しっかり食べる

善意で口にした言葉は、タイミングがずれると理解されないものになってしまう。誰かに「昨日のことは忘れ、明日に向かって踏み出そう」と寄り添うなら、ただ「しっかり食べる」だけでいいのだ。

興味を惹かれたニュースがある。一人の受刑者が料理コンテストで調理したものが、母親のもとに届けられたというのだ。その母親は取材で、自分の子どもへの想いのほかに、一人の母親として心から思うことを打ち明けてくれた。「あの子が私たちの元に戻って来てくれるまで待ち続け、それまで全力で支えていきます。社会が受け入れてくれることを願っています」。

その瞬間、私がもし私がその母親だったら、子どもが調理してくれた食べ物を口に運んだ時、体に与える栄養を口で咀嚼するだけでなく、それ以上に、お互いのわだかまりも噛み砕かれて、心の傷を癒す愛になるだろう、という思いが頭に浮かんだ。私も体験から学んだことだが、このように愛を伝えるのが苦手な子にとって、家族に料理を振る舞うことで、それを口にする人にその愛を伝えられるのだ。

最近聞かれたことがある。「あなたは、生活が容易でないからこそ、『しっかりご飯を食べなければいけない』と言いますが、『しっかり食べる』とはどういうことですか?」と。

ある日、友人から家族が入院した、というメッセージをもらった。もう長くないかもしれない、と言う。その時から、家と会社と病院がその友人の「世界」になってしまった。その友人に会った時、私は軽く、「一緒に美味しいものを食べに行こうよ」と声をかけた。ちょうど病院の近くにショッピングモールがあり、中に洋風カフェがあって、私は野菜サラダとスープ、ドリンクをオーダーした後、隅っこの席に座った。二人で静かに食事を済ませ、私は再び病院へ戻る友人に付き添った。

私は話上手ではない。だから自分の方法で思いやり、友人と「しっかりご飯を食べる」ことで、少しでも栄養をつけさせたいと思ったのだ。体力があれば、家族の世話ができるのだ。

一緒に心を込めてスープを作る

ブロッコリーのポタージュやマッシュルームスープ、パンプキンポタージュなどの洋風ポタージュは、私にとって「癒しの食べ物」である。言うのも変だが、生活で不愉快な出来事に遭遇すると、いつも自分で野菜のポタージュを作って、ゆっくりとそれを飲む。お腹が満たされると同時に、心も温まる。そしてよく眠れる。翌日に目を覚ました時には、全てが昨日のことになってしまっているのだ。

ある時、娘の睿佳(ルイジア)が外で嫌なことがあったらしく、私は慰めの言葉が前向きな効果をもたらすことができないと感じ、彼女の注意をそらそうと台所に誘い、一緒にパンプキンポタージュを作ることに専念した。

先ず、カボチャを小さく切って蒸した。そして、彼女にやわらかくなったカボチャとフードプロセッサーを手渡し、カボチャをペースト状にしてもらった。そしてフライパンを加熱してから、少量の油で玉ねぎとニンニクを炒め、それらをペースト状になったカボチャに混ぜ、事前に準備した野菜スープも入れながら、沸騰するまでゆっくりとかき混ぜた。家でスープを作るメリットは、自分で塩加減が調整できることである。もし、野菜スープを作る時間がなければ、塩分が少なめのものを買うとよい。最後にパクチーを少し入れれば、出来上がりである。

カフェで出されるポタージュは一般的にカロリーが高い。カロリーが気になる人は家で作ることをお勧めする。バターの代わりにヨーグルトや豆乳を使えば、たんぱく質の量を増やすことができる。もし、ヨーグルトや豆乳が苦手であれば、高蛋白質のそら豆を入れるとよい。

私にとって、手と頭を使って料理に専念している時、調理中に漂う天然の香りを嗅ぐと、嫌な気持ちが知らないうちに消えてしまう。ポタージュを飲み終えると、レストランで暴飲暴食してお腹がいっぱいになるよりも、リラックスした感じになれる。

相手のためだと思って口にした言葉は、タイミングがずれると理解されず、心の痛みを消すことはできない。そこで、私は睿佳と一緒に簡単な料理を作ることにしたのだ。誰かに「昨日のことは忘れ、明日に向かって踏み出そう」と寄り添うなら、「しっかり食べる」だけでいいのだ。

(慈済月刊六六二期より)

    キーワード :