(絵・陳九熹)
過去の悪い考えから離れ、善を志してこの世で福を作り、時を善用して勤しめば、恩も恨みも忘れてしまいます。
人との出会いは自分を成就させてくれる道場と考え、心して修行を続ければ、あらゆる生命と善い縁が結ばれるでしょう。
毎日のように世の中のことを見聞きしますが、気候変動、国と国の争い、世の悲しみや苦しみ、また危機と無常を目にします。時を同じくして、慈済人は多くの国で活動したり、国際会議に出席したり、協力し合い、火災や水害、震災等々、関心が必要な所があれば、直ちに駆けつけています。送られてきた被災地の映像を見ると、辛くていたたまれなくなります!そして、清潔で明るく、整った環境で生活できる幸せを、有難いと思うのです。
夏はエアコン、冬はヒーター、と生活に心配がなく、衣食足りて清潔な家に住み、交通が便利なことに満足しなければなりません。そのような幸せは当たり前に有るのではなく、過去に為した平安や富、愛ある行いによって、巡ってきた果報なのです。常に足りていることを知っていれば、余りある物にも恵まれます。日々心が平安且つ自在になり、福は自ずとやって来ます。もし何事も満足できなければ、永遠に何かが足りないままです。幸せである自分を祝福し、欲を少なくし、足ることを知って奉仕すれば、絶えず福を作って福を増やせるのです。
仏陀の生きていた時代、故郷の地はとても貧しく、城門を出ると、生老病死の苦しみに喘ぐ一般人の生活を目にしました。どうすればその苦難を救うことができるのかを考えた末、一人の力では限りがあり、王宮を離れることにしたのです。そして、永劫に天下の衆生を助け、人々が苦しみから解き放たれ、再び無明の煩悩に囚われないようにする道を探し求めたのです。
仏陀の故郷に恩返しするのが、私の生涯の心願なのです。シンガポールとマレーシアの弟子たちは、それを理解し、自分の事業を手放してでも、私の代わりにネパールとインドに長期滞在し、慈善、医療、教育方面で行願してくれています。何かをするには人手が必要です。無を有に変えるには、現地の社会と深く交流を重ねなければなりません。
彼らは元々、快適な暮らしをしていましたが、仏陀の故郷に行って、社会的地位を捨て、暑さや寒さを耐え忍ぶのは、とても勇気が要ることです。現地で多くを見て、多くの事を為していますが、それは正に修行の道です。
仏陀が人間(じんかん)に来られた一大事とは、菩薩の道を教えることでした。慈済人は仏陀の故郷に到達しただけでなく、早い段階から、仏陀の説いた法を自分たちが生活する国に弘めていました。それができていたからこそ、行き着くことができたのです。形ある事を成しただけでなく、身で以て無形の教育を実践し、人々を善へと導いているのです。
慈済人の「真」と「誠」を見て、私は、人間(じんかん)での生涯が充実したものになったと感じています。皆が志を一つに、共に菩薩道を歩んでいます。この道はとても長く、前を行く人が道を敷いて導いているが故に、後の人は一歩一歩精進しなければなりません。次の世代へ伝承される歩みは偏ってはならず、分から寸に、寸から尺に幅を広げ、しっかりした足取りで進むのです。
学びに終わりはありません。学びたいと思えば更に多くを学ぶことができます。もしも一知半解ならば、理解できたとは言えません。人生は無常で、時間には限りがあります。学ぶべきことは覚りであり、仏法で以て悟りを開くのです。「学」から「覚」に達するには、菩薩道を歩むしかありません。赤子の心で学びを重ね、「道」を理解し、学んで、それを確認し、更に人を伴ってこの大いなる道を一緒に歩むのです。
一分一秒を把握して福を作り、無明で業を作らないよう警戒することが、即ち修行の重点です。
自分で日々の生活を見つめ直すと、いつも忙しくしていても、どれだけの事をやり遂げたかと考えてしまいます。結局、どうしたらいいか分からず、明日に期待するしかないのです。この世で修行するのは、淡々とした日々ではあっても、それは享受だとも言えます。それなのにまだ、できるのだろうかと自問を繰り返したりして、毎日やはり、気になることがたくさんあるのです。
一日の八万六千四百秒は、一秒一秒がチクタクと過ぎて行き、それほど長くはないのです。最も現実的なこの瞬間を捉えて、一分一秒、全ての時間を後悔しないようにするのです。生涯を通じてこのように生きれば、良心に恥じることはありません。そこでいつも、「一日過ぎると命はそれにつれて減る」という言葉で自分を励ますと共に、警鐘を鳴らしているのです。
仏陀がこの世で教えたことは「諸悪を行わず、多くの善い事を行う」であり、私たちの修行の二つの重点でもあるのです。一つは人生の改善、もう一つは無明で業を作ることを予防しているのです。
多くの人は兎角、人との関係や物事でトラブルを作ります。いつまでも人は自分に借りがあるとか、この借りは必ず返すと覚えているのに、自分が人に対してすまないことをしたとか、私はどう償えばいいのかということは、あまり覚えていないものです。前述のような負の気持ちが累積すると、今までの悪因、悪縁は消えないだけでなく、逆に悪念は積もり、心の無明は益々増え、業による障害は高くなるばかりです。
悪念が消えて善念が増えると、自ずと業の障害は消えます。悪念を忘れ、善念を志して福を作り、時を善用すれば、忙しさに恩も怨みも忘れるでしょう。人との出会いは自分にとっての道場であり、人に良い印象を与えることは、今日その人に対する修行であり、人生において善縁を結びます。人と人の関係は互いに道場と見なし、尊重し敬愛し合うことで、多くの善縁を結べば、この世は睦まじくなります。
この生涯で善の種子を育て、熟成させ、私たちと縁のある人に寄り添い、ケアすることで、その善の種子を来世まで持って行くのです。時を把握して、人間(じんかん)を善用し、どの世でもしっかりと地に足を下ろすことです。皆さんが心して精進することを願っています。
(慈済月刊六九二期より)