避難してきた人の苦しみに間近で共感すると、心がとても重く感じるが、辛く長い支援の道中で、私たちは心の友を見つけることができ、
責任を果たせるようになった。
六月下旬、私たちは再びポーランド・シュチェチンへ配付活動に訪れた。会場はオクタナス財団(Oktan-Us Foundation)のウクライナ避難民サービス拠点である。当財団の責任者であるルイザさんは以前、祖父母から第二次世界大戦の苦しみについて聞いたことがあり、二月にロシア・ウクライナ戦争が始まると、彼女は三月末に数人の若者とオクタナス財団(NPO法人)を立ち上げた。週三回、食糧と生活物資を避難民に提供し、今日までですでに延べ数万人に奉仕した。
この数カ月間、ポーランドでは物価が高騰し、寄付により彼らに渡せる食糧は減り続けているが、毎週列に並ぶ人は増えるばかりで、また早くから並ぶようになった。ポーランド慈済ボランティアのマウゴジャータ(Malgorazata Baryliszyn)さんの連絡により、慈済は五月から物資の寄贈を始め、六月には再び共同で配付活動を実施した。ルイザさんは、詳しく配付活動の流れと人の移動経路を理解するうちに、とても嬉しくなった。彼女は友人として避難民たちの話し相手になることができると信じた。
毎回の配付活動で、私が證厳法師のお見舞いの手紙を読み上げると、何人かが涙を流していました。また、「家族」という歌を歌い、一緒に慈済手話をする時、喜びと共に感動する人も悲しみを新たにする人もいました。私たちは、慈済で愛を感じ、さらに全身全霊で奉仕しました。台湾は私たちから遠い場所にありますが、今日はとても近くに感じます。 —— 雇用による被災者支援活動参加のウクライナボランティア・ユリア
辛く長い道中で支え合う
配付活動の二日前、三百世帯分の食糧とエコ毛布が適時に到着した。会場の器材は全て現地で調達した。プロジェクターがなかったので、マウゴジャータさんは家からテレビを運んだ。イベント司会の台本は、ボランティアたちが話し合って英語版にし、ルイザさんがウクライナボランティアのユリア(YuLiia Priantchkin)さんに付き添って、一字一句をウクライナ語に翻訳してもらった。ユリアさんの息子は軍隊に招集され、十六歳の娘は五日間掛けて、ポーランドのシュチェチンに避難して彼女と合流した。彼女たちの故郷は既にロシア軍に占領されていた。
オクタナス財団の避難民サービス拠点はシュチェチン埠頭近くにあり、市内から少し距離がある。避難民は平日に主にバスに乗って食糧を受け取りに来る。バスの時刻と会場のスペースに合わせるため、毎回、配付は二十五人までとした。
六月二十七日に第一回目の配付活動が始まり、毎回一人の慈済ボランティアがユリアさんの司会に付き添った。彼女が證厳法師の手紙を読み上げる度に、何人かの難民が涙を拭っていた。私たちも、台湾と全世界のボランティアが、ウクライナ難民を助けるために、チャリティーバザーを開いて募金していることやリサイクルボランティアが集めたペットボトルをエコ毛布にリサイクルしていることなどを紹介した。「家族(原題は一家人)という慈済手話の歌が流れた時、人々は感情が解き放たれたように、互いに抱擁して感謝し合った!配付活動が終わっても、皆すぐに離れず、より多くの人を助けたい、と次から次へ持ち合わせていた小銭やお札を自発的に寄付したことで、私たちは胸を打たれた。
二日間で合計十七回の配付活動を実施した。最後の数回は時には、一〜二家族が参加するだけだった。私は、活動の短縮を考えたこともあったが、ボランティアの陳怡佳(チェン・イージャ)さんと王素真(ワン・スーツン)さんが思い出させてくれたのは、人数を問うのではなく、たとえ一人でも法話を聞きたいのならば、私たちは完全な説明をしなければならないという法師の言葉だった。私たちは、一家族だけのための最後の活動を円満に終えた後、その日はシュチェチン市内に大渋滞が起き、彼らは三、四倍の時間を費やして、二時間かけてやっと到着したことを知って、私は心から懺悔した。
ルイザさんは、普段避難民たちが来る時は、いつもオフィスに隠れていた。というのも、彼らの苦しみを見るに堪えず、気が沈むからだった。「しかし、慈済の配付活動では、今まで体験したことのない愛とエネルギーを感じました。これからも慈済との交流や協力を続けていきたいと思っています」と話した。
一カ月ほど前にルイザさんが、オクタナスはあとどれくらい続けられるか分からない、と話していたのを思い出した。今、彼女は避難民の支援を続けたいと思っているそうだ。私は、彼女は慈済人が担っている力を感じ取り、辛く長い道中で心の友を見つけたのだと信じている。そして自分も誰かを慰めることで、彼ら一人ひとりの美しい笑顔を見ることができて、癒されだのだ。
(慈済月刊六六九期より)