菩薩の愛は限りなく

この世に情と愛はなくてはならないものであり、菩薩は人も物も大切にし、あらゆる生命を愛護します。

愛とは独占することではなく、奉仕しても見返りを求めません。この寛大なる限りない愛は、あまねく世を覆うことができるのです。

千五百年余り前、仏陀は様々な方法で迷える衆生を目覚めさせるために、この世に現れ、人には元より無量の大愛と清らかな本性が備わっているので、誰もが悟りに至れると言いました。。毎年の灌仏会において慈済は、仏陀の生誕と母の日、世界慈済デーの三節一体を祝福します。各地の慈済人は、心を一つにしてそれぞれ灌仏会を催し、仏の恩、親の恩、衆生の恩に感謝します。その時の心は、希望と睦まじさと喜びに満ち溢れています。

灌仏会当日、私は花蓮で、日差しが強くなるのも、大雨になるのも心配でした。なぜなら、これだけ多くの人々と四大志業の幹部の皆さん、そして教育志業の先生や生徒の皆さんが静思堂前の広場に集まるからです。私は上の階から、皆が区域ごとにきれいに整列し、人文字を形作っているのを見て、大変感動しました。午後には台北の中正記念堂で行われましたが、私は同じように心配でした。なぜなら大雨だったからです。それでも五百人以上の法師の皆さんが整然と僧服姿でおごそかに入場し、人々を率いて敬虔な気持ちを啓発していく姿に、言葉で言い尽くせないほど感動しました。どのようにして恩返ししたらよいかわかりません。

灌仏会では、参加した人がそれぞれ自分の位置に立って真心と善の念を胸に抱いていたので、和の気が高まっていました。人々が正しい道を歩いている「人間(じんかん)」は、とても美しいものです。一分一秒、時時刻刻、灌仏会の時と同様に敬虔な心で、お互いに祝福しあい、良い話をして共に良いことをする、これこそが、仏陀が生を受けてから教え導いてこられた、衆生の歩くべき菩薩道なのです。

慈済は間もなく六十年目を迎えます。その一歩一歩は苦難の連続でしたが、心願が僅かでも揺らぐことはありませんでした。出だしは非常に大変でしたが、それでも私は、初心を貫いてきた自分に感謝しております。今、慈済はすでに国際的になり、私も毎日世界中を見渡し、天下の出来事に関心を寄せています。

今この時代は、災難が絶えず発生し、地、水、風、火の四つの要素が不調をきたし、天と地の威力の大きさを感じます。しかし、人の欲望はそれ以上に大きく、持っている全ての物に酔いしれていますが、いざ役目を果たなければならない時になると、僅かな責任の重さも大きく感じ、何か少しでも思い通りにならなくなると、まるで歩きながら物に当たって痛みを感じた時のように、萎縮してしまうのです。

慈済は、絶えずこの世で志業を広く進めなくてはなりません。なぜなら慈済人の発揮する慈悲心こそが、不安定になった世の中に安定の力を注ぐことができるのです。共業(ぐうごう)は、衆生の心によって引き起こされたのですから、常に衆生の心を善に導き、善法を広める縁を大切にするのです。良くないことがあれば、警戒して避けることです。この世で必要とされているものを速やかに集めて広めなければなりません。

世を驚かせる災害と衆生は密接に関係しており、もし警戒を怠ったり、或いは遠い場所で起こったりしているので、自分とは関係ないと思っていたら、それは危険な考え方です。何かに当たって痛みを覚えた時のように、環境があなたに警告を与えているのです。世界の何処かで災難が起きれば、私たちは警戒し、同時に多くの人に呼びかけ、皆で協力し合ってこそ、慈善支援を行う力が得られるのです。

世の中に苦難が多い時は、愛のある人が直ちに心から投入する必要があります。世の人々を自分の肉親と同様に愛し、大切にする人こそが菩薩であり、「覚有情」と呼ばれるのです。覚有情とは、文字通り悟りを開いた情のある人で、この世のすべての生命を愛護する人のことです。世の中には、この情と愛がなくてはならず、愛とは深く、誠実であり、独占欲を持たず、独りよがりでもなく、奉仕しても見返りを求めません。天地のように広い心に溢れるこの愛は、限りがなく、世界中を覆うことができるのです。この情と愛があれば、人生は満たされ、感謝の気持ちに溢れるのです。

仏陀は大悟徹底の大いなる聖者であり、永遠の悟りを開いた人です。その実、私たちにも仏陀と同じように本覚を備えており、喜んで責任を担うだけでいいのです。この世に生まれてきたのは一大因縁であり、こんなにも多くの同心同願の人たちと一緒にいられることは、何よりの幸福です。もし喜んで引き受けたくないのであれば、業の力で来たのであり、自分の思うようにならない人生になります。

この世に生まれて来たからには、胸を張り、私も自分に「分秒を無駄にしない」と言い聞かせています。もし自分の話した一言が相手の役に立ち、相手の心と通じ合い、聴いて分かり、役に立つならば、私はまだ役に立っていることで、私に得るものがあり、私たちはお互いの間で法縁を結んだことになります。

これまでの事を振り返ってみますと、幸いに間違いはしていません。しかし、何もせず無駄に時間を過ごしていたら、今振り返ることは何もなかったでしょう。現代は科学技術が発達していて、法(道理)を聞くのはとても簡単です。スマートフォンがあればいつでも聞けるのです。慈済の任務があれば、何時でも誘い合って出掛けることができます。自分に分秒分かたず得るものがあるように行動していれば、振り返った時に、とても充実して成果が実を結んだ貴重なものだと分かるのです。皆さんが心して精進されることを願っています。

(慈済月刊七〇三期より)

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