人の心にある悟りを募って、共に幸せをこの世にもたらしましょう

(絵・陳九熹)

募金で最も大切なのは「心を募る」ことです。災害は大いなる教育であり、世の無常に対する覚悟を呼びかけているのです。

人と争わなくても、善のために競争する必要があります。一人でも多く善行すれば、社会はその分幸せになります。

現在の世の苦しみは、大自然の変化には抗えないのはもちろん、人類の心が弱くなっているのはそれ以上に無常であり、危機的な状態にあります。その実、世間の動乱は調和することができ、人心の浄化から始めるのです。仏法の教えとは無私の大愛であり、私たちはその無私の大愛を世界中に敷きつめることで、世の人々の苦難を取り除かなければなりません。

五十七年前、慈済功徳会を始めたその時から、私は日々、時を把握してきたからこそ、今私の前にある一枚の世界地図の中には、そこここといたるところに慈済の拠点があるのです。誠に感慨深いものがあります。そのすべての場所で、慈済人が力を発揮し、現地の少なからずの人々を救っていることに感謝しています。価値のある人生だと言えるのではないでしょうか。

慈済は清純な仏教精神を抱き、天下の人を集めて大きく発心立願して、真に仏法を実践しています。今ネパールでは、シンガポールとマレーシアの慈済ボランティアがリレー式に、慈善、医療、教育の分野で、仏陀の故郷に恩返しをしています。彼らは自腹を切って奉仕しており、勇猛に自ら買って出て前進し、当地に希望がもたらされることを願っています。私はその希望が光り輝き出したのを目にしました。

菩薩が人々と接するのは、人間(じんかん)の苦しみのために道を切り開き、貧しい人が縁によって苦難の人生を翻せるよう導くためです。しかし、慈善には困難が伴うものです。以前、トルコ在住のボランティア・胡光中(フー・グアンヅォン)さんたちは、非常に多くの苦難の人たちを支援していた、としか知りませんでした。しかし、最近彼らの報告を聞いてやっと、十年、二十年間、大変な苦労とプレッシャーがあったのですが、恨み言一つ言わず、仁慈の愛をもって重責を担い、一路艱難な道を現在まで歩いて来たことを知りました。彼らに対して感謝を表す言葉が見つかりません。

シリア難民の師弟のために、マンナハイ学校を建設しました。また、トルコ地震の被災者支援もすでに行われています。配付期間中、慈済人は、故郷が見える場所までシリア難民ボランティアに同行したそうです。トルコとシリアを隔てた国境線から遥かな故郷を見るだけで、そこを越えることはできません。流浪の身のまま、何時になったら家に帰れるのか分からない彼らの心情を想像すると、耐えられないものが込み上げてきたそうです。

彼らの涙を見て、天下の苦難に涙せずにはいられません。今回のトルコ地震でどれだけの家が瞬時に倒壊し、どれだけの幸福な家庭が離別に直面したことでしょう。漆黒の闇に人生を覆われ、冬の寒さの中で太陽が出ても彼らの心は温められません。彼らの受けた傷を想い、その悲しみを私達が慰撫することで、彼らの心の拠り所になってあげたいと望むばかりです。

慈済人による街頭募金は、ただ募金するだけでなく、最も大切なのは心を募ることであり、心を募ることは徹底した教育なのです。災害は大いなる教育であり、人々が人生の無常に気づくよう、その心を呼び覚ましているのです。普段互いに争っていても、何の予告なしに巨大地震に襲われれば、お互い同じ被災者ですから、何を気に留めることがあるでしょうか。また信仰、民族、国籍に関わらず、こういう時は人の本性である愛が一番大切であり、人と人が助け合わなければなりません。

平穏で幸福な時、底なしに享受を貪れば、容易に人間性の愛を忘れてしまいます。衆生の共業による業力を止めることはできません。普段から警戒心を高め、真心から信仰の敬虔さを持ち、人々の愛のエネルギーを高めるのです。愛があれば、人間(じんかん)に福をもたらすことができます。そうして培われた睦まじい空気こそ、世俗で言われる「福の到来」なのです。

世の中で争わずとも、善のためには競争すべきです。謙虚に勤め、積極的に人間(じんかん)のために菩薩を募りましょう。もし何も言わず黙々と行動していれば、時は過ぎ去り、人は老いていきます。一人でも多く善いことをする人がいれば、社会はそれだけ幸せが増えます。人間(じんかん)が多福になれば、災害はなくなります。

もし、一生が、単に個人の損得にこだわるだけの生の営みであれば、一度の過ちで煩悩の無明が累積するのは避けられないでしょう。人との関係は不愉快になり、心も不安になるでしょう。悪事をすれば、悪が増長しますが、それでいて人に知られることを恐れるようになります。善行すれば、善の力を得て心は潔白で私心がなくなり、安らかに自在でいられるのです。これが私たちの、人として向かう方向なのです。

「人が傷つけば我痛み、人が苦しめば我悲しむ」とよく言われますが、誰かが傷ついている時、自分の心が痛み、その人の悲しみや痛みを感じて、その苦しみを分担したいという気持ちです。それが、菩薩の覚有情なのです。人の為に何かしようとすれば、ストレスを感じるのは致し方ありません。しかし、その人が困難にある故に、支援が必要なのです。同時に、私たちは奉仕できることにも感謝し、喜びに満たされます。皆さんが悟りの情を啓発され、自分が信仰する宗教の情操を発揮し、真心からの大愛をもって、人々の悲しみを我が身に感じ、心と力を尽くすことに期待しています。

人は誰でもこの天地に生まれ、その大きさは砂塵の一粒ほどに過ぎませんが、その一粒の砂でしかない私も、小さな蟻と同じく須彌山に登る気力を持っています。人には計り知れないエネルギーがありますから、自分の命を尊び、甘んじて少しばかりの力を出す決心をすれば、たとえ指一本の力であっても、、千人、万人が集まれば、千斤を動かすことができるのです。私は常に「自分の力を尽くす」と言っています。もし皆さんが私と同じ信念もっておられるならば、皆が心して、同じ志を持てば、この世の中で成せないことは、何一つありません。

(慈済月刊六七八期より)

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