最も困難な時、最も尊い奉仕─ウクライナ家庭を迎え入れるポーランド

ロシア・ウクライナ戦争は、無数の家庭を引き裂き、女性と子供は客人としてポーランドに逃れた。所持金は僅かしかないが、愛の心に溢れている。あなたの一元と私の一元を合わせ、より多くの人が共に困難を乗り越えるのを助けるのだ。

六月中旬、ポーランド・ルブリン市に三カ月ほど滞在していたドイツ慈済ボランティア陳樹微(チェン・スゥウェイ)さんは、引き続きチームを率いてウクライナ難民支援を行っていた。その日は、オーストリア、イギリス、オランダ、台湾及びウクライナのボランティアと共に、ルブリンから五百キロ離れた、車で約六時間の町オポーレにやって来た。一行九人が到着した時はすでに夜の十時に近かった。

ポーランドの南西部に位置するオポーレは、十世紀後半のスラブ人の中心都市で、その前後にオーストリアとプロイセンに統治されたことがあり、第二次世界大戦後はポーランドに属した。人口は十三万人足らずで、古城や悠久の歴史を持つ教会やいろいろな博物館があり、気候も過ごしやすいので、住むのに適した都市である。

ロシア・ウクライナ戦争が二月に勃発し、慈済は三月から難民支援を始め、ワルシャワ、ルブリン、ポズナン、シュチェチンで大規模な配付活動と支援を続けてきた。オポーレ市の実業家(夫妻のラドスラフ・アトラス(Rodoslaw Atlas)さんと陳恵如(チェン・フエイルー)さんは、慈済の支援活動を知って、ここに留まっているウクライナ家庭を共に手助けしたいと自発的に連絡した。

オポーレ市では体育館で二日間に六回の大規模な配付活動が行われた。市政府が会場と名簿を提供し、職員も派遣して支援した。ラドスラフさんは、会社のトラックと従業員を動員し、市政府職員と共に、慈済のエコ毛布をワルシャワからオポーレまで運んだ。ポーランド在住歴二十八年の陳さんは、ボランティアベストを着て、ウクライナ人家庭の世話をした。

二日間に支援した人の数は千名を超え、市政府家庭支援センター主任のマルゴジャータ・コザーク(Malgorazata Kozak)さんと福祉センター主任のアンナ・ラドラク(Anna Radlak)さん、そしてソーシャルアクティビティセンターコーディネーターは、ミスがあってはいけないからと配付活動の前日に会場に来て点検し、また、配付の時も実際に参加することで順調に行われるか確かめた。

多くの小さな子供を連れた母親たちが照合や資料への記入に少し手間取ることを考慮し、市政府は子どものケアスペースを設置してパズルやお絵描きができるようにし、ボランティアがベビーシッターとなって、親御さんがスムーズに慈済の配付するショッピングカードとエコ毛布を受け取れるようにした。

「ここで少し時間を費やして、私たちを支援してくれる客人を紹介したいと思います。オポーレで暮らしてきて、これほど大規模な慈善支援があった記憶はありません」。オポーレ市長のアルカディウシュ・ヴィズネフスキー(Arkadiusz Wisniewski)氏は、今後一カ月もしたら、政府から難民への補助が不足するかもしれないので、慈済は恵みの雨をもたらした、と話した。「改めてはるばる遠くから訪れた慈済と、そして台湾の方々に心より感謝申し上げます」と述べた。

ポーランドのオポーレで行われた配付活動の光景。ボランティアの游月英は、支援対象者のウクライナ人の母親が子供を抱きかかえながら、人助けのために竹筒に硬貨を入れるのを見守った。(撮影・呂佩玲)

私たちは皆、家族だから

体育館では「家族」(一家人)という歌がウクライナ語で流れ、みんな立ち上がり、ボランティアの先導で一緒に慈済手話をした。「ウクライナではこの歌を聞いたことがない」と疑問に思う人もいた。実は、ワルシャワにいるウクライナボランティアが特別に録音室で収録したもので、柔らかい歌声が郷愁を誘った。祈りの時間になると、多くの人は目を閉じ、合掌や抱拳礼の形で敬虔に祈っていた。英語版の「祈り」(祈祷)という歌は意味が理解されているとは限らないが、メロディーが人々の心を動かし、多くの人は涙を堪えることができなかった。

「これが愛の力です!」(This is power of love)。ボランティアが竹筒貯金箱を揺らすと、チャリンチャリンという音が響いた。オランダ慈済ボランティアの連怡瑩(リエン・イーイン)さんは、英語でウクライナの人々に慈済の竹筒歳月の由来や、少額でも積み重ねれば大きな善行を成すことができることを説明した。その後に受け取る二千ズウォティのショッピングカードが、全世界の細々した愛を募ったものだと知って、支援を受けるウクライナの人々は次々と小銭を竹筒に入れ、中には二十ズウォティ札を入れる人もいた。

毎回三時間近くに及ぶ配付活動は、休まることなく続けられた。前の配付が終わらないうちに、次の配付に参加する人がすでに列をなしていた。二日目の午後は気温が上がったため、スタッフは急いで彼らを会場の中へ案内した。陳さんは自らコップに水を注いでウクライナの人々に手渡した。あるウクライナ女性が陳さんに近寄って、慈済を紹介した本を購入したいと言った。直ぐにどこで本を見つけたらいいのかと考えたが、陳さんは惜しむことなく、慈済ボランティアがくれた慈済に関する本を差しあげたので、女性はとても喜んだ。

副市長プシェミスワフ・ジックス(Przemyslaw Zych)氏は配付活動の後、市政府を代表して證厳法師に手渡してくれるよう、お礼の手紙を慈済ボランティアに託した。陳樹微さんは、市がより多くの困難にあるウクライナ人を支援できるように、とこの二日間の善意の寄付金を副市長に手渡した。ずっしりと重い竹筒貯金箱を受け取り、副市長は支援を受けたウクライナ難民に対してこう言った。

「これはこの二日間で最も貴重なものです。皆さんが最も困難な時に集まった愛の心だからです」。

戦争が百日となる六月三日、国連は、「この戦争に勝者はない」という声明文を発表した。ウクライナ人の故郷は既に満身創痍で、慈済人は難民が平穏無事に帰れる日が来るまで寄り添うことを誓った。

(慈済月刊六六九期より)

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