十年前に建てられた仮設教室は、今も学校で使われている。
震災を経験した児童たちは、慈済の就学支援を受けた後、社会を支える存在となっている。教育は貧困から脱出する希望であることを、フィリピン・ボホール島の再建に参加したボランティアたちは目の当たりにした。
10年前にインファント・キング・アカデミーの仮設教室を支援建設した台湾のボランティアが、かつての地を再訪し、生徒たちとの再会を楽しんだ。
フィリピンのボホール島は有名な観光地である。ダイビングの天国と言われ、謎めいた小丘郡のチョコレートヒルズや、珍しい保護動物であるメガネザルの生息地もある。このような印象深い観光地に加え、素朴でホスピタリティーに溢れ、信仰深いボホール島の住民は、たとえ言葉が通じなくても、温かい笑顔一つで隔たりを溶かしてくれる。
二○二四年十二月、大愛テレビ撮影チームはこの美しい島に足を運び、慈済ボランティアがこの十年間、地道に積み重ねてきた歩みを目の当たりにした。その中でも特に教育は注目する価値があった。
フィリピンには数多くの大学があるが、多くの貧困家庭の子供たちは、中学教育さえも終えることができない。二〇一八年のフィリピン教育省の統計によると、中学の中退率は入学者全体の11%で、たとえ中学を順調に卒業したとしても、大学まで進んだ割合は半数以下となっている。二○二三年までの統計によると、フィリピンの人口一億一千七百万人余りのうち、十五%超を占める約一千七百五十四万人が貧困ライン以下にあり、約三百万世帯が今の収入では必要最低限の生活すら満たすことができていない。平均的な五人家族では、月収は約一万二千ペソで、日本円にすると約三万円にも満たない。生活維持さえ困難な中、子供たちに教育を受けさせる余裕がどこにあるというのだろうか。多くの子供たちは進学の夢を諦めざるを得ないのである。
そこで慈済は、ボホール島に対して、慈善、個別医療支援、そして教育方面から、離島の子供たちが学業を終え、貧困から抜け出す手助けをしている。
震災後の最も心配な課題は教育
二○一三年十月十五日、ボホール島でマグニチュード七・二の大地震が発生した。多くの建物が倒壊し、死傷者は多数に上った。飛行機で約一時間半離れたマニラから慈済ボランティアがボホール島に入り、被災状況を調査し、配付活動を行った。しかし、その三週間後に台風三十号(ハイエン)が近隣のタクロバン市とオーモック市などを襲い、壊滅的な被害をもたらした。慈済を含む多くのNGO団体は急遽そちらに支援の重点を移したので、ボホール島での支援活動はいったん中断せざるを得なかった。
一カ月以上が経ち、ボホール島の調査チームの一員であった蔡青山(ツァイ・チンサン)さんが静思精舎に戻って、台風被害への支援活動について報告した。すると證厳法師は優しく、「ボホール島を忘れないように」と声をかけた。その言葉を胸に刻み、蔡さんは二○一四年初めに再びボランティアたちとボホール島を訪れた。すると地元の政府職員が、「お願いです。学校を見に来てください。生徒たちはもう何カ月もまともに授業を受けていないのです」と懇願した。
当時高校で最終学期に通っていたヴェルジーさんは、地震で教室が倒壊したため、クラスメートたちとテントで授業を受けていた。晴れた日はとても蒸し暑く、雨の日はテント内に水溜まりができ、とても学習できる環境ではなかった。彼女が卒業を控えたある日、慈済ボランティアが被害状況の調査に学校を訪れ、仮設教室の建設支援を決定した。
教室の建材は六月初めに到着し、台湾からのボランティアチームもボホール島に入って、保護者や教師、住民たちと共に建設作業に取り組んだ。ボランティアチームが組み立て技術を教え、最終的に十九校で百五十の仮設教室を完成させた。
ヴェルジーさんも村の住民と共に教室の床タイル作りに参加した。自分は卒業したが、後輩たちが安心して授業を受けられることをとてもうれしく思ったと言う。
2013年10月、ボホール島で発生した強い地震により多くの校舎が倒壊した。サンディアン国立中学校では大木の下にテントを張って授業を再開した。(撮影・林炎煌)
2014年7月にはカーメル・アカデミーの仮設教室が完成し、使用が開始された。(撮影・博麗妮)
十年後の心温まる再会
当時仮設教室の建設に参加した台湾のボランティアたちが、二○二四年末にボホール島の慈済集会所十周年記念に参加した。その日、記念行事が始まる前の空いた時間を利用して、一行はコルテス町にあるインファント・キング・アカデミーを訪ね,当時寄贈した十五の仮設教室の使用状況を確認した。
台湾からの訪問団のリーダーである陳金海(チェン・ジンハイ)さんは、校内に入るなり懐かしい顔を見つけた。それは現地ボランティアのパトリシオさんだった。パトリシオさんは学校の近くに住んでおり、当時、慈済ボランティアが仮設教室の建設に来ているのを見て、自ら工事現場に入って手伝った。十年の時を経ての再会は、顔を見てお互いに気づいた瞬間、嬉しさに笑顔がこぼれた。「彼は本当に働き者で、何か部品が足りない時は彼に頼んで買ってきてもらいました。チームのみんなととても息が合っていました」と陳さんが当時を振り返った。彼は、勤勉さが故に、安定した仕事に就くことができた。教室完成後、校長先生からの信頼を得て、学校の警備員の仕事を任せられ、現在に至っている。
台湾ボランティアの甘清文(ガン・チンウェン)さんは思わず、少し古びた教室の柱を撫でながらつぶやいた。「目の前のこの二つの教室は、私が自ら組み立てたものです。建材を台中后里の連絡所に発注した時から関わって来たのですが、気がつけばもう十年も経っていたのですね」。
甘さんは、こう説明した。「仮設教室」というのは名前の通り仮設なので、あくまでも二年から三年使われることを前提とし、正式な教室が再建されれば、役目を終えて撤去されるものである。「学校がその教室をとても大切に使ってくれていたことがよく分かります。屋根に少し雨漏りはしますが、それ以外は十年前とほとんど変わっていません」。
なぜ地震から十年も経っているのに、いまだに学校は再建する力がないのだろうか。実は、この学校だけが特別なわけではない。フィリピンでは、教育の普及は進んでいるが、毎年の教育予算は限られており、さらにその資源は、離島やへき地に配分される頃には僅かになっているのだ。予算が手に入らない学校は、再建の話が毎年、先送りされるのが現状だという。
公立学校の場合、数年待てば政府からの補助が得られるかもしれないが、この学校のような私立の教会学校となると、事情がさらに厳しくなる。地震や台風、そして数年にわたる新型コロナの影響も重なって教会への寄付も減り、学校を維持するのがやっとなので、教室の再建は困難を極めている。
フィリピンの慈済ボランティア、蔡青山さんは教室を訪れ、先生と生徒の学習におけるニーズを把握した。
愛を繋ぎ、再生パソコンで学びを支援
教室の再建に目途が立たなくても、自然災害は容赦なく襲いかかってくる。二○二一年、大型台風二十二号(ライ)がボホール島を直撃し、大多数の木造住宅が倒壊し、比較的頑丈とされる校舎でさえ被害を免れず、多くの設備も破損し、未だに新しい機器を購入する余裕がない状態が続いている。中でも学校関係者の頭を悩ませているのが、生徒たちの授業用パソコンである。
例えばインファント・キング・アカデミーでは、パソコン教室に元々三十台のパソコンがあったが、在校生約四百五十人が交代で使用していた。しかし台風の被害を受けた後、正常に使えるパソコンはわずか八台だけになってしまった。必要台数には到底足りず、先生たちはスライドを使って操作を説明するしかなかった。生徒たちは実際に操作する機会がないため、パソコン授業は「机上の空論」となってしまった。
ボホール島で初めて慈済ボランティアとして認証を授かった黄三民(ホワン・サンミン)さんは、ある学校訪問の活動を通して、先生と生徒たちが授業で苦労していることを知り、解決の道を探そうと決心した。黄さんはボホール島に暮らす華僑の四世だが、祖父の代から子供たちの教育を重んじてきた。「今はデジタル時代ですが、パソコンの授業にパソコンがないなんて、想像できますか。これは生徒たちの学びにとって大きなマイナスです」と語った。
彼はマニラにあるグローバルなパソコン会社に手紙を書いて支援を求めたが、返事はなかった。そのうちに、マニラでビジネスをしていた台湾出身の同じく慈済人である陳兆揚(チェン・ヅァオヤン)さんと知り合い、彼が慈済の新竹再生パソコンチームに話を繋いでくれたことで、台湾とフィリピンの慈済ボランティアたちが心を一つにして、修理、整備された再生パソコンをボホール島の学校に寄贈することができた。二○二三年六月から二○二四年十一月までの間に、新竹再生パソコンチームは、百五十台の中古パソコンを寄贈し、数十カ所の学校や児童養護施設に届けた。
新竹再生パソコンチームのボランティア呉雄麟(ウー・ションリン)さんは、同年の十二月十二日にインファント・キング・アカデミーを訪問し、慈済が寄贈したパソコンを使用している先生や生徒たちと交流した。彼は約二年間、パソコンの整備と修理の活動に参加し、その基本的なメンテナンスや部品交換のスキルは今や熟練の域に達している。パソコンを寄贈した後、実際の使用状況を確認することで、今後の修理活動の参考にしたいと考えた。そして何より、生徒たちがこの機会を通じて視野を広げ、学びを深めてほしいと願っている。
海を越えて再生パソコンが届けられた。生徒たちは待ちきれない様子で操作を始めた。
大学への進学を支える奨学金
慈済ボランティアは十年前に、ボホール島で簡易教室の建設支援を行っただけでなく、地震によって経済的にさらに困窮し、それによって勉強したくても学業を続けられなくなった子供たちの状況を知ったことで、成績が良くて品徳を備えた貧しい家庭の子供たちに対し、大学進学をサポートした。
今年二十七歳になるヴィッキーさんは、当時を振り返った。彼女の家は山奥にあり、家庭は稲作で生計を立てていたが、収穫は自宅で消費する分しかなく、子供たちが成長するにつれて学費の負担が重くのしかかっていた。母親は学費を捻出するために、危険を冒してジャングルでツル植物を採取し、それで籠を編んで売った。当時の話をすると、涙を流さずにはいられなかった。「本当に辛い日々でした。ですから、慈済の奨学金を受けることが、私にとって大学進学の唯一の道だったのです」。
ヴィッキーさんは、仮設教室の床のタイル作りを手伝ったことがきっかけで慈済と出会い、努力の末にボホール州立大学への入学を果たし、慈済の奨学金資格試験にも合格し、奨学生となった。
もう一人の奨学生メナードさんも、似たような境遇にあった。彼の家は子供が多く、姉がすでに大学に通っていたため、父親には彼の進学まで支える余裕がなかった。メナードさんはそれを理解し、大学進学を諦めて市場で荷物運びの仕事を始めようと考えた。そんな時、思いがけず、学校から慈済が奨学金を提供するという通知が届いたのだ。いくつも困難を乗り越え、ついに奨学金の試験に合格した彼は、念願の大学生となることができた。
ヴィッキーさんやメナードさんをはじめ多くの慈済奨学生たちは、大学生の間、毎月の人文講座を通じて慈済精神を学び、現地ボランティアと共にコミュニティ支援に取り組んだ。更に奥地の集落を訪れて高齢者を慰問し、児童養護施設で子供たちと触れ合うなどの活動にも参加した。このような慈済の人文教育を糧にして、彼らは大学卒業後、慈済ボホール集会所に就職し、仕事をしながら社会貢献を続けている。
二○二四年六月、公的機関に就職したヴィッキーさんは、十二月には台湾で行われた歳末祝福会に参加した。慈済奨学生として初めてのボホール島出身者で認証を授かった慈済委員となった。
大学で農業を専攻したメナードさんは、卒業後にボホール集会所で「安心修繕計画」の推進に携わる重要なメンバーとなった。建材は地元で調達し、支援を受ける人々も労働することで支援金をもらう形で自らの家の建設に関わることができる。過去二年間、ほぼ毎月新しい家が完成し、引き渡し後は地域ボランティアが家庭訪問を引き継ぎ、それら困窮家庭の生活支援を行っている。
メナードさんは、まずイナバンガ大愛村に五カ月間駐在し、住民に竹の栽培や、竹を削って竹で編む建材にする技術を指導した。二○二四年からは建設進度の管理にも携わるようになり、学んだ知識を実地で活かしている。さらに、彼は仕事の中で高齢者や生活困窮家庭をも支援している。「時には疲れますが、もっと大変な家庭を助けられることに大きなやりがいを感じています」。
ボホール集会所は、二○一四年から二○二四年まで、延べ二千二百十二人に奨学金を提供し、そのうちの三百五十五人が大学を卒業した。その多くは安定した職に就き、雇用主からも信頼を得、家計を改善した。
観光の島に、善意の光がまたたく
同年十二月八日の夜、ボホール島に到着して黄さんの家を訪ねた時、彼は慈済がこの十年間にボホール島で行ってきた様々な活動について、心に残ったことを語ってくれた。「一般の人が抱くボホール島のイメージは、きらびやかな観光地かもしれません。でも、それはこの島の本当の姿ではありません。ボホール島はとても素朴で、住民の多くは農業や漁業で生計を立てています。多くの家庭はいまだ貧困の境目にあり、子どもたちを学校に通わせる余裕がありません。こうした問題は、もっと多くの人々に関心を寄せてほしいのです」。
彼は、慈済が当時再びボホール島を訪れてくれたこと、そして證厳法師の「ボホール島を忘れないように」という一言に、心から感謝している。その一言で多くの人が支援を受け取ることができるようになったからだ。十年という年月は始まりに過ぎない。ボホール島の慈済ボランティアたちの願いは、もっと多くの地元の人が慈済のミッションに参加し、愛の輪が島中に広がっていくことである。
(慈済月刊六九九期より)
慈済のあゆみ フィリピン・ボホール島
- 慈済のフィリピンでの活動は慈善から始まった。1991年にピナツボ山の噴火により800人以上が犠牲となった際、證厳法師はその年に受賞したマグサイサイ賞の賞金の半分をフィリピン政府の救援活動に寄付し、残りの半分で中国華東地域の洪水被災者を支援した。
- 1994年11月8日、慈済フィリピン連絡所がマニラに設立され、1997年9月11日、正式にフィリピン支部に昇格した。1995年に初の施療が行われ、2006年にはマニラに施療センターを開設した。その後、災害支援・貧困救済・教育支援などの活動を広げた。2000年以降、セブ島やサンボアンガなどにも拠点を設立した。
- 2013年10月15日、ボホール島でマグニチュード7・2の地震が発生し、10月19日、慈済ボランティアが見舞い金と毛布を配付した。
- 2014年、台湾の慈済ボランティアが、ボホール島コルテス、アンテケラ、ローンなど9つの町の19の学校で、仮設の150教室を支援建設した。2024年までに延べ2,212人に奨学金を提供し、そのうち355人が大学を卒業した。
- 2016年にはイナバンガ市と協力し、地震の断層帯に位置することで、大きな被害を受けたリバーサイド地区の住民のために67棟の仮設住宅を建設した。
- 2021年、台風22号(ライ)による被災地支援を実施。
- 2022年6月より「安心修繕計画」を開始し、一人暮らしの高齢者や困窮する家庭のために住宅を建設。2024年12月までの累計は250棟である。
- 2024年12月17日、台湾の企業家・陳其毅さんと台湾のハマックテクノロジー社から寄贈されたソーラー型海水淡水化装置が、淡水資源のないバンゴンバンワ島に設置された。


