西アフリカのシエラレオネ共和国は、常に世界の最貧困国十国にランクインしている。慈済は三つの非営利団体と協力し、それぞれ専門分野を活かして貧困者と病人、孤児、障がいのある人への支援に取り組んでいる。この国は、慈済の最初の十年間の慈善活動を経た今では、自給自足へ向けた変革を進めるまでに変化した。
慈済と協力パートナーたちは、長期間エボラ出血熱の生存者を支援してきた。2024年、米の配付のために南東部へ出発したが、大雨の影響で車が進めなくなったので、ボランティアたちが石を運んで道を舗装し、困難を乗り越えた。(写真提供・花蓮本部)
飛行機が西アフリカのシエラレオネ共和国の首都フリータウンの空港に到着し、乗客たちは国際線ターミナルで入国手続きを進めていた。作業は完全にコンピューター化されていて、預け入れ荷物の搬送ベルトは電動、飛行機へはボーディングブリッジを通って乗り降りできる。そして、乗客は出入国ごとに二十五米ドルの税金を支払っている―これらは一般的な空港でよく見かける光景だが、慈済ボランティアの曽慈慧(ヅン・ツーフウェイ)さんは、明らかな「変化」だと感じた。
「二〇一六年、私たちが初めてフリータウンの空港に到着した時、ボーディングブリッジはなく、バスでターミナルと駐機場を行き来し、乗り降りもタラップを使い、荷物も人力で運ばれていました。今年の訪問で最も感じたのは、全てが変化の最中にあるということでした。多くの新しいビルが建設され、夜も以前のように真っ暗ではなく、照明で明るく照らし出されていました。地域の市場もとても多様化していますし、衣食住と交通、官公庁、農業、工業、商業などのあらゆる面で少しずつ進歩しています。成長は緩慢ですが、確かな足跡が刻まれているのです」。
二〇一五年三月、エボラ出血熱の流行を生き延びた遺児や女性、障がいのある人を支援するために、慈済は初めてシエラレオネ共和国で支援活動を展開した。その後、現地の慈善団体や機構と、十年間にわたって長い協力関係を築き、交流を続けている。現在では慈済の事務所も設立され、スタッフには慈済の代表として、政府の各種会議や緊急支援活動などに参加してもらっている。
二〇二五年二月、台湾慈済基金会執行長室グローバル協力兼青年発展室の職員である欧友涵(オゥ・ヨゥハン)さんと褚于嘉(ツゥ・ユゥジャ)さんは、アメリカから出発して一万四千キロの距離を超え、当時のアメリカ総支部執行長の曽さんと合流し、十五日間にわたって、二十四カ所の現地機関や団体を訪問する旅を展開した。過去十年間の実績を基に、協力パートナーとどのように今後の方向性を見出せるかを模索するためである。
フリータウンは大西洋に面し、北と東を山脈に囲まれている。人口は百万人を超えると推定され、住宅とインフラが不足している。
エボラ出血熱感染の原点へ
慈済とシエラレオネ共和国の縁は、旅の行き先の一つであるコインドゥに始まる。東部に位置するこの農業の町は、リベリアとギニアの国境近くにあり、二〇一三年にはシエラレオネ共和国で発生したエボラ出血熱の発生源の一つだった。当時、隣国との三つの国で併せて一万人以上がこの感染症で命を落とした。
公衆衛生体制が十分に機能していない上、家族によるケアが感染を広げ、そして、死者の体を清める伝統的な習慣も加わって、パンデミックを加速させた。シエラレオネは三つの国の中では最も感染者が多く、また心が痛むのは、数千人の子どもたちが親を失って孤児となったことである。それに、その致死率の高さに対する恐怖心から、住民の間で患者の遺族や生存者に対する差別や偏見も起こった。
慈済は、カトリック教の「カリタス基金会フリータウン事務所」、「ヒーリー国際救援基金会」と二〇一五年から協力関係を結び、食糧と食器、寝具などを配付してきた。二〇一六年には、ランイ基金会も協力に加わって共に善行を行った。慈済は毎年、台湾農業委員会に人道支援米を申請しているが、静思精舎の師父たちが五穀パウダーを提供してくれたので、これら全てを彼ら現地の協力パートナーを通じて配付している。
コインドゥはフリータウンから車で約五時間の距離にあり、そのうちの五十二キロ分は舗装されていないので、四輪駆動車でも走行が困難だ。雨季になるとさらに厳しくなる。二〇二四年九月、カリタス基金会は物資の配付のために出発したが、大型トラックが前進できなくなり、現地に三日間滞在せざるを得なかった。それで近隣の村のバイクドライバーに物資の搬送を手伝ってもらった。
慈済チームが再びコインドゥを訪れた時、沿道の景観にはかなりの変化が見られた。中国が推進する「一帯一路」構想による建設工事によって、村と村の間の道路整備が進められていた。
コインドゥ郊外に到着すると、道端の物売りは依然として存在していたが、警察署やムスリムのモスクが新たに建てられていた。また、各種の太陽光パネルも設置され、小さな照明に電力が供給されていた。この貧しい村は、経済復興の兆しを見せていた。
コインドゥには九つの公立学校があるにもかかわらず、エボラ出血熱で親を失った孤児たちは疎外されていて、教育を受けることができなかった。「最も感動したのは、マリーおばさんです。彼女は孤児院と小学校を設立し、差別されていた子どもたちを再び社会に迎え入れたのです。二〇一六年からは、慈済が彼女の学校に米や五穀パウダーを提供しています。以前と比べると、子どもたちはずっと健康になりました!」と曽さんが言った。
欧さんが説明を補足した。「当時、多くの親を失った子どもたちが見捨てられて街角を彷徨っていました。マリーおばさんは積極的に彼らを探し出して食事を与え、里親探しをしました。その後、土地を提供して学校を建て、『一緒に微笑む小学校』と名付けました。今では、生徒の中の一人か二人は大学進学のチャンスを掴み取るようになりました」。
学校の教師であるビクトリアさんは、エボラ出血熱に感染した後で回復したが、後遺症が今でも影を落としている。彼女は慈済の長年の支援に感謝し、今はボランティアとして活動している。
クルーベイのスラム街は、2023年8月の豪雨で災害に見舞われた。慈済はカリタス、ヒーリー、ランイの各基金会と協力して、住民たちと共に環境の清掃を行った。(写真提供・花蓮本部)
スラム街で災害を未然に防ぐ手助けをする
同じようにフリータウンにあるとはいえ、クルーベイに足を踏み入れると、快適な空気は蒸し暑さに変わり、気温は明らかに摂氏二十六度を超えている感じがした。お互いの声が聞こえるほどの狭い路地を進むと、様々な匂いが混ざり合って鼻をついてきた。そこは地盤の固い土地ではなく、海の上にゴミや衣類が積み重ねられてできた土地で、今でもまだ広がり続けている場所なのだ。
過去数年間、慈済はクルーベイ、スーザンベイ、ドワルザークという三つのスラム街で支援を行ってきた。洪水や火災の後に炊き出しをし、環境を清掃してゴミを一掃した結果、今では住民たちが空き地で遊んだりサッカーを楽しんだりできるようになった。しかし、問題は依然として存在しており、排水溝はゴミでいっぱいなので、雨季になると、水害が発生する。住民が引き続き努力して、ポイ捨てする習慣を改める必要がある。
慈済チームが中央サッカースタジアムに到着すると、住民たちは歌と踊りで歓迎した。コミュニティ集会ホールでは、三つのコミュニティから約五十人の代表が来て、慈済とカリタス基金会の長年の支援に感謝の意を表した。特に、洪水防止の清掃、災害後の支援、消防訓練、リサイクル計画がもたらした影響により、マラリアやコレラなどの感染症の発生率が目に見えて減ったことに感謝した。
三つのスラム街が直面している困難は、ほぼ同じである。人口が二万から三万人もいるクルーベイは、衛生施設が不足し、水道の蛇口すらない。スーザンベイも同様に人口が密集していて、住居のほとんどはトタン板と土壁、またはコンクリートで建てられ、排水システムはない。二〇二四年には大規模な火災が発生し、三百世帯が家を失った。山の斜面に建設されているドワルザークも、火災のリスクが存在する。
コミュニティ代表者は、何らかの機械設備、リサイクル資源をレンガにするための機械設備などを一つでもいいから与えてほしいと希望した。「それは収入にもなります。どうか私たちを見捨てないでください。チャンスをもらえれば、いつかスラム街も天国に変わるのです」。
慈済チームはその後、フリータウンのイヴォンヌ・アキ・ソイエ市長とスラム街の改善策について協議し、都市計画に沿った発展プロジェクトの推進を期待した。
フリータウン北部のスーザンベイ沿いにあるスラム街では、2023年3月に大規模な火災が発生し、7000人が家を失った。慈済アメリカ総支部はフリータウンのカリタス基金会と協力し、ボランティアが炊き出しを行った。(写真提供・花蓮本部)
四つの機構のどれか一つでも欠いてはいけない
カリタス基金会、ランイ基金会及びヒーリー基金会は、慈済と協力して十年目を迎え、それぞれの専門を活かして使命を担ってきた。
カリタス基金会はフリータウンで長年活動をしており、ケアケース管理、慈善訪問、農業生産、スラム街での防災教育の普及など、様々な方面で活動を発展させてきた。同時に、台湾からの白米の通関手続きや配付対象者リストの作成、孤児院とエボラ出血熱生存者コミュニティ、社会福祉局などへの配送にも協力してくれている。
ヒーリー基金会は医療支援に重点を置き、慈済と協力して助産師を養成し、政府からの認定の取得に力を入れているが、二〇二四年には九十四人が参加した。このプログラムは政府の衛生福祉部の支援をバックに、出産後に適切な処置がないことによる新生児の死亡ケースを効果的に減少させている。今後地方の過疎地域でも小規模な訓練を推進していく計画だ。
ランイ基金会は女性の職業訓練を担当し、農業の現地定着を促している。慈済と共に長年にわたり、南部州のボー市で障がいのある女性を支援し、裁縫クラス開講などのプロジェクトを推進している。彼女たちは、今では足踏みミシンを使って日常的な衣類を縫製することができ、さらに各種サイズのエコ生理用ナプキンを量産しており、自力更生による素晴らしい成果のひとつとなっている。
慈済は地元の組織と手を携えて共に善行を行っているが、二〇二四年だけで二十四万人以上に支援を届けた。十年後もこの愛とケアを続けていくにはどうすれば良いだろうか?曽さんは、「最も重要なのは、人々の善意を呼び覚まし、コミュニティの一員としてケアのできる人にすることです」と語った。
慈済はランイ基金会と共に、長年にわたり南部州のボー市で、障がいのある女性を支援しているが、職業訓練プログラムに参加した学生たちが今では日常の衣類を縫製できるようになり、エコ生理用ナプキンの量産を行っている。
現地調達による自給自足
シエラレオネ共和国の食糧輸入依存削減を支援するため、慈済は二〇二二年から現地で白米を調達して配付に当てている。二〇二四年の例を見ると、台湾農業委員会に海外支援米を六百トン申請したほか、現地で二百三十トンを調達した。
ギニア共和国と国境を接する北西部州カンビア県のタカクレネ婦人農民協会にとって、初めての大規模購入者が慈済だった。二〇二五年には、国連世界食糧計画(WFP)も購入の列に加わり、共に地元農業の発展を支援している。
イサタ女史をリーダーとする農民協会では、三百人の女性と百五十人の男性が農作業に取り組んでいる。彼らは、慈済の購入が安定した収入をもたらしただけでなく、地域の発展を促進している、と感謝した。屋根は茅葺きから耐久性のあるトタン板に変わり、農作業は伝統的な手作業から機械化へと進歩を遂げた。そして、収入の分配も計画性を持つようになり、一部は将来の投資として銀行に預け、一部を生活や教育及び医療に使っている。政府は生産量を上げるために、太陽光発電による灌漑システムの設置を支援することを計画している。これらの支援措置で、農民たちは自信を持って自立できるようになるだろう。
慈済はまた、性別と児童事務省を訪問した。部長のイサタ・マホイ博士は、慈済が孤児院と一時ケアセンター、及び特別支援学校向けに食糧支援を行い、また性暴力に遭った人たちに必要なケアと支援を提供していると述べた。
初等教育および高校教育省全国学校給食計画の担当官と協議した際に、統計データも提供してもらったので、慈済は、二〇一八年から政府と協力して「昼食無料プログラム」を推進してきた。現在までにフリータウン以外の十五の学区の七十校で、約二万人の低所得世帯の子供たちを支援しているが、その中には五百人の特殊教育を必要とする子供たちも含まれている。
ピーター神父は、「子供たちが空腹のまま学校に行くと、全体的に学習効果が悪くなるのです」と語った。この給食推進計画は、證厳法師が大規模な災害後にいつもボランティアたちに温かい食事で被災した人々の心を温め、彼らの心を落ち着かせる方法と同じである。
慈済は協力パートナーと長年にわたってフリータウンのセントジョージ基金会孤児院などの施設に五穀パウダー、米、エコ毛布、靴などの物資を寄贈し、貧困者や孤児、障がいのある人を支援してきた。
次の十年間は人材育成
シエラレオネ共和国は、世界で最も宗教に寛容な国の一つと考えられている。慈済ボランティアが宿泊したフリータウンのホテルの場所は、隣がキリスト教の教会で、向かいにはイスラム教のモスクがあり、朝の五時には、祈りの時間を知らせる放送が流れた。
二〇〇二年に十年以上にわたる内戦が終結すると、シエラレオネ共和国の宗教間協議会が重要な役割を果たし、宗教指導者たちは協力して政策策定を進めた。人口の七十パーセントはイスラム教を信仰しているが、宗教間の関係は円滑であり、家庭内に異なる信仰を持つメンバーがいることは珍しくない。二〇一七年、慈済の国連事務を担当していた曽さんがシエラレオネ共和国を訪れ、ピーター神父と宗教間対話と物資配付計画について話し合ったとき、その他の宗教指導者たちも喜んで参加した。それ以来、宗教間対話は八回連続して開催されている。
今年の宗教間会議で曽さんは、シエラレオネ共和国の若者たちにも宗教間対話に参加してもらうというビジョンを説明すると共に、対話活動と環境保護活動を組み合わせることを提案した。例えば、まず地域の清掃活動を催し、その後で物資を配付するという形式だ。この提案は、会議に参加した宗教指導者たちの賛同を得た。
現在、シエラレオネ共和国には 一万二千人の孤児と七千人の寡婦、そして五千人の貧困状態にあるエボラ出血熱生存者がいる。慈済は引き続き食糧支援を行い、七百人以上の孤児の進学を支援したり、里親を探す手伝いをしたりしている。
慈済はシエラレオネ共和国での最初の十年間を災害支援から始め、次の十年は人材育成に重点を置くことにしているが、今、地元ボランティアがすでに三十人以上いる。曽さんは次のように述べた。「引き続き地域の清掃活動を進めてごみを減らすことを指導し、平穏な暮らしの中にも危機感を忘れないよう呼びかけます。そして農業に従事する女性のエンパワーメントと障がいのある人に対する手芸の指導、米など食糧の現地調達、これらは全て私たちの努力すべき方向です」。
欧さんはこう言った。「私たちが訪ねた支援対象者は、皆同じような期待を持っています。それは自力更生して他人を助けることです。エボラ出血熱の生存者、女性の小規模農家、政府職員も、皆現状を改善するためにとても頑張っています。慈済と協力パートナーは、善の効果を造る機会を得ました。すべての慈済ボランティアと世界中の人々のシエラレオネへの愛に、改めて心からの感謝を申し上げます」。
(慈済月刊七〇二期より)


