善念を蓄える

初めは自分のために善念を蓄えようと思っていたが、結局、衆生の世話をするようになり、あの「私」はもう消えてしまった。

花蓮慈済病院で医療ボランティアをしていた時、ある日、静思精舍でのボランティア朝会の前に、徳伝(ドーツァン)師父に出会った。師父は、常に自分の善言、善行、善念を蓄えるように、と言ってくれた。どうやって蓄えるのだろうか?翌日、私は一つの目標を設定し、念珠を持って計算し始めた。

その時はコロナ禍のため、病室に入ってケアすることができなかったので、半分の時間は、病院の出入口で防疫の仕事を手伝っていた。以前、出口で奉仕していた時、病院を離れる患者や家族に「祝福しています!」、「萬事順調をお祈りしています!」と声をかけていた。ある日の午後、私が人々に挨拶していた時、一粒の念珠が動いたのだ。すると不思議なことに、私の視覚と聴覚が鋭くなった。善念、善言、善行を積み上げるために、私は至る所で奉仕できる機会と目標を捜していたのだ。

人々が私の前を通りすぎる時、まるで虫眼鏡で拡大されたように、一人の人間が見えるだけでなく、その人の表情や心情も見えたのだ。もし、相手の表情がぼうっとしていたり、きょろきょろ見回していれば、私は挨拶するだけでなく、「誰かが迎えに来るのですか?」と尋ねた。すると、「はい、もうタクシーを呼びました」と返事する人もいる。そして次に「外は寒いので、中で待っていてはどうですか?」と勧めた。

あの日はとても寒く、ロビーには電気ストーブが点けられていた。もし家族の人が迎えに来ると言う答えであっても、先ずロビーで座ってもらい、「迎えの車のナンバーは何番ですか?どんな色ですか?私が注意していますから、中で待っていてください。風に当たらない方がいいですよ」と話しかけたであろう。コートのファスナーを閉めてなかったり、手にコートを持っている人がいれば、「外は寒いので、暖かくして出られてはどうですか?」と声をかけた。

あの一時間に、念珠を十一回ほど回した。一つの念珠には十八粒あり、私は全部で二百回ほど廻した。あの一時間の心境もとても特別で、私の口と手足は忙しく、ずっと人と話しをして交流していた。ある時は車椅子を押す手伝いをし、またある時は、誰かを支える手伝いをしていた。しかし、私の心と思考は非常にはっきりしていて、「動禅(坐禅と同じ境地で生活のすべての動作を行うこと)」をしているという感覚だった。

これまで、自分の考えは落ち着きのない子供のように、制御出来なかった。しかしあの一時間、自分の心と体は一体になったような感じがした。真面目に奉仕するのはボランティアの本分であり、回数を数える必要はないのだが、私にとっては、念珠を回すたびに、菩薩道でまた小さな一步を進め、頭もはっきりしている、と自分に言っているようなものである。全てが衆生の為である、と上人の言葉を思い出した。あの一時間、私に見えたのは衆生であり、自分の中にあった「私」はもう消えていた。

病人として入院するのではなく、ボランティアの寮に戻って泊まって、ボランティアができることに感謝している。自分の一分一秒全ての思いが衆生を利するものであって欲しい。

(慈済月刊六七四期より)

(二〇二一年一月三日ボランティア朝会から抜粋)

(絵・陳舜芝)

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