爽やかな香りが漂ってくる。二月十二日の早朝五時頃、苓子町にある古い三合院式の住宅に八十七歳の農民、黄進財さんが網戸を押し開けた。彼の顔には歳月の痕がいっぱい見られたが、口もとには満足と喜びが表れていた。 彼は自転車に乗ってニンジン畑にやって来ると、生涯馴れ親しんだ香りに浸りながら、シャベルを手に取ってニンジンを掘り始めた。三十分も経たないうちに袋一杯になった。

私が彼の側に来ると、彼は私のあだ名を呼んだ。「ヅンちゃん、何故こんなに早く来たのだ!」。数日前、私は義父に、トルコ・シリア地震を支援するためにニンジンを売って、慈済に寄付してもいいかと尋ねた。彼はすぐ同意した。「トルコは以前、私たちを助けに来てくれた。今回は私たちが彼らを助ける番だ。私はニンジンで手伝うしかないけどね」。

昼頃、義父は畑から二十四キロ入りのニンジンを十四袋担いで車まで運んだが、彼は、大変な目に遭っている人たちのことを思うと、どんなに疲れても価値があるから、苦労とは感じないと言った。今回は、昨年ウクライナ難民に寄付してから二度目の善行である。

私が車で立ち去ろうとすると、後ろから呼び止める声が聞こえ、急いでブレーキを踏んで止まり、「どうしたの?お父さん」と聞いた。義父はこう言った、「車にはまだスペースがあるようだから、もう一袋掘って来るよ。それを高雄に持って行って、もっと売ってきたらいい」。

震災後、所属していた高雄市鼎金区ボランティアグループのライングループに、ニンジンのチャリティー販売のメッセージを投稿したところ、半日足らずで一袋百元のニンジン百十五袋が全部売り切れた。私は法縁者ボランティアたちの支援に感謝したが、それ以上に義父の後押しに感動した。義父は僅かなニンジンでしか貢献できないと言うが、その微力こそが小さなホタルのように、彼の畑で愛のかすかな光を点滅させているのだ。

米をもう一斗

文・林美宏(台中慈済ボランティア)
訳・惟明

一斗の米で二十四個の油飯(台湾風おこわ)弁当ができる。あっという間に完売したが、愛の心は増え続け、李林彩華さんの小さなキッチンでも大善を行うことができた。

二坪大の小さなキッチンから、しつこくない胡麻油の香りが漂う。ガスコンロの上の蒸し器からは白い湯気が立ち上り、背を向けていた李林彩華(リー・リンツァイフワ)さんは、腰を屈めて蒸したてのもち米に椎茸と湯葉の千切り、生姜味醬油を混ぜ合わせた。その後、小さな腰掛けに座って箱詰めをした。秤で重さを量らなくても手加減で分かるのだ。一斗の米で弁当二十四個、全く誤差がない。

温かくて身体に優しい台湾風おこわは、李さんが手のかかるレシピで作ったもので、チャリティー販売の人気商品にもなっている。彼女の忙しい姿を見て、ボランティア仲間が思わず心配した。「体は大丈夫ですか?医者は何と言いました?」 「医者にはかなり安定していると言われました。三カ月後に、体調次第で手術することになっています」と彼女は淡々と言った。

去年、ステージ1の肺腺がんと直腸の良性腫瘍が見つかったが、手術を終えて退院して間もなくコロナに感染した。その後、ひどい痛みを伴う腰椎すべり症に苦しんだ。今も右の肺に腫瘍が残っていて、手術を待っている。彼女は病の痛みを、「生活テンポを緩めて、着実に進むように、と言う啓示です。適度に身体を労ってこそ、菩薩道をより遠くまで歩むことができるのです」と自分なりに解釈している。

生老病死を軽く受け止め、苦難の人々に対する奉仕を重く見る。トルコ・シリア地震の被災ニュースを見て、自分の体力はまだ大丈夫だと感じ、彼女は料理人としてのスキルを発揮して、「油飯」を作ってチャリティー販売することにした。二月十一日に先ず一斗の米で何箱作れるかを把握する為、試作してみた。もち米を仕入れる際、彼女は自分の油飯を一箱持参して米屋さんと縁を結んだ。その時、トルコ・シリア地震被害のことやチャリティー販売のイベントについて話したところ、米屋の奥さんは五斗の米を量ってからこう言った、「米は私が提供します」。

感動的な出来事はそれだけではなかった。李さんの友人の呉秀鑾(ウー・シュウルァン)さんは、油飯弁当の注文を次々と増やし、二十四個まで追加した上、自ら配達を買って出た。「全部私にください。私が解決します」。呉さんは李さんの体調を気遣いながら、彼女の愛の願いを達成させよう、とあらゆる知り合いに、「或るボランティアが被災者を支援したいという思いで、油飯を作りました。それを買って応援してあげませんか」と薦めた。口コミで飛ぶように売れたため、打ち切らなければならなくなり、「もう売り切れです」と皆に謝った。呉さんは自分で食べる分もなくなった。

二月十一日から十七日まで、李さんは合計七斗半のもち米を蒸して、百八十六個の油飯弁当を作った。今までこんな大量に作ったことはなかった。「自分でもよくやったと思います」と苦笑いした。世間はこれほど温かく、人情味に溢れているのを見た。「多くのボランティアは支払いの時に、お釣りは結構です、と言いました」。家ではご主人が営んでいる交通器材専門店の店番をしながらもチャリティー販売の為の油飯を作ることができて、彼女は法悦に満ちていた。「集めた金額は大した額ではありませんが、人々に善の心を呼び覚ますことができたのが、一番良かったと思っています」。

(慈済月刊六七七期より)

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