得るのは今でなくてもよい

最近『楽しむためではない』という本を読んだ。仏法にどんなメリットがあるのか。仏法で楽しくなれるだろうか。第一章の冒頭からとても考えさせられた。

「楽しさを求め始める前に、非常に重要なこととして、先ず、楽しさとは何なのかを定義する必要があります…。もしあなたの考えている快楽が世間の嗜好や欲望を超えたもので、名利の追求だけではないとすれば、あなたが探しているものは仏法かもしれません」。

證厳法師の開示を振り返ると、法師は本当に一番やさしい大師だと感じる。

「愛の力は、お互いに修行を成就させます。衆生はすべて業を持ってこの世に生まれてきますが、因果応報で受けた業ですから、自分の思い通りにはなりません。法縁者として修行することは、自らの揺るぎない発心次第です。お分かりですか。そうです。奉仕できると、自分も『得る』ものがあるのです。私たちが健康で、善意を持って行動してこそ、奉仕できることを忘れてはいけません。ですから、奉仕すれば私たち自身が『得る』のです。人助けする時が、人は最も楽しいのです」。

奉仕することは自分が「得る」ことであると言う言葉は、私を振り返らせ、考えさせた。その言葉が大きなプレッシャーとなって、息が詰まることもあるが、何となく、奉仕し続けないと、自分は「何も得られない」のではないかという気になってくる。今振り返って見て分かったが、奉仕できる時は、自分にその基礎ができているからこそ、力強く分かち合えていた。奉仕しても無力感を感じる時は、何が原因なのかを自分に問いただすことにしている。成果が見えない場合は、仏法に戻れば心が落ち着く。「得る」のはこの瞬間でない時もあり、それも物質ではない。真面目に奉仕すれば、因果に裏切られることはない。

「時に、軽い一言が人生の方向に影響します。ですから、私たちは常に自分の行い、言葉、意識に気をつけなければいけません。行動して奉仕すれば、人助けができます。言葉を発する時は、良い話をして励ますように心がけるべきです。常に心の中を法で満たしておいてください」。法師の言葉だ。

人助けの方法はたくさんあり、私たちはその中から奉仕する方法を見つけることができる。コロナ禍にあって、私は一枚の絵を描いて「お元気ですか」と尋ねることを思いついた。コロナ禍を無事に過ごせた日々に感謝している。

(慈済月刊六八二期より)

慈済基金会職員の阿板(凌宛琪)(アバン=リンワンチー)さんが聞いた仏法に対する心境を、ネットで、漫画方式で分かち合った。

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