人生とは苦しいもので、この世は無常であることを警告しています。放下するのはとても難しいですが、これがまた生命の教育なのです。
周りの縁を大切にし、分秒分かたず精進して奉仕し、互いに祝福し、励まし合いながら、菩薩道を歩んでください。
人生の無常は嘆かわしいもので、生・老・病・死という自然の法則は、明らかな道理ですが、忘れられない人がいます。皆さんも昇航(スン・ハン)を知っていると思います。彼は青年の頃から慈済に参加して、多くの慈青を招き入れただけでなく、結婚して一家の主人になると、慈済の志業精神を担い、フィリピン支部の大黒柱となって、数多くの人たちと良縁を結びました。
フィリピンと台湾は地理的に近く、慈済の情も深く、毎回風災や火災、震災などの災害が発生すると、救済に大変な労力と思いやりを注ぎ、フィリピンの慈済人がたくさん奉仕してくれたことにとても感謝しています。二○○九年の台風十六号(ケッツァーナ)や二○一三年の台風三十号(ハイエン)被害では、慈済が「仕事を与えて支援に代える」方式によって、街全体で数十万人を動員して、町の復旧を果たしました。容易なことではありません。その時の昇航さんは弱冠三十幾つで、参加者の確認と賃金の支払いをしなければなりませんでした。痩せた体で台上に上がって、マイクを持って人々に話しかけていた姿が、今でも私の脳裏に残っています。
昇航はご家族の縁に育まれ、慈済の道場に入るようになり、更にフィリピン慈済人を導いて成果を上げました。彼は一粒の非常に堅固な種のように、生涯脇道に逸れることなく、世のために奉仕してきました。しかし彼の過去生の因と縁により、この種が大木になるまで待ってくれませんでした。とても惜しまれることで、心が痛みます。私の心の中では、彼は永遠に青年のままです。投入して、人々を導いてくれた若者の模範でした。如何にして彼を手放せば良いかわかりません。皆さんも永遠に彼を忘れないと思います。
五十一歳という若さで、三十年以上も慈済に尽くしました。彼の慧命はとても長く、生命価値は充分なものでした。彼の模範的な行動は、私たちが手本にしなければなりません。彼は、自ら道を切り開いて広くし、自ら造って得ました。心は清浄そのものでした。彼の行く路を私たちは、心配する必要はありませんが、彼のこのような情を祝福しなければなりません。
昇航は修行を積んでおり、道理に明るく、因縁がやって来た時は、さっぱりと離れて行ったのだと思います。彼は既に解脱し、弱々しい古い体から抜け出し、何の気掛かりもなく、早く逝って早く戻って来て、未来の道を敷く人になり、私たちの菩薩道を引き継いでくれることでしょう。彼は入院する前、応接室のあの窓辺に座って、私の法話を聴いていた時、彼の心はとても軽やかで安らぎに満ちていました。彼はこの生涯で道をとても歩きやすいものにしてくれました。そして良い縁にも恵まれていました。彼は既に福徳を携えて、彼と縁のある慈済人の家庭に生まれ変わり、人々に笑顔を振り撒く可愛い子供となっており、その幸福な家庭ですくすくと育まれていることを、私は確信しております。
放下することは非常に困難なことではありますが、これが修行の道なのです。私たちは彼のことを心配せず、彼が私たちに生命の教育をくれたのだと理解し、彼を思い出したら、思い切り胸を張り、一秒でも多ければ、それだけ精進するのです。
彼の病は稀に見る疾病で、私たちの医療体系は全力を尽くし、放棄することなく、海外にもこのような症例がないか、治療の薬はあるのかを探し求めました。これにより、医療スタッフはこの病源をさらに研究し、可能な治療法を探る必要があると感じるようになりました。彼はその人生で病気の症状を示し、医師や科学者、生理学者に研究を深め、より多くの患者を助けるよう促したのです。そう考えれば、彼の功徳にもなるでしょう。
仏陀が人間(じんかん)に来て仏法の真理を説かれましたが、最も真実の法が無常です。人生において物質または生命にかかわらず、そのすべては因縁によって生滅します。人生とは苦しいもので、また私たちに、この世に永劫はなく、全てが千変万化し、心のままに満足を得ることは難しい、と警告しているのです。誰にも今日、明日に起こる事は知り得ません。今日が過ぎ、成した事はその大小に関わらず、因は既に定まり、縁は成り立ち、それが累積するだけです。過ぎたことは過ぎ去り、それを取り戻すことも留めることもできませんが、私たちは智慧を啓発しなればなりません。
時間は影も形もなく、あっという間に過ぎ去ります。私たちは生命を大切にし、人生を本来の価値があるようにし、価値ある方法に費やさなければなりません。昇航を思うと、私は直ちに生命と因縁を無駄にしないように、と感じるのです。顧みると、自分も自然の法則に則って、年を取り、体力も衰えました。しかし、息をしている間、声に出して話ができる限り、日々の良い話をして、絶えず気力を振り絞って奉仕します。
情を放下するのは難しいですが、時は過ぎて行き、ゆっくりと回復するでしょう。常と無常の間で、達観し、納得することです。その実、道理はとても平凡でも、思い詰めると煩悩が起きます。人と人の間は、どんな時であっても、お互いに祝福し合い、周りの因縁を大切にし、互いに励まし合って、菩薩道をしっかりと歩きましょう。道さえ正しく敷き詰めれば、未来の長さに関係はありません。これが生生世世歩くべき道で、どんなに短い時間でもこの思いが途切れてはならず、緊密に繋げて、大願力を永遠に持ち続けるのです。皆さんの精進を願っております。
(慈済月刊七〇四期より)


