模範生が仏法を説く

人同士が和気藹々で心を一つにし、善い言葉を口にして善行する姿は、人々を感動させ、愛を啓発することができます。

タクシードライバーによる愛の募金

六月十四日にタイの慈済人が、上人とオンラインで語り合い、長年の難民施療活動とコロナ禍での慈善支援について報告しました。タイではコロナ禍で生計が成り立たなくなったタクシードライバーが多く、慈済人が生活用品パックを提供して支援すると同時に、配付活動を機に愛の募金活動を企画しました。「小銭で大善をする」という考えの下に、ドライバーと乗客の愛の心を啓発し、善の力を結集しようとしたのです。ドライバーたちは積極的に呼応し、車のガラスに静思語のステッカーを貼り、善い言葉で人心の安定を計りました。

上人は、慈済人が心してドライバーたちに呼びかけ、彼らが乗客を目的地に送り届けるだけでなく、乗客の心持ちまでも凡夫のものから菩薩道のスタートラインまで度して、愛の奉仕を発願するよう導いていることを称賛しました。とても立派なことです。ドライバーたちがこのように発心したのは、慈済人の行いが素晴らしく、人々がそれを目にすると、真心の愛を感じ取ることができたからです。「竹筒歳月」活動を推進するのは、一人ひとりの愛と善の心を啓発する意味があり、要は人の心を悟りに導くためなのです。

人々はコロナ禍で外出することが少なくなり、バンコクの多くのタクシードライバーは失業した。慈済タイ支部が今年6月に行った4回目の支援活動では、ドライブスルー方式で物資を直接トランクに入れていた。(撮影・黃娟)

宗教を信仰するのは心が安心できる方向を見つけるためであり、神頼みして庇護してもらうだけではないのです。もし、普段から福を積み重ねることをせず、人間(じんかん)のために奉仕していなければ、祝福された人生は望めません。福は拝んで得られるものではなく、自分から誠意でもって奉仕し、長い間に積み重ねられて得られるものです。様々な清浄無私の愛が結集して大愛になるのです。絶えず大愛で奉仕することはこの世に情を長く根付かせると同時に、衆生を悟りに導きます。衆生を悟りに導くのは容易なことではなく、ブッダも幾世にもわたって人間(じんかん)で奉仕し、長い間、菩薩道を歩んでやっと福と慧が備わり、心願を達成することができたのです。

上人は落ち着いてよく考えてほしいと願っているのです。「慈済に参加して、仏教を信仰してから、方向を誤ったことがあるでしょうか?もしなければ、安心して、志をいつまでも持ち続けるべきです」。法華経にも「之を守って動ぜざること億百千劫(ごう)」とあるように、長い間のいつの世でも慧命を積み重ねなければいけません。慧命を成長させるには、執着をなくすことです。見返りを求めず奉仕すると共に、絶えず、誰に対しても、何事にも感謝の気持ちを持つのです。皆さんが善行するのは自分のためではなく、他人を善に向かわせるためなのです。これこそ慈済人が群衆に分け入って奉仕する最大の目的であり、ブッダが人間にやって来た理由、即ち慈悲喜捨で衆生を彼岸に渡すことなのです。

先に挙げたタクシードライバーたちが、困っている時に支援の手を伸べてくれた慈済に感謝し、「竹筒歳月」で愛の募金活動を行うだけでなく、車のガラスにも静思語を貼って人々に喜びを与えていることも、人心を浄化し、人々を慈済の菩薩大道に導く方法です。上人は、タイの慈済人が智慧を使って衆生を悟りに導き、人間(じんかん)菩薩を迎え入れていることを称賛しました。

他にも慈済は、タイ国内で難民への施療を行ってきた縁で、長年、様々な国の難民と良縁を結んできており、また多くの難民をボランティアとして迎え入れてきました。上人は、「多くの難民は戦乱を逃れるために異国に避難し、心身も生活も苦しくなっています。彼らが慈済人と出会い、慈済の支援とケアを受けたのも、全ては縁なのです。彼らを労り、愛護し、物資を与えるだけでなく、心を解きほぐし、心に恨みや憎しみを持たないよう教えるのです。彼らの心身を落ち着かせることは、社会の平和にも役立ちます。一歩踏み込んで、これら故郷を離れた人々をボランティアの列に加わるよう導けば、支援できる範囲はもっと広くなり、より多くの苦難にある人を助けることができるようになるのです」と言いました。

またタイの慈済人には、努力を続けてもっと広く人々を悟りに導き、この世の永遠の情である大愛を根付かせるよう、上人は励ましました。皆でこの縁と福の報いを大切にし、合和互協の精神でもって、法縁者同士に仲良くなってほしいのです。タイの人々に見せた慈済人の姿、即ち人同士が和し、心が一つになり、良い言葉を口にして、善行する姿は、衆生を悟りに導く模範となっているのです。


(慈済月刊六六九期より)

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