長年難民ケアに関ってきたボランティアは、何度も「赤貧洗うが如し」の難民生活を見てきた。中東とアフリカでの紛争が収まる兆しがない中で、今度はウクライナで戦火が上がった。
思わず「安得廣廈千萬間,大庇天下寒士俱歡顏」( たくさんの部屋を確保したいものだ・世間の貧しい人々が笑顔になって住めるように) という杜甫の詩を思い出した。
いくら丈夫な建物でも砲火による破壊力には耐えられない。ボランティアは「末永く安らぎが得られるように」と思いを込めて深々と祈った。
東アフリカのエリトリア出身の女性がカナダに到着した時は、ジメジメした寒い晩秋だったが、彼女は薄い服しか着ていなかった。慈済ボランティアの張曉菁さんは夫と2人の息子を連れて、一家総動員で防寒用の品々を贈った。
バーナビー市はバンクーバー地区で難民が最も多い町で、2007年から、慈済は管轄内のバイレン中学校に通っている難民の子供たちに、朝食と年末のプレゼントなどを届けている。(撮影・呉國榮)
十八歳の少年が玄関のドアを開けて、劉憶蓉(リュウ・イーロン)さんら三人の慈済ボランティアを迎え入れた。「父は既に亡くなり、僕が十三歳の妹とカナダに来た時、母はまだイラクに残っていました。いつになったら家族が集うのか分かりませんでした。妹は母のこと思い出すと、よく泣いていました」と少年が言った。劉さんははにかみ屋の女の子を見ながら、イギリスに留学している娘のことを思い出した。娘はよく電話口で「お母さんに会いたい」と泣きながら言っていたからだ。
「お母さんの代わりにハグしてもいい?」と劉さんが女の子に尋ね、女の子を懐に抱き込んだ。痩せた小さな体が泣きながら震えているのがわかった。
カナダは人道ケアを重んじ、毎年約三万人の難民を引き受けている。二〇二一年には更に四万五千人に増やした。慈済カナダ支部が所在しているバンクーバー地区で、政府が最も多く難民を収容している町は、バンクーバー東側に位置するバーナビー市である。市内のバイレン中学校には、百人以上の難民家庭の子供が通っている。慈済は長年、同校に無償の朝食を提供している。二〇一五年初め、学校のソーシャルワーカーが、毎週木曜日に朝食を提供している劉さんに、カナダに移住して来たイランとイラクからの五世帯の難民家族を支援してもらえないか、と打診した。その時から、バーナビー市における難民支援という新しい一ページが始まった。
毎年年末になると、バイレン中学校では低所得者や難民の背景をもつ子供の家庭のために、日用品、食料品、季節のプレゼントを募っている。二〇一六年からバーナビー市の慈済ボランティアは、この年末プレゼント活動のパートナーとなっている。毎年十二月初めに学校側が、米、小麦粉、豆類など八十世帯分の食料品を購入するのを支援している。また、学期末に学校が作成した名簿に基づいて、二十〜四十の難民世帯にプレゼントを届けており、寒い年末に多少の温かさを添えている。
二〇一七年、学校のソーシャルワーカーであるマンボ・マシンダさんは慈済に、難民キャンプを出たばかりのアフリカ出身の三家族を支援してほしいと希望した。劉さんらボランティアは家庭訪問した時、「赤貧洗うが如し」とはどういうことかを体得した。三家族の人口構成は夫々七人から十人で、狭い空間に肩を寄せ合い、床に毛布を敷いて寝ていた。壁側にはトランクを置いてタンス代わりにし、唯一ある椅子にはカバンが置かれ、子供たちが宿題する場所になっていた。一人の子供が劉さんに「きちんと宿題ができる机が欲しいです」と言った。
難民のニーズを目の当たりにした彼らは、バイレン中学校に年末プレゼント活動の協賛をする他に、その年から定期的に歳末にマシンダさんと力を合わせて、カナダに来て二、三年の難民家庭を対象にスーパーのギフトカードを提供したり、冬服と家具を募ったりするようになった。
2人の子供を連れたシングルマザーが戦乱のエリトリアから転々した後、カナダに辿り着いた。2018年、バーナビー市のボランティアである曾永莉さん(左)と簡素珍さん、劉憶蓉さんがその家族にギフトカードと季節のプレゼントを届けた時、中に入っていた玩具が6歳の男の子の目を引きつけた。(撮影・王少雄)
落ち着いた後、一番欲しいのは仕事
カナダ政府は、新たに到着した難民家庭に一回限りの移住手当を支給している他、家族構成に合わせて毎月、生活費を補助している。しかし、生活費の補助は一年限りである上に、民間の支援でカナダに来た難民は、その福祉の対象外になる。とは言え、政府の生活補助の有無に関わらず、カナダの生活費は高く、新しく移住した難民は早く職に就けることを希望している。
二〇二〇年、新型コロナの感染状況が深刻になると、ボランティアは新しく移住した難民家庭を気遣って、状況に応じたプレゼントを用意した。一人につき五枚のマスクを配った。コロナ禍は新移民にとってまるで火に油を注ぐようなもので、職をなくした人もおり、気持ちは暗然としていた。幸いに、ボランティアが家庭訪問した三十世帯のうち、大多数の家庭の主はまだ仕事があった。社会の底辺を支える力仕事とはいえ、彼らは十分に満足していた。
アフガニスタンで医者をしていたハビさんは、カナダに来てもう三年になる。しかし、医療行為する免許がないため、警備の仕事をするしかない。ボランティアが訪れる数カ月前、妻と五人の子供もカナダに着き、やっと一家の集いが実現できた。ハビさんの奥さんは情の深い人で、何度もボランティアを自宅に招いた。しかし、新しい環境に話題が移ると、明るい彼女は涙で声を潤ませた。コロナ禍の中、ボランティアはオンラインで彼女に愛のハグをするしかなかった。
二〇二一年、物価が高騰し、ボランティアはスーパーのギフトカードの金額を一人二十五カナダドルから五十カナダドルに増額した。そしてマシンダさんに、名簿作成をする時に大人の服のサイズと子供の年齢を明記するよう改めて頼んだ。ボランティアは、難民に合わせた冬服を募集し、十一月に冬がやってくる前にサイズの合った防寒服を届けた。この年のプレゼントは特別に豊富だった。慈済カナダ支部はエコ毛布とエコマフラーを贈った。青年ボランティアチームも参加し、手作りの小さい抱き枕で祝福を添えた。
この年に支援した十四世帯は、例年同様、中東とアフリカから来た家庭が最も多かった。かつてアフガニスタンで記者をしていた男性は、三カ月前に一家八人を連れてカナダに来たばかりで、目下無職だった。北国の冬は湿気が多くて寒いにも関わらず、彼は半袖姿だった。
別の家庭は母子二人で、二カ月余り前にアフガニスタンから来たばかりだった。母親によると、彼女の家族は人数が多く、アフガニスタンから早く逃げ出すために、仕方なくバラバラになって避難し、ヨーロッパに行った人もいる。彼女は息子を連れてカナダに来たが、アフガニスタンにはまだ娘が取り残されており、とても心配していると言った。
新難民は全てがゼロからのスタートだが、慈済が支援できる物資は限られている。しかし、大切なのは温かい思いやりだ。「最初の頃、難民はどうしても外部と距離を感じるのです。何よりも嬉しいのは、コミュニティーに温かく迎え入れられることです。それは彼らに将来への希望をもたらし、その国で暮らすことが楽観できるようになるからです」とマシンダさんが言った。彼も難民であり、コンゴからカナダにやってきた人だ。博士号を取得してから、学校で新移民の世話人(settlement worker in school)を務め、積極的にかつての彼と同様な立場にある難民を支援している。
戦乱の中、慌てて逃げ出した難民は、転々として新しい国に来たが、トランクに詰め込める財産はどれほどもない。長年にわたってケアしてきた過程で、ボランティアは、何度も「赤貧洗うが如し」という状況を見てきた。今、中東とアフリカでの紛争が収まっていない中で、ウクライナで戦火が上がった。杜甫が「安得廣廈千萬間,大庇天下寒士俱歡顏(たくさんの部屋を確保したいものだ・世間の貧しい人々が笑顔になって住めるように)」という詩を書いていた。
しかし、どんなに丈夫な建物でも砲火の破壊力には耐えられない。ボランティアは「永く安らぎを得て、笑顔で暮らせるよう」、思いを込めて深々と祈った。
(慈済月刊六六六期より)