日本—能登半島地震 復興の道

石川県北部に位置し、日本海に向かって突き出している能登半島は、豊かで美しい自然に囲まれている。
有名な輪島市白米千枚田は、元日の強い地震で被害を受け、千枚の棚田のうち、八割に亀裂が入るか、土砂で押し潰された。
六月の強い日ざしの下で、農家の人々は田植えを済ませた田で草むしりをしていた。
現地で農業が復興の道を歩んでいることの象徴だ。

震災から半年、再建を待つ

輪島市町野町の一角にある民家では、六月にバラの花が満開になり、
庭はいつものように美しかったが、花を植えた主人はもうここには住めない。
震災から半年以上が経っても、水道や電気のインフラ、道路などは復旧中で、
輪島市の公式統計によると、全体の再建進度は一割に留まっている。

飛行機が石川県にある小松空港に降り立ち、入国手続きを済ませると、私たちはその足で輪島市へ向かい、車で里山街道を進んだ。この道はまるでリボンのようにくねくねと、能登半島の北陸地方の海岸線と山間部の間を縫っているが、被災地に通じる唯一の道でもある。

一路北へ向かい、左手にはてしない日本海が広がり、海と空が一つに溶け込んでいた。山間部に進むと里山の緑が目に映り、山林の間に町や村が点在していた。古民家の黒瓦と白壁が古風で歴史の趣を醸し出していた。四車線の道が二車線になり、さらに交互に通行する片道通行になり、道路事情は益々悪くなった。遠くの青い山は禿げたように土砂が滑り落ちて杉の木が薙ぎ倒されているのが見え、近寄ってみると黒瓦屋根が地面にべったり伏せている家があった。

山河や大地の傷跡を目の当たりにして、證厳法師の「歩く時は優しく、地面が痛がるから」という言葉の意味がようやく理解できた。

白米千枚田の復興

今年一月一日、能登半島でマグニチュード七・六の強い地震が発生し、甚大な被害を受けた石川県全体で八万棟以上の家屋が損壊した。慈済は石川県の六つの市町村で見舞金を配付した。対象は政府が半壊以上と認定し、且つ六十五歳以上の高齢者が同居している世帯である。五月から七月まで、合計一万一千世帯余りに見舞金が贈られた。

台湾から来た私たちは、六月二十七日に被災地の輪島に到着した後、先ず白米千枚田を訪れた。日本海に面し、自然の地形に沿って大小合わせて千四枚の棚田が広がっており、世界農業遺産「能登里山里海」の重要な一部を成していた。しかし、地震で八割の棚田に亀裂が入り、最も深いもので一メートルに達していた。海岸沿いの遊歩道は崩れ、上から滑り落ちて来た土砂に埋もれて、元の様子を見ることはできなかった。

千枚田愛耕会の人々は努力して、被害が比較的軽かった水田を修復し、六月中旬までに百二十枚の棚田で田植えを終えた。今年の総収穫量は百キロに満たないと見込まれており、一粒一粒が貴重な宝なのである。

椎茸農家の高森正治さんは、産業の復興だけでなく、山間部に住む高齢者たちの生活をどのように再建したらいいかを心配している。(撮影・楊景卉)

田んぼで腰をかがめて草むしりをしていた数人の高齢者たちも、翌朝、輪島市南志見公民館に来て、慈済の見舞金を受け取った。そこは広くて快適で、村人たちにとっては特別な意味を持っていた。震災後、多くの人がそこに避難したのである。公民館の一角には、今でも生活用品や車椅子、便器などが積んである。

午後の配付は町野公民館で行われたが、着く前に道の両側に車がぎっしり止まっているのが見え、見舞金を受け取りに来た人の列がまるで大きな龍のように続き、頭は見えても尻尾が見えなかった。公民館から五十メートルのところに廃墟が道を塞いでいた。黒瓦の大屋根は見えても白い壁は見当たらない。全て崩れてしまったのだ。

更に五十メートル進むと、車庫の中で一台の車が押し潰され、永久に出られなくなっていた。近くの廃墟には、食卓だけが無傷で露出していた。地震は新年に発生した。日本の人々にとって一年の中で最も重要な祝日であり、遠くで暮らしている子供たちが帰省して、家族団欒するはずの日だった。その日、輪島市で震度七を計測し、巨大な地震で輪島市は西に約一・四メートル移動し、地表は約四メートル隆起した。土石流と路面の損壊で、多くの村落が孤立無縁となった。その時この食卓を囲んで新年を祝っていた家族が再び集まる日は、訪れるのだろうか。

近くの路地に入ると、美しい生垣に囲まれた裕福な家も、黒瓦と白壁で門前にバラの花が咲き誇る民家も全て、住人が去って空き家になっていた。大きな被害の前では、全ての人が平等なのである。

能登半島の震災から半年が経過したが、ボランティアたちは何度も輪島市などの被災地を訪れ、公共機関と打ち合わせをして実質的な支援モデルについて模索している。(撮影・陳静慧)

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辛抱強く春の再来を待つ

九十二歳の室谷敦子さんは、見舞金を受け取った後、ボランティアが淹れた熱いお茶を受け取り、目頭を赤くした。大阪から来たボランティアの施燕芬(シー・イエンフェン)さんが彼女の手を握って、話に耳を傾けた。

地震発生後、室谷お婆さんはホテルに行き、三カ月間そこで過ごしてから抽選を経て現在の仮住まいに移り住んだ。彼女の家は半壊状態で、今でも業者が来て解体するのを待っている。復興の過程は遠く、厳しいものだが、室谷さんは泣き言を言うこともなく、希望を失うこともなかった。どんなに苦しくても「我慢」するだけである。

東洋に伝わる文化において、忍耐は一種の美徳とされる。日本語の「我慢」には忍耐という意味もあるが、それ以上に自己制御と内心の平静を強調している。これは、日本文化において重視されている内観、自律、情緒管理と深く関係している。「忍耐」であれ「我慢」であれ、挑戦や困難に直面した時、内面的な安定と堅持する精神は保たなければならない。

配付期間中、急に大雨が降り出し、直ぐに止んだので、町野公民館の三階から外を見ると、近くにある傾いた家や山々が目に飛び込んできた。雨後の山は穏やかで、空は一層青く、田畑はより緑を色濃くしていた。能登半島という場所は四季がはっきりしている。町野の人々は、冬に氷で閉ざされた時にどこにも行けない状態と地震後は同じようなものだと語る。「我慢」し続ければ、春がやってくることをよく知っている。

6月28日、輪島市町野町公民館での配付活動中、突然の雨が降り出し、ボランティアたちは迅速に4つのテントを立て、住民が雨宿りできるようにした。また、列の後方にはプラスチックの板の雨よけを準備した。(撮影・林淑懷)

「絆」の中で再生

被災地では、「絆」という字をよく見かける。これは人と人との深いつながりと助け合いを強調しており、困難の中で共に努力し励ましあう関係を表す。能登半島は海に囲まれ、人と自然、そして先祖の魂と密接に結びついている。時代が変わり、生活様式が変わっても、人々に受け継がれてきた祭りが、今でも住民の心を繋いでいる。

地域の特色を色濃く表している輪島キリコ会館には、江戸時代と明治時代に作られた約三十基の貴重な工芸品が保存、展示されている。地震の後、職員が会館に入って調査した際、二十基以上のキリコ(灯籠)が倒れているのを見て悲嘆に暮れた。「地震は日常生活を奪っただけでなく、能登の魂までも奪うんか」。会館は大きな被害を受け、今も閉館中である。

六月二十九日から二日続けて、慈済は会館の中心建物に繋がった屋外のキリコ担ぎ体験エリアで配付を行った。そこは柱があっても壁がなく、会館の骨組みと接続部分は至る所で亀裂が入り、地面の高低差は三十から五十センチに達し、配付会場は波のように起伏していた。

配付は九時開始の予定だったが、六時にはすでに住民が朝日の下で長蛇の列を作っていた。そのため、開始時間を三十分早め、可能な限り列を日陰になる場所へ移動させた。旭岡晃宏さんと中村倫子さんは住民の中でも若いうちに入り、お年寄りに代わって見舞金を受け取りに来ていた。彼らに列の移動の手伝いをお願いすると、自主的にプラカードを作って、住民に並ぶ位置を案内したりして、最後まで手伝ってくれた。そして配付が終わる頃にやっと自分たちの見舞金を受け取った。

「十名さん、こちらへどうぞ」。坂井さんは列の進み具合を見ながら、手を挙げて合図をしていた。船本景子さんは配付順番の案内で、「足元に気をつけてください!」と声をかけた。また、相羽利子さんは一度に十人に、涼しい待合所を離れて配付エリアで並ぶよう案内すると同時に、足元の高低差に注意するよう促した。

住民に奉仕する現地ボランティアは全て、地震後に出現した力強いサポーターである。坂井さんと船本さんは前々回の配付で見舞金を受け取った住民であり、今回はボランテイアとして参加してくれた。相羽利子さんの場合、慈済との縁はもっと早い。二〇一一年の三・一一東日本大震災の後、宮城県で行われた慈済の見舞金配付活動に参加したことがあるのだ。今回は事務所の同僚である和田真太郎さんも誘って参加してくれた。

時間が経つにつれ、太陽はますます直射し、日陰が少なくなっていったが、列はますます長くなり、何度も折り返していた。山下博之さんと和田さんはそれぞれプラカードを持ち、「ここが列の最後尾です。見舞金を受け取るまでに三時間待ちとなっています」と住民に知らせていた。

山下さんは、白米千枚田愛耕会のメンバーで、地震後に田んぼが損壊し、家が崩れ、母親が病気になったにも関わらず、二日間の配付活動に参加した。「台湾や海外からも、私たちを応援してくれているのだと分かりました。私たちにとって前に向かって進む力になっています」と言った。

慈済ボランティアは6月下旬、輪島市と中能登町で見舞金を配付した。第三回には合計4575世帯に配付した。(撮影・陳文絲)

遠方から心のこもった祝福

塩田正喜さんは漆器「輪島塗」の職人で、見舞金を受け取るときに感謝の気持ちを中国語に翻訳し、自筆で感謝の手紙を書いてボランティアに渡した。そこには次のように書かれていた。「台湾の皆さんの寛大な気持ちに深く感謝いたします。この寄付は復興に使わせていただきます。皆さんもどうか体に気をつけて、幸せにお過ごしください」。

住民の沖崎恵也さんもその場で感謝の手紙を書いた。「慈済の皆さんへ 心から感謝を申し上げます。いただいたお金は大切に使わせて頂きます」。最も敬虔な言葉で感謝の気持ちが表されていた。「口頭で伝えるだけでは気持ちが十分に伝わりません。どうしても文字にして慈済ボランティアに手渡さなければ、と思いました」。

二日続けてボランティアをした中村さんの家は、輪島市の朝市通りにあった。地震の後で津波警報が発令されたが、輪島市に津波の大きな被害はなかった。但し、地震によって火災が発生し、朝市周辺の広い地域を焼き尽くしてしまった。中村さんの家も全焼し、今は仮設住宅に住んでいる。

「地震発生からずっと受け取る側でした。今日ボランティアとして参加してみて、実は支援する側も簡単ではないことがわかりました」。

二日続けてボランティアに参加した人の中に、福井市から来た西口智則さん一家の姿があった。妻の羅婷婷さんは台湾出身で、夫婦は息子の裕郎君をつれて地域住民を支援した。智則さんは、「皆さんが遠くから来られたのは現金を配るためだなんて、信じられませんでした」と言った。

現金は大切に扱う必要がある。日本人ボランティアの三田めぐみさんは配付チームを担当した。「私は受け取りに来られた方に『この中には現金が入っています!』と伝えました。すると、とても感動したようで、『今、台湾も大変ですよね。花蓮で地震があったばかりなのに、皆さんがわざわざ日本に来て助けてくれるなんて、本当に感謝しています』と言われました。慈済は一番実用的な現金を配付することで、復興における住民の不安を軽減しています」。

他にも、「この街は見捨てられるんじゃないかと思っていましたが、温かい見舞金を受け取ってからは、積極的に生きていこうと思うようになりました。本当にありがとうございました」と話す住民もいた。

白米千枚田愛耕会のメンバーである山下博之さんが、自主的に慈済の配付会場に来てボランティアをした。プラカードを掲げ、列の後方は3時間待ちであることを集まった人に伝えた。(撮影・陳文絲)

能登の人と田んぼ

午後四時、輪島キリコ会館の屋外での配付活動が終了した時、雨も止んでいたが、地面のくぼみには水が溜まっていた。あるボランティアが言った。

「これ、千枚田のようですね。甘露の雨が降って、その水面が天の光を映しています」。

見舞金の配付会場ではどこでも、住民たちの涙と笑顔が入り混じった姿が見られ、悲惨な体験を語る声が聞こえていた。日本人でも台湾人でも、配付チームのボランティアの一員として恭しく見舞金を住民に手渡す姿は同じだ。行政チームは任務を厭わず、法縁者ケアチームは寄り添い慰め、また、記録担当や待機、案内などの機能チームの姿もあり、皆でいくつもの任務を兼ねて、互いに補い合い、毎回の配付活動をこなした。

慈済ボランティアは、千枚田愛耕会の人々のように、どんな小さな田でも諦めず、福田を耕して善の種を植える。強靭な能登の人は、先祖に倣い、冬に雪が降ればどこにも行けないので、平穏な時から互いに支え合い、災害が来た時に互いに助け合う。夏が訪れる頃には能登の街に復興が進み、一緒にキリコを担ぐ日が来てほしいものだ。里山里海の恵みに感謝し、災難が無くなることを私たちは切に願った。

(慈済月刊六九三期より)

災害復興と生活再建能登半島地震被災地支援の記録

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