一念より始まり、時が全てを成就する

日々善の一念を発心し、心の愛を行動に移すのです。大樹も小さな種から成長し、些細なことも軽んじてはならず、時が全てを成就させてくれます。

済は間もなく六十年を迎えます。歩んで来た道を振り返ってみると、どの一歩も着実で、どれも「合和互協」の心があったからこそ、今の安定した四大志業があるのです。そして慈善から医療、教育、人文へ、と四つの段階は順を追って進められ、皆が秩序を保つことで、そのスピードを速くすることができたのです。

初期の慈済人が私に付き添い、無から有にまでなったことにとても感謝しています。いつも言うのですが、慈済が「五十銭」から始まったことを忘れてはいけません。一日に五十銭を貯めて人助けを始めたことで、基礎ができたのです。毎日心に善の一念を起こし、愛の気持ちを行動に移すのです。大樹も小さな種から成長するように、一点一滴を軽んじてはなりません。心に善の一念が起これば、それが種となって、社会に奉仕する力に成長していくのです。

過去の出来事を見つめ直せば、やはり善の一念に尽きます。やるべきことをやらないのを見ると忍びなく思い、身の程知らずでも、歯を食いしばり、「自分の無私を信じ、人々には愛があると信じる」ことが私の力でした。私は、人の心には愛の気持ちがあると信じ、自分が無私であることを信じています。心をこめて呼びかけさえすれば、必ずやり遂げることができるのです。その一念に始まって、今振り返ってみると、時が全てを成就させてくれたと感じるのです。

私はこの生涯で残せるものは何もありませんが、自分の心にただ一つ残しておきたいのは、感恩の気持ちです。私は心から世の中のためを思って、苦難にある人に尽くしてきましたが、一人では何事も成すことはできませんでした。修行を続けて成長し、志業を担ってくれた多くの人々に心から感謝しています。皆さんのおかげで志業はこんなに大きくなりました。これからも、皆さんは力を合わせて私の思いを実践してくれることでしょう。私はいつもこの「心遣い」を話題にし、自分の心にも刻みつけています。

どこかで災難が起き、苦しんでいる人がいれば、菩薩が直ちに湧き出てきます。仏陀の時代ではこのように説法していましたが、私たちの時代ではそれを実践しています。今年一月二十一日に嘉義の大埔で地震が発生し、多くの住宅で壁にひびが入ったり、屋根から雨漏りしたりしましたが、直ちに修繕してくれる職人が見つからないため、各地の慈済ボランティアが台南へ駆けつけました。女性ボランティアは被災者を抱擁して慰め、男子ボランティアは損壊した箇所を修繕しました。彼らは休暇を取って、自費で来ており、その見返りを求めない奉仕に人々は感動し、彼ら本人も喜びに満ちていました。

慈済の慈善志業は、誠意を以て人間(じんかん)の苦難に奉仕しています。今年一月、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスで森林火災が発生し、一カ月近く燃えてようやく鎮火しました。多くの人は、「火は自分の所までは来ないだろう」と思っていましたが、火の粉は飛び散り、災難は無情にもコミュニティごと焦土にしてしまいました。

瞬時に家を失った彼らの悲しみはいかばかりか、また行く宛もない彼らの未来はどうなってしまうのかと思いやり、慈済人は速やかに彼らを慰めました。寒い天気の中、大火事に慌てふためいて何も持たずに逃げ出した人たちに温かい衣服を掛けてあげ、緊急時の援助として、一、二カ月間生活できる額を配付しました。人間(じんかん)に苦難があった時、救済は実情に合わせるべきで、トンボの産卵のように浅いものであってはいけません。彼らが心身共に落ち着けば、人間(じんかん)の愛を感じ取ることができ、それが希望となるのです。

私の代わりに人々を愛してくれる

ベテラン慈済委員と慈誠隊員は、若い頃から慈済に参加しています。一年三百六十五日、彼らは殆ど休暇を取らず、休日があればあるほど活動を行って、時間を存分に利用していました。今は年齢を重ねていますが、思い出してその記憶を辿ってみてください。この生涯でどれだけの人に感動を与え、人々を迎え入れて、良いことをしてきたでしょうか。

現代社会で、高齢者の一人暮らしや老老暮らしは当たり前で、常態になっていますが、彼らはやはり苦しいはずです。愛する子供や孫たちは普段、遠くで暮らしているため、話し相手も人との交流もないため、孤独に過ごしています。そこで、各地の慈済ボランティアは一人暮らしの高齢者を思いやり、訪ねたり、家の掃除をしてあげたり、近所の人にも関心を寄せてくれるよう、呼びかけています。このような活動を、見たり聞いたりする度に、皆さんが私の代わりに愛を与えていることへの感謝の気持ちが湧き上がってきます。私が手を貸してあげたいと思うと、皆の手が千の手に繋がって、彼らを助け起こしています。

私たちがいつもお年寄りの傍にいることはかないませんが、慈済人が自主的に訪問して「手すり」を取り付けてあげたので、お年寄りの家での行動や生活は質の高いものになりました。一人暮らしのお年寄りに限らず、貧富を区別することなく、高齢の法縁者もケアしています。年を取ると体の衰えを免れることはできません。団体に所属して精進しているとはいえ、帰宅後も安全に過ごせるようにして、転倒を防いであげなければなりません。それが広く行き届けば、私はもっと安心できるでしょう。

菩薩たちは同じ志を持っているので、お互いを大切にしなければなりません。慈済人が自分を大切にしてから、互いに助け合い、いつも連絡を取り合ってこそ、永遠に法縁者に恵まれるのです。慈済のような団体は今までありませんでした。慈済人の「合和互協」が模範になっています。このような模範と人文はとても価値があり、幾世代にもわたって引き継がれることを願っています。どうぞ心して精進してください。

(慈済月刊七〇一期より)

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