感恩の気持ちを持っているからこそ、いつも喜びに満ちていられるのです。感謝することを知らない人は、何を見ても気に入らず、喜びの心は湧きません。
そして、何事も自分とは縁が逆で、人ともうまく付き合えません。そういう人生はとても苦しいものです。
慈済は間もなく六十年目を迎えます。若い人は六十年前の社会がどんなものだったのかを知りません。つまり、今の時代に比べて苦労が多く、楽しいことが少ない時代でした。しかし今は、「楽」が多く「苦」が少なくなりました。ですが、今の人は幸福の中にあるため、毎日楽しく過ごしていても、その楽しさの意味を知らないが故に、少しでも「苦」を訴えます。
以前の台湾は、苦労が多かったのですが、社会のために努力したことで、今はとても豊かになり、誰もが大学に進む機会を持つまでになりました。それは親の愛によるもので、自分はどんなに苦労しても、子供には高等教育を受けさせたからです。ですから、人生では感謝することを知らなければなりません。親に対する感謝、恩師や先輩への感謝、クラスメートや同僚たちに感謝することが大切です。感謝の心があってこそ、いつも楽しくなるのです。感謝することを知らなければ、何を見ても自分の意に添わず、話を聞くのも話すのも嫌になってしまいます。「何もかも気に入らない。何も聞きたくない」と、すべてのことを逆の縁に捉えてしまい、人との付き合いが難しくなってしまいます。そういう人生は苦しいものです。
親の養育と後押しによって学業は成就しますが、最も大切なのは自分で精進することです。精進できる人は、感謝の心があり、親の苦労を知っているからです。親に恩返ししたいのなら、両親の心に添い、真面目に勉強することです。これが親への最大の恩返しなのです。
慈済人は、新芽奨学金を受給する学生を思いやっています。子どもたちが、物分かりがよく、縁を逃さず、常に精進している姿を見ることも、慈済人への最大の恩返しなのです。彼らは自分の時間を割いて、しかも自腹を切って奉仕しています。この大愛の最も貴重な価値は、真心で見返りを求めず、子どもたちがよく勉強して良い成績をとれば、彼らもとても嬉しくなります。この喜びこそが、どんなに困難であっても前進し続ける原動力なのです。これが天下の親心であり、仏心、そして菩薩心なのです。
もし若者が快楽だけを追い求め、苦しんでいる人の暮らしを知らなければ、将来の社会はとても危機的なものになるでしょう。台湾の平穏を願うなら、人々に人間(じんかん)の病苦を知ってもらい、自分の幸福を知って、更に福を作らなければなりません。日々感謝の心を抱いて、社会に恩返しをするのです。
二十年ほど前、マレーシアの慈済人が私にこんな話をしてくれました。「サバ州の無国籍村の住民は身分証明書を持っておらず、水上に高床式の家屋を建てて住んでいます。ボロボロで崩れそうな上に、環境は汚染されて、部外者が入りたがらない、社会から見放された危険区域なのです。たとえ当国で生まれても戸籍は無く、子供が教育を受けるのは困難で、何世代にもわたって、このような生活が続いているのです」。
現地の慈済人の献身的な活動と継続的な交流に、私はとても感謝しています。慈済人が高床式の家屋の間を行き来していた時、木がボロボロになっているのを見て、とても心配しましたが、今は比較的自由に行き来できるようになっているようです。諦めなければ必ず希望が出てきます。少ない力で全面的に現地を支援することはできませんが、ここ数年、子供たちが慈済の学習センターに来て学び、慈済の制服や靴を着用している様子を見ると、だんだんと自信が湧いてきました。
そこに慈済の施設を建てることはできませんが、一歩一歩ずつ、心を込めて親御さんたちと話し合い、子供たちに勉強する機会を与えるのです。児童労働者として働くだけでは、将来の生活を変えるチャンスはありません。助けてあげたいのであれば、子供たちがレベルアップするようにしなければなりません。
国籍もなく、どこから来たのか住む場所もなく、将来もない人生はとても苦しいものです。教育を受けられることは、このような子どもたちにとって大きな幸せであり、唯一の希望でもあるのです。現地でケア活動をしたことのある慈済の青年ボランティアたちが戻ってきて、その経験を他の人々と共有してくれることを願っています。これは社会を啓発する上で役に立つテーマです。
自分のエネルギーを充実させ、諸々の愛を蓄積して、世界の苦難にある人たちに関心を寄せましょう。台湾の片田舎や路地裏では、身寄りのないお年寄りや貧困、病に苦しむ人、障害者らが非常に厳しい生活を送っています。私たちは普段から出向いて奉仕できるのです。ぜひ時間を有効に活用し、弛まず精進してください。
(慈済月刊七〇七期より)


