東マレーシア水害後 心が晴れた

北東モンスーン気候が、毎年の年明け頃に東マレーシアに雨をもたらす。今年は旧正月の前日からの異例の豪雨により、災害が起きた。住民たちは無防備で家を離れ、避難した。天災は暗夜に突然やってくる招かれざる客だが、やがて夜明けになれば、新たな一日を迎えられる。

ボランティアは、深刻な被災地であるビントゥルを訪れ、住民の被災状況を思いやりながら、名簿を作成した。(撮影・符愛蓉)

早朝四時過ぎ、五十歳のノール・アイニーさんは、トイレで起きた子どもに起こされた。家の中に大量の水が侵入してきたからだ。一家は慌てて家具や電器製品を高く上げたが、水かさがどんどん上昇し、直ちに避難せざるを得なくなった。

家族五人は救援ボートを待っていても来なかったため、仕方なく水の中を歩いて避難所へ向かった。それは人生で最も遠く、過酷な道のりだった。

「ひたすら歩き続け、水位は腰から首まで達しました。水面には小さいヘビやムカデが浮かんでいて、子どもが『ワニも出るの?』と怯えて聞きました。私は『そんなこと気にしている場合ではなく、生き延びることが先だ!』とだけ答えました」。

一月末に家を離れ、二月八日にようやく帰宅できたが、家具も電器製品もバイクも突然の洪水に襲われて壊れていた。子どもたちがもうすぐ新学期を迎えるため、買ったばかりだった新しい服も流されてしまったので、ノール・アイニーさんは涙が止まらなかった。寝室には避難所から持ち帰った二枚のマットレスがあり、「床が冷たくて、子ども三人には二枚のマットレスを使ってもらい、夫と私はビニールシートを床に敷いて寝ています」と彼女が言った。

一月二十八日から三十日にかけて東マレーシアでは豪雨が続き、サバ州のケニンガウ地区、サラワク州のミリ市、ビントゥル地区で洪水被害が起きた。ノール・アイニーさんが暮らしているシブティは、サラワク州第二の都市であるミリから約五十キロの距離にあり、町全体がほぼ水に浸かった。

これはミリ市にとって一九八一年以来、最も深刻な水害となった。住民の多くがほとんど備えをしていなかったところに通信・電気・交通がすべて断たれ、その上、救命ボートも不足していたので、村民たちは協力して高齢者と子供、障害者を避難センターまで移動させるしかなかった。また、交通が不便な遠方に住んでいる人々は、頭を超える高さの洪水に囲まれていたにもかかわらず、救出されたのは洪水発生から二、三日が過ぎてからだった。それ以来、空が曇ったり雨音が聞こえたりすると、被災地には不安なムードが広がった。

ミリでの元日

洪水災害は華人の旧正月に発生し、ミリの慈済人、方文光(フォン・ウェングォン)と数人のボランティアは旧正月一日に避難所へ慰問に行った。当時はまだ雨が降っていて、気温も低く、地面は冷たかった。子供や高齢者が寒がるのを忍びなく思い、ボランティアは夜、先ず毛布を届け、続いて基本的な日用品を準備した。しかし、大規模な問屋は正月休みに入っていたため、ボランティアは小規模のコンビニを一軒ずつ回って、やっと数量を揃えることができ、正月二日に配付を行った。「私たちは旧正月の挨拶回りも親戚、知人との食事会を逃しても気にしていません。それより、この後、被災者に何ができるのかと考えています」。

シブティの中華学校は洪水で大きな被害を受けた。ボランティアたちはまず校舎の清掃を手伝い、その後、授業が再開できるように机と椅子、収納棚を提供した。

被災地の実情を把握して、確実に支援リソースを被災世帯に届けるため、ミリの慈済人たちは、家庭訪問して名簿を作成することにした。当初はクアラルンプールやセランゴール州のボランティアに応援を頼もうと考えたが、ビントゥル地区の被害が深刻で人手も不足していると分かった。方さんは、「私たちは自力で何とかしなければなりません。セランゴールのボランティアは十五人だけ、同行をお願いしました。我々のチームには、心を込めて取り組めば、必ず良い方法が見つかり、四方から菩薩が現れるはずだという信念を持っています。まさに、『願をかければ力が湧く』のです」と言った。

二月八日と九日、慈済ボランティアは被害が甚大な地域であるシブティとプジュタンジュン・バトゥ地区に入り、寄り添うことにした。そして、自主的にボランティア活動に応募した地域の人たちや住民に、慈済ボランティアを合わせると百人を超えたので、人手不足の問題が解消され、名簿作成の任務を成し遂げることができた。

シブティにあるジェンガラス村のモハマド・ラスール村長は、被災者の名簿作成に来たボランティアを案内しながら、「この村では時折、軽度の水害があるものの、水位はそれほど高くありませんでした。人は忘れやすいので、水害の恐ろしさをあまり意識していなかったのかもしれません」と言った。

セランゴールのボランティア邱勁順(チュウ・ジンスン)さんは、旧正月の休暇中に旧友と会う約束をしていたが、ミリでの水害を知って、自費でボランティアチームに参加し、飛行機で南シナ海を飛び越えてミリの支援活動に駆けつけることにした。「名簿作成は、被災者のデータを記録するだけではなく、真心をもって寄り添い、心の痛みを和らげます」。さらに、こう付け加えた。「必要とあれば、金銭的な支援も行って、彼らのストレスと負担を軽減します。安心して生活を立て直せるようにしてあげたいのです」。

洪水は貧富を問わず、あらゆる物を押し流した。邱さんは、「被災者の中には経済的に安定している人もいるかもしれませんが、彼らも精神的な慰めを必要としています。私たちが彼らを慰める役割を果たすことで、いつか彼らにも、困った人々を気遣って手を差し伸べたいと思うようになって欲しいのです」と述べた。

ボランティアは名簿作成のためにミリを訪れたが、辺り一面が泥水に覆われ、被災者が片付けた雑多な物が道端に積み上げられていた。(撮影・江莉蓁)

川の氾濫に見舞われたビントゥル

セランゴールのボランティア百七十人余りが飛行機でサラワク州に入り、地元ボランティア二十三人と共に、被災地のビントゥル地区を訪問した。まだ旧正月の真っ只中で、西マレーシアから東マレーシアへの航空券は入手困難かつ高額だった。三百から千リンギット(日本円一万二千円から三万六千円)と割高で幅もあったが、ボランティアの誰一人として引き下がる者はいなかった。被災地の環境は劣悪で、小雨が降り続く中、ボランティアたちはレインコートを着て、手分けして訪問調査を行った。二月六日から九日まで集中的に四千六百世帯余りを訪問した。そして、被災者の中には助けを必要としている人もいることが分かって、訪問の必要性が裏付けられた。

ビントゥル市を貫くシビウ川の水位は大きく上昇し、氾濫して川の両岸が冠水し、一部の地域の水位は一階建ての家を超えるほどの高さまで達していた。訪問調査のエリアは広範囲で、地元の四輪駆動車クラブが四十四台の車を出動させて、ボランティアたちを運んだ。

川沿いに建つ高床式木造家屋の集落では、十軒以上の家が完全に倒壊していた。五十四歳のジュルミン・アク・アチュさんは、「早朝五時に目覚めた時、水がすでに部屋まで入ってきていました。急いで隣人や友人に知らせ、みんなで必死に高台へ逃げました」と語った。豪雨は三十時間も降り続き、一晩中眠れず、不安げに洪水の動きを見守っていたが、彼の家は、遂に濁流に飲み込まれてしまった。

リウム・アナク・ウンペンさんの高床式木造の家は、川辺に建てて四十年以上になる。今回初めて被害を受けたが、幸いに家は残っている。彼は、「この辺りはほとんどが低所得世帯ですから、川辺に簡素な木造の家を建てて暮らしているのです。しかし、一夜にして家を失った人は、これからどうすればいいのでしょうか」と言った。

二月六日、セランゴールのボランティア、李志忠(リー・ヅーヅォン)さんはビントゥルに飛び、先遣隊として八つのチームを率いて被災地で名簿作成を担当した。カンプンケムンティン村の路地を歩いていると、悲しみに暮れたザイナルさんを訪ねた時、訪問の目的を伝えると共に、どのような支援ができるかを査定した。ザイナルさんはしばらく考えて答えた。「衣類ですね」。その瞬間、心に抑えていた悲しみが誘発されて、瞬時に満面に涙が流れた。

「慈済は慰問に来た最初の団体です」とザイナルさんが言った。彼の家族二十三人は、真っ先に命を守るために避難した。脳卒中で歩行困難な父親を皆で手伝って安全な場所へ歩いて運んだという。壁には笑顔でいっぱいの家族写真がたくさん飾られており、一家の大黒柱である彼が、一所懸命にこの大家族を支えてきたことが見てとれた。しかし、大水害で家の中は見る影もなく変わり果ててしまった。何日間か掃除をしているものの、水に浸かって壊れた物が依然として玄関の外に山積みになっていて、リビングは鍋や食器を乾かす場所となっていた。

一家は広げた段ボールの上で寝るしかなく、食事も作れなかった。職人として働いているザイナルさんは、少しずつ自力で家を修復するつもりだそうだ。「自分は最悪ではなく、自分より不幸な人はもっとたくさんいます」と現状を良い方に解釈した。

ボランティアは2月にミリとビントゥルで見舞い金の配付を行い、被災者の家屋再建を支援した。(撮影・古武漢)

ラマダン前の大規模配付

ボルネオ島のサバ州も激しい豪雨に襲われ、クニンガウ市では二月五日に水害が発生した。水道管が破損し、断水となった。水が引いた後、街の中心部と周辺の村々は厚い泥で覆われていたが、住民たちは水も電気も使えなかったため、慈済の最初の支援は温かい食事の提供だった。その後、あらゆる困難を乗り越えて、六千四百ガロンを超える給水車を手配して最も被害が深刻な地域に向かわせ、黄色い泥で覆われた各家庭にきれいな水を運んで清掃を加速させた。クニンガウの被災者も、今回の水害における慈済の支援対象となった。

二月二十二日から二十三日にかけて、二百三十九人のボランティアを動員して、ミリ、ビントゥル、クニンガウの三都市で五回にわたって、二千三百四十四世帯に見舞金の配付が行われた。ボランティアたちは、敬意を込めて證厳法師からのお見舞いの手紙と買い物カードを住民に手渡した。世帯人数に応じて、一世帯あたり千五百から二千五百リンギット(約五万二千円から八万六千円)を限度に、期限内に銀行で現金に換えることができる。

マレー語版の慈済の歌『家族』を聴きながら、ボランティアは歌に合わせて慈済手話を披露した。最前列に座っていたヤーヤ・ビン・スレイマンさんは、何度も涙を拭っていた。その後、ボランティアが彼のもとへ歩み寄り、右手を彼の肩に置いて、温かい言葉をかけた。彼は、「私の家には何も残っていません、空っぽです」と、声を詰まらせながら言った。

彼はミリのプジュタンジュン・バトゥ地区に住んでいるが、洪水が押し寄せてきた時、体の不自由な妻を隣人の二階へ移動させ、幼い二人の子どもを親戚の家に預けた。その後、再び折り返して妻と上の子ども二人を連れて被災地を離れた。激しい濁流は腰の高さまで達し、水を恐れている暇はなく、家族を救い出せなくなることだけが心配だった。

ヤーヤさんはこう言った。「その後、慈済から配付活動に参加するよう、メッセージを受け取りました。それは被災後に、私たちが受け取った初めての経済的支援です。これで間もなく訪れるラマダンとハリラヤ(断食明け)の費用負担が軽くなりました。その援助で、光明が見えました。慈済が私たちを家族のように接してくれて、心から感謝しています」。

被災者たちは続々と自らの思いを語った。「まさか中華系の人たちが助けに来てくれるとは思ってもみませんでした。慈済は宗教を問わず、人道精神を実践しているのです」、「慈済からのメッセージを受け取った時、心からアッラーに感謝しました。インシャーアッラー!」、「配付の時、入り口から会場までのボランティアたちの誘導は、本当に一流でした」。自然災害は暗夜に突然やってくる招かざる客のように訪れるが、夜が明けると朝日が現れ、愛と思いやりは、その柔らかな光で暗闇を恐れる心を満たしてくれる。

(慈済月刊七〇一期より)

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