慈済チームが自発的に集結─二つのサイクロンに襲われたモザンビーク

モザンビークの大統領はメディアを通じて、まもなく上陸するサイクロンに警戒するよう国民に呼びかけた。しかし、携帯電話はおろかラジオやテレビもない貧しい市民たちにはこのメッセージが届かないことを慈済ボランティアは知っていた。そこで、ボランティアたちは即座に互いに連絡を取り合い、災害後に訓練した通りに動員し、被災状況の調査と同時に炊き出しと物資を配付することを確認した。このような緊急災害支援の経験は二年前のサイクロン・イダイに遡る……。

二〇一九年、大型サイクロン・イダイとケネスが立て続けにアフリカを襲い、モザンビーク、ジンバブエ、マラウイなどの国に甚大な被害をもたらした。サイクロン・イダイによる被害を、国連のグテーレス事務総長は、「アフリカ史上最も大きな自然災害の一つ」と表現した。

二〇二一年初め、国際的なドイツの環境NGO、ジャーマン・ウオッチが発表した「世界気候リスク指数」によれば、モザンビークは気候リスクランキングで一位となっており、その地理的条件と国全体の貧困度合いから、気候変動がもたらす影響がさらに深刻になると予測している。

二〇二一年一月、モザンビーク中部のソファラ省はサイクロン・イダイに続いて再度大きな被害を受けた。三週間のうちにサイクロン・シャレーン、サイクロン・エロイーズが続けて中部地域を襲い、甚大な水害をもたらした。復興中のソファラ省では、ウィルスの感染拡大で大きな影響を受けている人々の生活に自然災害が重なり、何重もの打撃に耐えかねている。

サイクロン・エロイーズによる被害で、ニャマタンダ郡ティカ村など低地では冠水が引かず、慈済のボランティアは水の中を歩いて被害状況の調査と避難所の視察を行った。(撮影・ソアレス・ジョアキム・サントス)

集落に入り、早めに災害に備える

二〇二〇年十二月二十八日、モザンビークのフィリペ大統領はメディアを通じ、一級サイクロン・シャレーンがまもなく中部に上陸すると警告を発し、警戒を強めて災害に備えるよう国民に呼びかけた。サイクロン・イダイによる甚大な被害を経験している中部の慈済ボランティアには、携帯電話はおろか、ラジオやテレビも持たない貧しい市民たちにはこのメッセージが届かないことが分かっていた。彼らはすぐに家庭訪問やインターネット、携帯電話などあらゆる方法を使って情報を流し、早めに被害に備えた。

ボランティアたちは徒歩で集落を訪れ、サイクロンがまもなく上陸することを口伝えして回った。暴風雨に対して、粗末な草葺きの家に住んでいる人々は屋根が吹き飛ばされることを一番に心配し、サイクロンが来る前に精一杯屋根を固定した。若いボランティアたちがお年寄りを手伝って、大きな石や木材を探して来て、屋根の重しにした。メトゥチラ町では、ボランティアが倉庫に回収した愛心米の空袋が余っていることを思い出し、急いで各家庭に五枚ずつ配り、それで土嚢を作ってもらった。田舎では物資に限りがあるため、米袋を裂いて縄の代わりにし、それで屋根を縛って固定するなど、様々なアイディアを出し合った。

サイクロン・シャレーンは移動スピードが速く、わずか二十四時間風雨が吹き荒れただけだが、中部地域で死者七人、被災者十三万人の被害が出た。首都マプトの慈済ボランティアであるディノさんと蔡岱霖(ツァイ・ダイリン)さんたちは、急いで千キロ離れた中部の被災地域に向かい、三千世帯を超す避難中の人々が帰宅後すぐに家の再建に取りかかれるよう、三週間のうちに白米や建材・食糧セットを配付し終えた。

住民たちが喜びと共に物資を受け取って帰宅し、マプトのボランティアたちが支援を終えて中部を離れた数日後、サイクロン・エロイーズが来襲した。一月二十三日に中部に上陸し、暴風が吹き荒れ、一日に二百五十ミリの降水量を記録した。水が引いたばかりの中部に災害が重なり、二十一万人以上が被災した。

立て続けにサイクロンに襲われたが、ボランティアたちの被害調査や支援活動が滞ることはなかった。風雨が過ぎた後、二年前にサイクロン・イダイの被害を受けたニャマタンダ郡の若い地元のボランティアらが、衛生環境の劣悪な被災地に入り、糞尿も混ざった汚水の中を歩いて被害調査を行なった。

二十三歳のソアレスさんは、今は慈済ボランティアである。早くに両親を亡くした彼は祖母に育てられた。家庭が貧しいため、学校を退学し、毎日水を運んだり、売ったりして家計を助けていた。若くて体力があったため、毎日四百リットルの水を運び、約二百メティカル(約二百五十円)の収入を得て、祖母と二人でどうにか暮らしていた。二年前、ソアレスさんの家がサイクロン・イダイの被害に遭って倒壊し、なす術がなかった時に支援にきた慈済人に出会った。イダイによって家が倒壊したことが、彼の人生を変えるきっかけとなった。

「慈済に参加する前は、感謝を知らない自分中心の若者でした。しかし、證厳法師の大愛精神に感動し、自分の殻を破ってより貧しく苦しんでいる人たちに手を差し伸べることを学びました。慈済のおかげで、学校に戻って学ぶことができ、さらに撮影技術も習得できました。とても感謝しています」。

この二年来、ソアレスさんはマプトのボランティアと共に家庭訪問を行い、インタビューや記録、パソコンの使い方を学んだ。サイクロン・エロイーズが現地に与えた影響は甚大で、彼は写真を通して世界にありのままの現状を知ってほしいと考えた。被害状況を調査した時、冠水していて、病気を媒介する蚊の繁殖により、彼ともう一人のボランティアはマラリアに感染したが、彼は薬を飲んで一日休むと、再び撮影を続けた。

「私は早くマラリアを克服しなければならないと自分の体に言い聞かせました。そうでなければ、世界はモザンビークが直面している被害状況を知ることができないからです」。困難な中で撮影した画像は、ボランティアたちを感動させた。ソアレスさんは、地元のボランティアが懸命にアフリカを変えようとしていることを證厳法師に知ってほしいと言った。

ブジ郡グアラグアラ村の避難所は食糧不足が深刻で、ボランティアは被害状況を調査した後、すぐに炊き出しを行った。サイクロン・エロイーズによる災害の後、2郡3カ所の避難所で食事を提供した。(撮影・ダリオ・ニャカレ)

炊き出しに老若男女も安心してお腹を満たす

深刻な被害を受けた中部のニャマタンダ郡ティカ村やブジ郡グアラグアラ村には緊急避難所が設置され、それぞれ約二千人と約一万人の避難者を受け入れたが、それを上回る避難者が集まって入りきれず、テントも足りなかったため、野宿を強いられる人も数多くいた。政府は資金不足で食糧が不足し、一日一食で何とか過ごすしかなかった。

灼熱の天気に加え、資源に限りがあったため、避難所での生活はきびしく、密集した状況下でもマスクをした人は殆どいなかったため、コロナウィルスの感染リスクが増大した。住民はあわてて避難したため、財産は何一つなく、ある家庭は一家七人で一皿のコーンミールしか受け取れなかった。また、ある人は列に並んだ挙句、大鍋の底に残ったお焦げを無気力に見て、「今日もお腹を空かすしかないようだ」と子供に言った。ボランティアから次々と送られてきた災害現場の映像を見ると、住民たちのつらさが身に染みて感じられた。

一月二十八日、サイクロン・エロイーズが去ってから五日後、ティカ村の避難所の大樹の下はガヤガヤと賑わっていた。大鍋に煮込まれた主食のコーンミールと大豆のおかずが幾つもの容器に入れられた。慈済ボランティアの一日目の炊き出しの様子である。彼らは連日食材を購入して、避難所で食事の提供や調理の手伝いを始め、民衆が配付会場の外に並んで待っていた。住民たち一人ひとりに、ボランティアがステンレス製の皿やプラスチックカップ、スプーン、繰り返し使える布マスクを配った。

一人につき一セットの食器類は、遠く離れた花蓮の法師が被災状況を知った時、第一線で支援を行うボランティアに、必ず一人ひとりがきちんと食事を取れるようにと指示したものである。

災害に加えてコロナ禍で一万セット近い食器類や物資を集めるのは、ボランティアにとって非常に大きな挑戦だった。慈済は今回の風災でも、最初に食事や物資を配付したNGOであった。ある住民はインタビューで、ボランティアが食器を配ってくれたことに感謝した。「これまでは食器が一つしかなかったので、家族の代表が並び、受け取った食事を家族全員で分け合って食べていました。食べ終わって再び並んだ時は、もう食べ物は残っていないということがよくありました」。今は皆がマスクを着け、自分の皿を持って、整然と並び、炊き出しの量も十分にあるため、ようやく自分の番が来るまで食べ物が残っているかどうかを心配する必要がなくなった。

一月はちょうど雨季にあたり、中部は何日も雨が続いたため、低地では水が引かなかった。被災後一カ月以上経っても、慈済ボランティアは被災者を支援し、簡単な温かい食事は、ティカ村とグアラグアラ村の合計一万二千人余りの住民に安心と満腹感を与えた。

ボランティアは避難所で食器セットを配付した。ティカ村の避難所で民衆が自分の食器を持ち、食事を受け取っていた。(撮影・ルイサ・シェイラドス・サントス・シャンバラ)

ずっしりと重い物資を手に 家で再起の扉を開く

物資を満載したトラックが、ゆっくりとティカ村ムタムレガ小学校の避難所に入ってきた。木の下にいた老若男女は拍手と歓声、歌と踊りでボランティアたちの到着を迎えた。

慈済は一月二十八日から炊き出しを始めると同時に、家屋等の再建を支援するため、食糧や建材、工具、種の購入も行った。二月中旬に、政府が避難所を閉鎖し、住民たちを帰宅させることを知って、ボランティアはすでに用意していた「建材、種、食糧生活パック」を二月十六日の早朝、避難所に届けた。

「慈済が四百七十九世帯に物資を配付して、彼らの帰宅を祝います!」と現地ボランティアのナジラさんが説明した。各世帯に、建材と一カ月分のコーンミール、大豆、塩、砂糖、油などの食糧が配付された。また、農作物が洪水で流されたことを考慮してカボチャやキャベツ、ゴマなどの作物の種も用意し、住民たちが徐々に生活を取り戻せるようにした。数週間の避難生活を経て、耕作を楽しみにしていた住民のロッサさんは、「農作物による収入があれば、日用品を買うことができます。本当に感謝しています!」と話した。

ニャマタンダ郡郡長のホセ・トメさんは、現地の住民は農業で生計を立てており、被災後に最も必要なものは住居と食糧、種であると説明した。「三週間のうちにシャレーンとエロイーズ、二つのサイクロンに襲われましたが、慈済の物資は非常に大きな助けとなり、特に今日配付された種で、人々は自力更生することができ、生活が少しは安定するようになります」。

配付セレモニーが始まろうとした時、一人の妊婦が、もうすぐ生まれそうなので先に物資を貰えないかとボランティアに頼んだ。ボランティアは急いで物資を渡したが、セレモニー終了後、その女性の安否が気に掛かったため、近くの診療所に様子を見に行き、彼女が無事出産したことを知った。おくるみに包まれた赤ちゃんは彼女の三人目の子供だった。

赤ちゃんの母親、フィリスミナさんは、慈済が適時に物資を配付してくれたことに感謝し、子供に「マリアノ・ツーチー・ホセ」と名付けた。現地では、ミドルネームは敬意を表する意味があり、大切な人を記念して名付けることがよくあるそうだ。

母子はボランティアに付き添われて、ティカ村郊外の荒野にある家に帰った。彼女の一家は五人で、葦と泥で作った粗末な家に住んでおり、連日の雨で室内にも水が溜まっていた。ガランとした家の中にはベッドもなく、土が乾くまで座って寝るしかない。見るに忍びなかったボランティアは、一緒に家を掃除すると共に、直ぐに折り畳み式ベッドと毛布、ベビー用品を届けた。

マプト慈済支部の職員二人は、同胞の困難な暮らしを目の当たりにして、ショックと共に忍びなく思い、自腹を切ってマリアノちゃん一家のために部屋を借りてあげた。この話が広まると、ニャマタンダ郡にあるホテルのオーナーが、フィリスミナさん一家の自立を助けるために仕事を紹介したいと、自主的に慈済に連絡してきた。

三月中旬の時点で、まだ一万人以上が帰宅できず、避難生活を余儀なくされていた。慈済ボランティアは建材、種、食糧生活パックを提供して家庭の再建を手助けする計画を立てた。その後もティカ村、ラメゴ村、ニャマタンダ郡、メティチュラ村など約四千世帯の二万人に三カ月間の食糧支援をする。それが、最前線を行き、最後まで寄り添うという慈善精神であり、苦難に喘ぐ人々を守っているのである。


(慈済月刊六五三期より)

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