無我夢中で引き受ける|仁者・杜俊元

2001年10月13日、慈済関渡志業パークで開催された「一人一善 災難から遠ざかる」をテーマにした祝福会において、杜氏は代表で平和の鐘を鳴らした。彼はその一生を掛けて己の命を照らし出しただけでなく、無数の人を動かした。(撮影・顔霖沼)

二〇二二年二月、栄誉董事の杜俊元(ドゥ・ヂュンユェン)氏の高雄の自宅で、二日間の単独インタビューを行い、慈済でドキュメンタリーを撮影するという約束を取り付けた。

当時、既に病気で衰弱していた杜氏は、力を振り絞って、終始酸素吸入しながらインタビューを受けた。一つひとつの動作に、強い意志と後輩たちに対する心を込めた期待を見ることができた。

後山(花蓮の通称)出身の学生として台湾トップの台湾大学に入学し、更にアメリカ・スタンフォード大学に留学した。秀才の科学者にして実業家、そして大愛を持つ慈善家に至るまで、杜師兄は台湾における半導体産業の発展に非常に大きく貢献した。同じ半導体のパイオニアである胡定華(フー・ディンフヮ)氏と共に、「北の胡、南の杜」と称された。

「事業をするのも良いですが、志業もしなければなりません」。證厳法師がやんわりと杜師兄に言ったことがある。彼は師匠のその言葉を心に銘記して、身を以て実行した。財を捧げ、仏法の教えを説き、人々の不安を取り除いて安心を与え、人生を終えた後は、慈済大学附属病院に献体し、「無言の良師」となった。

学歴

台湾大学電機工学学士、スタンフォード大学電子工学博士。

経歴

一九六七年、IBMワトソン半導体研究センターに入社。

一九六八年台湾大学電気工学部客員助教授に就任、交通大学電子工学大学院教授を兼任。

一九七一年、華泰電子会社創設。

一九七九年、聯華電子会社初代社長に就任。

一九八七年、矽統テクノロジー社を創設。

一九八八年、慈済に参加し、大愛テレビ局会長に就任。また、慈済大学慈誠懿徳会ボランティア、慈済医療基金会理事、慈済南部栄誉理事代表、志玄文教基金会理事、印證教育基金会理事などを歴任。

杜氏は資金と人材の確保に奔走し、一九七一年に初めて台湾独自資本の半導体クローズドベース会社、華泰電子会社(写真上)を創設した。台湾半導体産業のパイオニアとして、彼は創業当時から先端技術を導入し、電子工業を台湾に根付かせた。(写真提供・華泰電子)

杜氏は中学時代から大志を抱き、故郷を離れて一大事業を成し遂げようと思った。しかし、彼の学問への道は決して平坦なものではなかった。その要因は家族の反対にあった。長い間、粘った末に、彼はやっと建国高校から台湾大学に進学し、一九六〇年に電気工学部を卒業した。

一九六一年十二月二十日、海外留学を控えていた杜氏は、大学三年生だった楊美瑳(ヤン・メイツゥオ)と結婚した(写真1)。一九九一年、慈済栄誉理事だった杜俊元氏(左) は楊美瑳さん(右) を伴って、静思精舎に證厳法師を訪ねた。(写真2)

二〇〇〇年、杜氏と美瑳さんは、長男夫婦と生まれたばかりの孫を連れて、證厳法師を訪ねた。(写真3撮影・阮義忠)。一九九八年元旦、大愛テレビ局が設立され、證厳法師は杜俊元氏に会長職を託した。二〇一一年元旦、彼は大愛テレビ局が開局十三周年を迎え、人文志業が衛星放送で繋がったことを機に、各地のリサイクルボランティアの護持に感謝した。会長の杜氏は高雄静思堂でリサイクルボランティアにポスターを贈呈した。(写真4撮影・潘機利)

二〇〇七年六月十日、音楽手話劇「清浄・大愛・無量義」が花蓮静思堂で公演された。身を以て説法し、毅然とした姿は慈済人の典範だった。(写真5、6撮影・王賢煌)

二〇〇八年四月十三日、実業家を主体にした静思生活体験キャンプの参加者が花蓮環境保全教育センターを訪れ、資源の分別を体験した。(写真7撮影・郭玉婷)

自ら慈済の海外災害支援に参加した時、杜氏は深い感動を覚え、真の法悦を感じて、積極的にボランティア活動に参加するようになった。二〇一四年七月の高雄ガス爆発事故の時、ボランティアを統率して災害支援に参加し、被災者の心を慰めた。(写真8)

孤独に甘んじ、苦しみながらも初心を養う

二日間にわたる中身の濃いインタビューの中で、杜栄誉理事は何度も「苦」という言葉を口にした。初めは既に企業経営から遠ざかり、全身全霊でボランティア活動に投入していたのだが、二〇〇三年前後、手塩に掛けて育てた華泰電子が経営危機に陥り、数千人の従業員の生活を守るために、彼は劣勢を挽回すべく、力を注いだ。当時のことを振り返り、よく一人で瑠璃光如來像の前にひざまずき、涙を流しながらより強い意志と勇気を持って、会社を苦境から救いたいと祈ったものだと語った。これらの心の内は、それまで誰にも打ち明けることはなかった。どんなに苦しくても、全部一人で背負って来たのだった。

杜栄誉理事は、病気によって深い孤独感に直面した。肉体の苦痛は気力で克服できるが、病気によって慈済の活動に参加できないことが、彼を苦しませた。苦とは、何かをしようとしても何もできないことだったのだ。

「ある日、杜博士に付き添って、空港で海外の慈済人を出迎えに行くと、傍で彼が心から楽しく笑っているのを目にしました」。ある華泰電子の上級管理職が、こう振り返った。皆が知っている杜博士は、社内ではいつも厳しい表情をしていて、仕事も全く手を抜かない。しかし、一旦慈済人となって志業に参加すると、最も輝かしい笑顔を見せ、あたかも俗世界の煩悩を忘れて、法悦の世界に入ったかのようだった。実は、彼を孤独というプレッシャーから解放したものこそ、慈済だったのだ。

「管理職であるあなたたちは、孤独感を味わわなければいけません!」とある時会議が終わる前に、杜栄誉理事が出席した幹部たちをこう励ました。独りぼっちの孤独感と冷静に向き合うのは、困難に直面した時であり、それは如何にして原則と初心を堅持するかを学ぶ、なくてはならない修練なのである。孤独という言葉は、もはや俗的な感覚ではなく、高い所から、余裕を持って、遠くを見て、深く愛する、精神の輪郭なのである。この視点から見ると、彼と法師の姿はほのかに一枚の絵に溶け込んでいるように見える。

杜栄誉理事は身を以て教えてくれた。彼の言動、愛の言葉、公正さと直言に敬意を表したい。

(慈済月刊六八五期より)

1998年、妻の美瑳さんの考えを聞いて、矽統テクノロジーの会長だった杜氏は一気に十五億元(約六十億円)相当の土地を慈済に寄付した。その翌年、彼は更に時価十三億元(約五十億円)もの会社の株を寄付した。それは全て杜氏の證厳法師に対する心の中の約束を実践したものである。ハイテク産業のパイオニアから慈済志業での全力投球まで、その過程において、妻はいつも一番大事な時に彼のために縁を逃さず、彼の人生の道をより広くさせて来た。(撮影・蕭耀華)

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