心の超越

自分を小さくすれば、人と接する時、柔軟性に富むようになる。欲念を減らせば、心は無限に広がる。

修行は「功」、人助けは「徳」

人生は無常で、生命はひと呼吸の間にあります。二十七日のボランティア朝会で上人は、「皆が苦、空、無常の道理を体得すべきで、貴重な人生を一個人や自分の家庭という領域に留めるのではなく、絶えず超越し、心と視野を広くして群衆に分け入って世の事情に直面して初めて、今生の良能が発揮され、生命の価値が上がるのです」と開示しました。

上人によれば、修行で求める解脱は心の解脱です。心を自分一人の世界に閉じ込め、自分が愛する人だけに関心を持ち、自分や家族のためにだけ求めて止まないのではいけません。一生名利を追求しても、永遠に満足することはできないのです。その実、どれだけ多くお金を稼いでも、人生の終点では何も持って行くことはできません。もし、心を広く持って大衆と接し、財を運用して物資で他人を利することを知れば、数多くの飢餓に苦しむ人に食を与えることができ、貧しい人は安定した生活を送ることができるのです。

「縁を逃さず、時間を善用し、片時たりとも無駄にせず、人々に愛を呼びかけて、そのエネルギーを結集させるのです。そして、数字にとらわれることなく、小額の寄付金であっても長く続けば、積もり積もって大きな力となります。それは私が花蓮の慈済病院を建設すると決めた後、日本の企業家からの二億ドルという善意の寄付をお断りして、大衆から五十元や百元の寄付を集めるほうを選び、一人ひとりのレンガ一つ、セメント一袋でも病院は完成できたことからも分かります。この病院には非常に多くの人の功徳が集まっており、実に豊かな情と広い愛がこもっているのです。これが慈済の慈善における理念であり、愛のエネルギーを広げ、この世に平坦な大道を築いて、永遠の『覚有情』(究極の大愛)を呼びかけているのです。長く続く大愛は五十五年前の一日五十銭貯金に始まって今に至っており、慈済の大愛は世界に広がっています」。

「一人ひとりが目の前の利益だけを見て、自分の心の世界にある愛にだけ執着していれば、そこから貪、瞋、癡など無明の煩悩が派生してきます」と上人は開示しました。社会で見られるように、多くの事件は愛が憎しみに変わったもので、愛し合っている時は仲睦まじくても、自分が求める人に固執するあまり、それが叶わない時に相手を殺害したり、自殺したりします。利己的な愛欲で相手を殺害したり、自分を滅ぼしたりするのは全く愚かとしか言いようがありません。死は一切の終わりではなく、因縁と業が来世にまで付き纏ってきます。殺害は重大な悪業ですが、自殺も殺生の業と、その上に親不孝を犯しています。両親が授けてくれた体を害するのは、両親を傷つけるのも同じで、とても大きな罪なのです。

「両親が産んでくれた体を使ってこの世で奉仕し、人生で大きな意義を達成すべきだと知らなければいけません。私たちが呼吸をしている間、この体の健康に責任があり、生命を永らえなければなりません。また、真理を追求して善行し、功徳を成就すべきです。自ら修行することが『功』であり、人助けすることが『徳』です。『徳は得なり』と言われるように、私たちが心身の力を奉仕する時、同時に自分自身が修行しているのです。菩薩道では、一歩踏み出すごとに衆生を利し、次の一歩は自分の願を実践し、その次の一歩は善行することで功徳が成就され、その功徳は両親に回向されます。両親の恩に報いるには、人間(じんかん)に福をもたらし、生命でもって慧命を成就するのです」。

上人はこう強調しました。「修行するなら欲念を超越し、心を大きく持たなければいけません。その大きさは天地をも包み込むべきで、欲念を放任して天地を包み込むほど大きくしてはいけないのです。欲念を小さくすれば、心は無限に広がって自由自在になり、制限を受けなくなります。自分を小さくすれば、空間が広がります。この超越した愛で人と接してこそ、情は長く続き、愛は大きく育つのです。生きている間はこの世のために奉仕し、自然の法則によりその日が訪れた時は、飄々と解脱して去れば、心身共に軽やかで自在になれ、これこそが福というものなのです。生生世世、この福報因縁でもって、菩薩道を歩み続け、慧命を永らえれば、去るのも来るのも自在になります。


(慈済月刊六五五期より)

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