ヨルダンの避難所で出帆を待つ

アンマン市ブリッジスクールに通う100人余りの難民児童は2024年、慈済が贈呈した学用品と学生カバンを受け取った。そのうちの多くは2016年から慈済の就学支援を受けている。

人道的立場に基づいて難民を受け入れているヨルダンは、人口比では世界で二番目に多く難民を受け入れている。ここで未登録の難民を含めて、百万人を超えるのはシリア人である。

慈済は、二〇一一年の冬から、緊急及び長期的支援の提供を始め、今までに、手術医療の補助は一万五百件余りに達し、児童が最も多い。教育支援では、延べ二万四千人を数え、避難所に来た家族に、安心して滯在できるようにしている。

ワファさんの体験は、シリア内戦で起きた数えきれない悲劇の一つである。ご主人は、元来ダマスカス市中心部でフォーマルウェアの店を経営し、商売は繁盛していたので、専業主婦のワファさんは、生活に憂いはなかった。

最初、彼女は特に二○一一年から始まった内戦を気にしていなかったが、二○一二年二月の或る深夜、黒い服装の人たちが来て、ご主人を連れて行った。「怖がらないで。すぐに戻ってくるから」。これは、ご主人が最後に彼女と話した言葉となった。

ワファさんは八カ月間待ったが、受け取ったのは一枚の、ご主人の死亡証明書だった。二人の幼子のために、彼女はヨルダンの首都アンマン市に避難し、戦争で同じように夫を亡くした妹と両親と同居した。姉妹はハウスキーパーや介護の仕事をし、国連の食糧券を加えて、一家六人は一カ月四百〜五百ディナール(約七万〜九万円)で生活をした。

幸せに恵まれた若妻から、ハウスキーパーをして子供を養わなければならなくなった彼女にとって唯一の慰めは、聞き分けの良い息子たちだった。慈済の学費支援の下に真面目に勉強し、冬と夏休みには、雑貨屋でアルバイトをした。それだけで彼女は満足した。「私にはまだ両親と子供が側にいますから、他の人より恵まれていると思います。子供が成長していく姿を見ていると、苦労をする甲斐があるのです」。

ワファさんの二人の息子は、アンマン市のブリッジスクールに通っている。慈済は五年にわたって就学支援をしたり、始業前にカバンや文房具を配付したりするほか、学校で静思語を分かち合っている。学生は出入りが激しく、十年生まで学んだ後は、他の高校に転校しなければならない。また、ヨルダンを離れる家庭もある。例えば、ワファさんは、二○二三年四月に国連を通じてカナダへの移民が許可された。ご主人と過ごした日々を思い出したワファさんの深い目の奥には思い慕う様子が見られたが、子供の将来を考えると、母親として強くなり、慈済人の祝福を携えて、見知らぬ国で新しい生活を続けていくしかないのだ。

二○二四年度、慈済はブリッジスクールで、百五人のシリア難民の児童に就学補助を行った。そのうちの三十二人は、車で約十分の五キロ離れた慈心の家から通っている。

慈心の家は、シリアからのシングルマザーと子供、孤児を受け入れている。この子供たちの多くは、ヨルダンの公立小学校には就学できていなかった。慈済ヨルダン支部は、二○一六年十月から家賃や学費等の方面で三十世帯余りを世話すると共に、子供たちのために、パソコン教室や英語クラス、テコンドークラスを開設した。

逆境にいる子供は早熟で勤勉である。教育が人生を好転させる唯一の道であることを知っているからだ。二○二二年八月、ヨルダン大学の入学共通テストの成績が発表されると、慈心の家の親子たちは欣喜雀躍した。三人の女の子が試験に合格し、自分の好きな学科を選択して勉強できるようになったのだ。これは皆にとっても大きな励ましとなった。故郷を離れ、頼れるご主人がいなくても、次世代の将来には依然として希望があるのだ。

薬剤師を志すヤスミーンさん、国立ヨルダン大学の韓国語と英語のバイリンガル学科に合格したリームさん、国立バルカ大学に合格したマンナルさんらは、慈済が学費の一部を補助することで、安心して大学生活を送っている。授業のない時を利用して、慈済が行っているヨルダン現地の貧しい人々への配付活動を手伝っている。

ヨルダンの人口は千百万人超だが、国内に滞在する難民は、ピーク時には三百五十万人に達したことがある。そのうちの百万人余りはシリアから逃れてきた人々だ。難民キャンプを離れて砂漠や都市の外れに散在し、辛い生活を送っている家庭が少なくない。慈済はこれら難民家族と縁を結んでから十年以上になるが、支援を受けた学生は延べ二万四千人を超える。安定した生活から安心して就学するまで、彼らの前途を照らし出している。

(慈済月刊六九九期より)

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