実に愛しい義母

義母に電話すると「私は忙しいのよ!今から助念に行くから長話はできません」とか、「今週は帰ってこなくてもいい。私は慈済病院でボランティアをしますから」という返事が返ってくる。

八十六歳になった彼女は私よりも忙しく、自分のことは自分でできるから、心配しなくてもいいと言う。
私も彼女のようになりたい。

㊟助念:死者の霊を慰め、遺族を安心させるために、側に居て「念仏」すること。

「皆で資源を回収して地球を愛しましょう。上人のご健康をお祈りしています」。「あなたは楽しくリサイクル活動をすることで悩みが無い上に、地球を健康にしています。ご多幸をお祈りしています」。昨年十一月七日、オンラインで上人の行脚にお供し、上人と彰化ボランティアの会話を聞いていたが、突然「許謝麺仔」という義母の名前を耳にした。よく見ると、正しく私の義母だった。八十六歳の委員であると同時にリサイクルボランティアでもあり、近所の人から「麺仔婆ちゃん」と親しまれている。

マイクを手にした義母が上人と会話するのを見て、彼女はこんなにも自在で可愛い人だったのかと、若輩の私は驚きながらも喜びを感じた。彼女はとても孝行心が強く、證厳法師を元気づけ、安心してもらうために、勇気を持って人生で初めてのことをした。それは、大愛テレビのインタビューを受け、上人と心温まる対談をしたことである。

思い返せば一九九七年に許家に嫁入りした時、許家の嫁は努めにくいということを忠告してくれる年配者がいた。義父が末期癌だったため、結婚を早めなければならなかった。果たして、嫁入りしてからひと月も経たないうちに義父は亡くなった。私の結婚生活は、調整と順応の連続だった。

結婚した後、主人が慈誠(男性委員)の養成講座を受け始めた。一九九九年の九二一地震の夜、私たちは新居から主人の実家に帰り、義母が泊まっていくよう勧めてくれた。その翌日、彼女は子供の面倒を見るから、慈済の災害支援活動に参加しなさいと言ってくれたので、私は台中支部の受付に行って、支援チームに同行し、埔里で五日間のボランティアを務めた。

その後、義母は私たちと一緒に九二一希望工程(九二一地震で倒壊した学校の再建工事)に参加した。休日になると一家で車に乗って集集鎮でボランティアをした。二〇〇〇年に主人が慈誠の認証を受け、義母と私が慈済の活動に参加できるよう、毎週水曜日に車で台中支部での《法華経序》勉強会に連れて行ってくれた。

二〇〇一年、私は二番目の子供を産み、義母が産後ケアをしてくれた後、彼女は決心して、「菜食」をすると一家に告げた。

ある日、彼女は、「子供は二人で十分です。男の子がいなくてもよろしい。良い子で健康であればいいのです。日頃から自分の子供たちを祝福しなさい」と言った。私はそれを聞いて心が安まり、この家にお嫁に来たことを感謝した。許家の嫁は務めにくいと忠告してくれたあの時のお年寄りに、自分の言葉に対して「間違っていた」と謝ってほしいと思ったくらいだった。

許謝麺仔さんは86歳になっても元気で、歳末祝福会での経蔵劇のリハーサルに欠席したことがない。(撮影・黄宗保)

義母は私が自在でいられるように、常に実際に行動して支持してくれた。二〇〇三年の頃、私は午後三時に仕事を終えると彰化静思堂に駆け付けてボランティアをした後、夜九時過ぎに帰宅していた。彼女はよく子供の放課後に迎えに行ったり、夕食の準備をしてくれた。私たちは二〇〇四年に同時に慈済委員の認証を受けた。今思い返せば、義母がいたからこそ、嫁の私も認証を授かることができたのだ。

学校に通ったことがない義母は、慈済ボランティアになるために夜間学校に通い、小学校の学歴を取得した。その後、彼女は自分で募金帳に記入し、納金もした。長い間、彼女は資源回収をしてきたので、町の人は、段ボール箱やペットボトルがあれば、必ず「麺仔」に渡すようにしていた。時々、彼女がリサイクルのために外出している時、留守中に私が電話に出ると「麺仔、商売だ!段ボール箱が沢山あるので、早く回収に来て!」というような連絡を受け取る。

毎年の大晦日に年越しの食事を終えると、他の人の家ではテレビを見たりお菓子を食べながら話をしたりするだろうが、我が家は義母と一緒に資源の回収をするのが慣例だ。中庭で分別しながら、大愛テレビを耳で「聴いている」のである。

ある日、義母は厳しい顔つきで、「(私の夫の)瑋治(ウェイヅー)は高雄で一人暮らししているので、高雄に行って一緒に生活しないの?私のことなら、自分で面倒見れるから、心配しなくてもいいのよ。息子の世話をして下さい」と私に言った。私は言うことを聞いて高雄に住むことにした。彼女は約束通り、自分で自分のことをきちんとしている。

時々、電話すると、「私は忙しいのよ!すぐ助念に行かないといけないので、長話できません」、「今週は帰って来なくてもいいよ。私は慈済病院でボランティアに行くから」と元気よく話す。私より忙しくしている彼女は、五十歳分を上人の「寿量宝蔵」に預けているので、まだ「三十六歳」なのだ。髪は真っ白だが、元気一杯で頭の回転が速く、体は健康で、リサイクルボランティアをして何の悩みもない。

私も彼女のように、慈済の活動に投入して、悩みがなくなり、法悦に浸りたいと願っている。

(慈済月刊六七四期より)

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