0403台湾花蓮地震で損壊した家屋を修繕—安全な住まいのために 専業ボランティアが結集

地震で壁にひびが入った鳳林鎮の古い住宅。80歳の家主が安心して住めるよう、ボランティアの左官がモルタルで修理した。(撮影・陳何嬌)

0403台湾花蓮地震で、被災範囲の広さと修繕必要戸数の多さから、業者不足に陥った。
台湾各地から左官、鉄工、ペンキ、水道・電気、木工などプロのボランティアが、機械や工具を携えて花連にやって来た。
そして、プロでないボランティアも集まって、廃棄物の運搬などを手伝い、皆で力を合わせて、地元住民のために、安全な住まいを取り戻す手伝いをした。

昨夜は花蓮中の人が眠れなかったと思います……」。花蓮県吉安郷勝安村の葉さんは、慈済ボランティアが約束通り家の修繕に訪れたのを見て深く感動すると共に、彼らもきっと眠れない一夜を過ごしたに違いないと思い、心からお礼を述べた。

四月三日のマグニチュード七・二の地震から一カ月間、千三百回を超える余震が続いた。他の地域からやって来た慈済ボランティアは、頻発する余震を体験したことで、家の修繕を待ち望む被災者の気持ちにいっそう共感を覚えた。そして、安全を確認した後、昨日調査してから、購入した材料と工具で、葉さんの家の三階の床のタイル張りから始めることにした。全く同じタイルが手に入らなかったため、ボランティアは知恵を絞って、浮き上がっただけで割れていないタイルをきれいに剥がし、元の場所にはめ込むことにした。このような丁寧な作業は手間暇が余計に掛かったが、元通りの美しさが保たれ、家主を安心させた。

三階の床面の修理を終えると、翌日は浴室の壁の剥がれたタイルと四階の床の浮き上がったタイルを修理した。これらを終えた後、ボランティアはふとベランダのタイルもかなり広い範囲で破損していることに気づいた。家主は「あっ、そうなんですか、気づきませんでした」と首をかしげた。その日はかなり雨が降っていたが、ボランティアは工事を中断しようとはせず、キャンバスシートで臨時の雨よけを作り、セメントで床面を平らにした。

その二日間、三階と四階は砂ぼこりが舞い、ドリルやハンマー、研磨機の音と足音で喧しかったが、ようやく終了し、一階のリビングには笑い声や話し声が響いた。花蓮慈済ボランティアの曽金財(ヅン・ジンツァイ)さんと呉玉鶴(ウー・ユーホー)さん夫妻は、せっかくなのでと飲み物を持って来てねぎらった。

震災から二週間、葉さんはずっと「職人が見つからず、どうしよう?」と悩んでいたという。そこへ大勢の慈済ボランティアがやってきたのである。

「十数人も来て、リビングがいっぱいになるほどでした……」と彼女は感動すると同時に、感謝した。そして、ボランティアが贈ってくれた竹筒募金箱を両手に持ち、夫に向かって「私たちも愛を入れましょう」と言った。

プロが立ち上がった

0403地震で、花蓮の多くの建物が全半壊した他、壁の亀裂やタイルの剥落、塀の倒壊など、一部損壊の住宅も数百戸に上った。多くの住宅が被災したため、一時、地元業者だけでは全く修理が追いつかなかった。

慈済基金会は、緊急支援金の配付や怪我人の慰問など緊急支援を終えた後、花蓮県政府と協議し、吉安郷、新城郷、秀林郷の一部損壊住宅の修繕を引き受けることにした。四月十九日から五月二十二日にかけて通報があった三百二十一戸に対して、実際に調査を行った後、家主が自力で修繕するか慈済が修理するかを決めてもらった結果、家主の同意を得て修理が完了したのは百六十八戸であった。時を置かずして、全半壊世帯の中長期的居住計画について県政府と協議した。

高雄、宜蘭、北部、桃園、新竹、中部から左官、鉄工、水道・電気など建築関連のプロが、工具と「愛」を携えて花蓮に結集し、工事が専門ではないボランティアは、事務や作業現場の手伝いをした。支援対象は経済状況で選別するのではなく、一人暮らしのお年寄りや貧しい病人などを優先した。そして、その過程で更に慈済の支援が必要かどうかなども把握した。

修繕チームは花蓮のボランティアと郷長、村長などが同行して、初歩的な家庭訪問を行った。家主の案内で室内に入って、報告資料と現場の状況を照らし合わせながら、修理項目を話し合い、タイルやセメント、シリコン等の材料を見積もり、工事の日取りを決めた。同行した吉安郷勝安村幹事の温文彬(ウェン・ウェンビン)さんはこう話した。「一部損壊の住宅のほとんどは軽微な損壊なので、業者もわざわざ来たがりません。ですから、慈済が直ちに支援の手を差し伸べてくれたことに本当に感謝しています」。

また、吉安郷北昌村の李さんもこう語った。

「被害が大きかった花蓮では、修理が必要な建物も多いのですが、来てくれる職人さんが見つからなくて……。慈済の行動は素早く、本当に助かりました」。

ボランティアが家の前で着いたことを家主に知らせ、修繕チームが施工の準備をした(写真1撮影・蔡麗莉)。亀裂が入った住宅の壁面。手が入るほどの大きな亀裂もあった(写真2撮影・陳亜屏、写真3撮影・黄雪芳)。

安全な住まいあっての安心

ボランティアを被災世帯に案内した吉安郷勝安村の陳羿華(チェン・イーフヮ)村長はこう言った。「慈済の下見と温かい言葉には、ずいぶん元気づけられました。特に、被災地域が広く、被害を受けた建物も多いので、今すぐ業者を見つけるのは容易ではありません」。

台北から来たボランティアの蔡明鴻(ツァイ・ミンホン)さんも、調査の過程で、多くの住居は被害こそ深刻ではなかったが、住人と話すうちに、彼らの不安な気持ちが感じられた。「家を修繕することで、住民に安心してもらえる」と蔡さんは言った。

四月二十四日の午後、高雄と北部のボランティア計十人が、吉安郷の李お婆さんの家の修繕に訪れた。築四十年の古い家は、地震後に壁や柱に亀裂が入り、ドアフレームも変形しているようだった。ボランティアの林淑娥(リン・スーオ)さんが中に入ると、明るくあいさつした。「お婆ちゃん、この人たちは台北から来たんですよ」。

すると、お婆さんは心配そうに、「台北からの道は通行止めだよ。危ないのに」と言った。

ボランティアは、安全を確認してから来たことを説明し、「こんな状態を見ると、私たちも落ち着かないですよ。ちょっと直せば、大丈夫ですからね!」と言った。お婆さんはなおも心配そうに「気をつけてくださいね!」と念を押した。

ボランティアの林世傑(リン・スージエ)さんはプロの左官である。地震発生後、すぐに慈誠隊工務チームに連絡を取り、「できることがあれば言ってください。仕事を置いてでも手伝いに行きます」と伝えた。花蓮に来て二日間、余震が絶えず、皆戦々恐々としていた。だからこそ彼は、尚更地元住民の気持ちが理解できた。

「表面だけ修理するのではなく、丁寧にやらなければなりません」。林さんはこれまでの経験から、もし壁や柱の中の鉄筋が錆びていれば、コンクリートが割れるため、壁面を壊して確認するしかないと判断した。「昨日下見に来た時、お婆ちゃんは『これだけの仕事でわざわざ来てもらってすまないね』と言っていましたね。でも、こんなに小さな亀裂なのに、こんな大きな穴を開けちゃいましたよ」と林さんが冗談めかして言ったので、皆大笑いした。彼は直ぐ「私たちの仕事は信用第一ですからね」と付け足した。

ボランティアは壁面のコンクリートを叩き落とし、中の鉄筋のサビを落とした。こうすれば、鉄筋は長持ちするのだ。「法師は、自分の家だと思って直しなさいと言いました」と林さんが言った。

ボランティアが忙しく作業している間、お婆さんはどこかに姿を消していた。皆に食べてもらおうと、自分で栽培したパパイヤとオレンジを切りに台所へ行っていたのだ。セメントと砂が届くのを待っている間、皆がリビングで車座になり、お婆さんとおしゃべりをした。

その日は丁度、林さんの五十七歳の誕生日で、お婆さんも「おめでとう!」と祝ってくれたので、林さんは感謝して、「百二十歳まで長生きしてくださいね」と返した。その後、練ったモルタルを壁と柱に塗り、平らにして、工事は完了した。車が走り出し、山沿いの家がゆっくり遠ざかって行った。雨はまだ降り続いていたが、お婆さんのパパイヤを思い出すと、皆心が温かくなるのを感じた。

亀裂が入った壁のタイルを電動ドリルで剥がし、損傷の深さを確認した。モルタルで亀裂を埋めてから、新しいタイルを貼った。(撮影・葉晋宏)

浮き上がったタイルを取り除き、一枚一枚新しいタイルを貼った。(撮影・趙子雄)

地元チームも皆の拠り所

地震発生後、緊急ケアや配付作業に駆け回っていた花蓮のボランティアたちは、それが済むとすぐに復旧、復興支援に入った。花蓮合心チームボランティアの謝富裕(シェ・フーユー)さんは、各地からやってき来た慈済人に対して、「皆さん、遠くからはるばる駆けつけてくださって、本当にありがとうございます。拠り所ができて、本当に心強く思っています」と声を詰まらせた。謝さんによると、合心チームは毎日交替で静思堂に駐在して守り、外で働く法縁者におやつを用意したり、地元チームが修繕チームに同行して、訪問ケアと修繕作業を行ったりしている。また、四月二十四日以降、静思精舎の師父たちは、進んで修繕ボランティアのために昼食を用意した。

慈済基金会慈善志業発展処防災チームリーダーの劉秋伶(リュウ・チュウリン)さんは、「余震が続いている花蓮には、来たがらない人が多いというのに……」としみじみと言った。彼女は毎日、修繕待ち、修繕中、修繕済み、自己処理、未連絡などの戸数を集計する他、連絡や接待、当番などもこなしていた。その過程で彼女が目にしたのは、五百人のボランティアがリュックを背負い、装備を満載した移動建材車で花蓮に駆けつけ、地元のボランティアと下見に行き、人手不足と材料不足を克服して、迅速に家を修繕する姿だった。

ボランティアの多くは銀髪の高齢者だったが、彼らは「まだ若いんだぞ」と言って笑った。住民は崩れて地面いっぱいに散乱した塀のレンガを前に、なす術もなかった。しかし、ボランティアたちは、十八キロの電動ハンマーを担ぎ、塀を次々に粉々にしてから一輪車に載せては、瓦礫を表に運んで積み上げていた。

花蓮では大勢のボランティアがチームを組んで働いた。街の至る所で白い靴を見かけ、優しいあいさつと温かい抱擁で、長い間の不安で張り詰めた住民の心を解きほぐしていた。静思堂修繕サービスセンターの事務スタッフも大変な日々だった。毎日彼らが家に帰るのは、殆ど十二時を回っていた。一方、より多くのボランティアが参加するようになり、時間を登録して、事務や雑務を担った。また、花蓮慈済病院の医師までもが、外来の休憩時間を利用してデータの入力を手伝った。

地震は人類に大自然の力を見せつけたと共に、人々は、社会の至る所に思いやりがあふれ、善と愛が行き交い、花蓮の街角に溢れるのを目にした。(資料の提供・李志成、蔡翠容、蕭恵玲、呉玉対、荘玉美、蔡麗莉、李美慧、洪素養、呉亜馨、黄若嘉、劉秋伶、呉進輝)

(慈済月刊六九一期より)

倒壊した塀の瓦礫を片付けるボランティア。狭い路地は一輪車も入れないため、ボランティアたちがリレー式で運び出した。(撮影・黄雪芳)

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