(絵・陳九熹)
世の出来事を通して、この世の苦しみが分かるのです。
一層心を大きくして、大願を立てるべきです。
「菩薩は苦しんでいる衆生に縁があります」。
苦難の中にあっても足を踏ん張り、胸を張って、一歩一歩着実に、広く済度していくのです。
仏陀の故郷に恩返しすることは、私が長く心に抱いていた願いでした。今その場所が生活に困窮しているのを見ると、残念でなりません。誰かがそこへ行って善の種子を蒔く必要があると思いました。有難いことに、シンガポールとマレーシアの慈済人が大きく発心し、この三年間、ネパールとインドとの間を絶えず行き来してくれました。慈善、医療から教育面まで進め、女性への裁縫職業訓練講座も開設して、真心による奉仕を着実に進めています。
インド・ブッダガヤのスジャータ村に住むカンマンチさんは、いつも観光地で物乞いをしていて三度の食事もままならないため、近所の人や慈済人が関心を寄せていました。彼は食事で満たされると、上に向けて物乞いをしていた手のひらを下に向けて、ボランティアと一緒に人助けをしています。
慈済人は、地面に座って物乞いをしていたカンマンチさんに手を差し伸べて立たせました。生活習慣を変えて自力更生し、生活が楽になるように、そして、皆が食ベていけるようになってほしいのです。
台湾は世界地図で見ると小さな場所に過ぎません。そして慈済の歩みは、五十数年を経ましたが、世界を少し潤しただけにすぎません。それでも、五十銭から始まった竹筒歳月は一点一滴でも絶えることなく、世の中の苦難の人々に奉仕しているのです。
仏陀の正法とは何でしょう?身に感じる生離死別、生活のありのままなど、これらは避けて通れないことです。どんなに良い縁であっても、生老病死の法則に従って、誰かが先に逝き、もう一人が後に逝くのです。これが人生における自然の法則なのです。これらの全てが苦であり、真理でもあり、苦、集、滅、道はこの世の真理なのです。
苦難に遭遇した時、「私は好いこともしているのに、どうしてこんな目に遭うのだろう」と恨み言を言えば、それは多くの善根を断ち切るだけになってしまいます。しかし、或る人はとても智慧があり、人生の無常を経験することで、他の人にもこのような真実の人生ストーリーがあるのだな、と理解します。この世に生まれて来たのは学ぶためであり、こういう縁があったから、こんな事が起きたわけで、縁に従って業を消さなければならないのです。自分の向いている方向が正しければ、多くの人を助けることができます。
異なった境遇では、異なった体験をします。慈済に身を置いているのは幸せなことです。好い事に出会うと、皆で助け合い、無常が訪れた時は、法縁者が真心から寄り添ってくれるからです。菩薩の伴侶がいて、無私の愛が集まった団体はとても強固で、今も未来も善に向かって歩むことができ、迷うことはありません。
人生は確かに苦しいものですが、人間(じんかん)にあってこそ菩薩道を歩むことができるのです。「菩薩は苦しんでいる衆生に縁がある」と言われるように、私は世に苦しみがあることを知っているからこそ、一層心を広く持って大願を立て、投入するのです。苦難の中にあっても揺らぐことなく、胸を張って、一歩一歩着実に前進するのです。
私たちは自ら菩薩になると共に、菩薩を招き入れなければなりません。慈済人がトルコの地震災害で街頭募金した時のようにです。最も大切なのは、縁を逃さず、苦しみを見て自分の幸せを知り、愛の心を啓発させることです。ただ募金箱を持って呼びかけるだけでは、もったいないと思いませんか。
台湾から八千キロ離れたトルコには地震の被災者がおり、戦火を逃れたシリア難民もいます。かつて和やかな家庭があった人々でも、少数の人の無明の火が燃え盛って、あらぬ方向に心が動いたために、人同士の争いに発展したのです。小さいものは路地裏の揉め事ですが、大きくなると国と国の戦争になり、無数の人が苦しむことになるのです。
よく衆生の共業(ごうぐう)について話しますが、心に謙虚さがあって初めて、その災厄を消すことができるのです。人が法を弘めるのであり、法が人を弘めるのではありません。非常に良い法なら私たちが弘めなければなりません。街当募金とは、その実、善の念を街頭に広めることです。今は科学技術が発達して、携帯電話やオンラインで伝えることができ、誰もが法を弘めることができるようになりました。
弘法というのは、人々に分かり易い、それも真実の話をすることで、大衆に、これ以上無明にならず、欲望を押さえることを悟るよう呼びかけることです。そして人々に、少しずつ集めれば、小さな力も大きくなり、遠方の大災難を支援することができるのだと、理解してもらうのです。
苦難は無常であり、人生も無常です。今この瞬間を逃さず奉仕すれば、心は軽やかで自在になれます。日々を安らかに楽しく過ごし、心に憂いがなければ、これが最も好い事です。楽しく過ごすことは難しくありません。煩悩をなくすことも簡単です。考えを一転させて慈善に力を向ければいいのです。世の苦難にある人々に奉仕すれば、法悦に満ちるでしょう。
災禍は人の心に起きます。禍か福かは一念の差にあるのです。一念の善は浄土を造り、一念の悪で地獄に落ちるかもしれません。その僅かな偏りが、とても遠くまで影響します。混迷する世の中を見ると憂慮は尽きませんが、煩悩のとりこになってはならず、一層心を浄め、心を開いて世間の苦しみを目にすれば、自分の幸せに感謝し、それ以上に、今できる善行の機会を逃さないことです。皆さんの精進を願っております。
(慈済月刊六八一期より)