行き詰まった時は、念仏を唱える

柔らかいスカーフが山風に吹かれ、こちらの事情も知らずコートに纏わり付いたあげく、ついにファスナーが噛んでしまった。劉秀菊(リュウ・シュージュ)師姐は、近くの人に手伝ってもらったが、二、三人みんな徒労に終わった。

皆にお礼を言って席に戻ったが、しばらくして彼女は嬉しそうな声をあげた。「動いた!数回念仏しただけで、阿弥陀仏が動かしてくれたのよ!」。

念仏は、證厳法師が三十数年前に彼女に教えたものだ。生活の中でいつも「念仏」があることで、どんな時でも自分の人生は祝福されていると感じている。

劉秀菊さん(右2人目)は慈済日本支部創設時にボランティアに参加し、異国の地で志を同じくする人々と共に、證厳法師の理念を以て良いことを実践している。(左の写真・日本支部提供、右の写真の撮影・曾碧雲)

引き裂かれた慈母心

劉さんは小学教師を退職してから、夫の転勤に伴って日本に七年間滞在した。滞在期間中に無料の中国語発音クラスを開設したが、それが慈済日本支部の中国語クラスの先駆けとなった。過去の慈済活動の写真には、彼女の花のような素敵な笑顔が見られる。実際、その時、家族で日本に行ったのは、環境を変えてリフレッシュしたかったからである。

一九八八年四月のある夜、見知らぬ男性からの一本の電話によって彼女の母なる心が引き裂かれた。

「劉秀菊か?お前の息子の蔡☓☓は私のところにいる。二百五十万元を用意しろ!」。相手は言い終わるとすぐに電話を切った。

彼女はその場に立ち尽くし、状況が理解できるまで待った。先ず思いついたのが冗談ばかり言う弟である。

「誘拐みたいな大事件を冗談にできるか?」。弟はそんないたずらなどしないと言った。

小学六年生の長男・昇くんは下校後塾へ行き、午後八時二十分に終わると十分ほど歩いて帰宅する。彼女は八時半から時計を気にしていたが、九時になっても帰宅しなかった。その後しばらくしてあの電話があったのだ。最初はゆすりの電話だとは思っていなかった。

同僚が彼女に、警察に通報するよう勧めた。彼女は出張中の夫、そして息子の担任の先生、息子のクラスメートに電話を掛けた後、何もわからなかったので、ようやく焦り始めた。

昇くんは生後七、八カ月の時、ハイハイも立つこともできなかったので、大きな病院へ検査に連れて行き、先天性脳性麻痺であることが分かった。息子にリハビリを受けさせるため、彼女は学校で受け持つ授業を二時間目以降にしてもらい、毎朝息子をリハビリに連れて行き、終わってから急いで学校に行った。

「四歳になった時、体を壁に貼り付けながら自分の力で一歩を踏み出しました。それを見て涙が出ました!すべて訓練を積んだ末にできたのです」と彼女が言った。

昇くんが入学する前、彼女は息子を受け入れてもらえるよう同僚に頼んだ。「彼をクラスに居させてくれればいいんです。なにかを教える必要はありません。彼が集団生活を楽しんで好きになればそれでいいのです。宿題は私が見ます」。

毎晩夕食後、彼女は自分で息子の宿題の面倒をみた。「たまに教えながら怒ってしまい、机を叩いたりしますが、夫は私に焦らないでとアドバイスをくれます」と彼女は言った。毎日学校へ行けば子供たちの教育に力を入れ、帰宅すれば息子の指導、さらに二人の娘の面倒を見る必要があり、仕事と家庭の両立に疲れを感じることがあったのは確かだ。

息子が六年生になり、親御さんからマンツーマンの塾があると勧められ、距離も家からわずか十分、まずは息子に道を慣れさせ、陰ながら彼の帰宅状況を観察し、訓練ができたと思ったので、あとは見守るだけにした。

昇くんは学習が安定し、生活能力も向上した。担任の先生からは、昇くんが授業中も積極的に手を挙げて問題に答えていると聞いた。すべてが順調に見えたが、不運な運命にあるこの子に再び難が訪れたのである。

法師の三問を悟る

その夜、警察に通報すると、彼女にどのように対応すべきかを教え、録音し忘れないよう念を押した。三日後、誘拐犯から電話があった。「二百五十万は準備できたか?」。

「私と夫はただの公務員です。そんなお金、すぐには用意できません」。

相手はすぐにお金を借りるよう迫った。耐え難い日々の中、六日目に再び電話が鳴ると、彼女は震え始め、言葉が出なかったので、夫が電話に出て対応した。自分は子供の父親だと言うと、電話はすぐに切れた。

翌晩、学校の校長先生から電話があり、昇くんが戻らなかった日の服装を聞かれた。しばらくして、警察が夫婦のもとを訪れ、警察署ではなく、川のほとりに案内した。

「陸正の父親が遺体を確認しました。陸正ではありませんでした」と警察が告げた。

数カ月前、全台湾を震撼させた児童誘拐事件は未解決のままで、劉秀菊夫婦は新たな被害者となった。警察は、母親である彼女がショックに耐えられないと思い、車に残した。

「どうでした?」夫と警察が戻ってくるのが見え、秀菊はいても立ってもいられず車を降りた。夫は彼女を抱きしめ、「手と足は合っている。顔は腫れている」。

彼女の心に血の涙が流れた。

「劉先生、私にお手伝いできることはありますか」と言って連絡したのは、花蓮慈済病院初代院長杜詩綿医師の夫人である「杜ママ」こと杜張瑤珍(ドゥ・ツァンヤオツン)師姐だった。杜ママの二人のお孫さんは、以前彼女に教わったことがあったのだ。

昇くんが幼い頃から、彼女は息子名義で慈済の善行に寄付をしていた。息子の告別式を終えると、彼女は杜ママに、師父に会いたいと伝えた。杜ママは法師が行脚で台北に来る時に合わせ、吉林路にある慈済の連絡所に案内した。

「上人は慈しむように私に教えてくださいました。私の身に起きたことは、新聞ですべて知っている、と」。彼女はあの日、上人が問いかけた三つの質問を覚えている。

「息子さんを愛していますか」。これが最初の問いだった。
「愛しています。とても!」。

「息子さんを自由にしてあげたくないですか?」。
「もちろんです。自由に羽ばたけるよう願っています」。

「愛しているとおっしゃいますが、凧の糸を引いているように見えます。これでは自由に羽ばたくことはできません」。
法師は続けて尋ねた。
「仏を信じていますか?」。

「あなたと息子さんの縁はここまでです。しかし息子さんはあなたが仏の道を歩むよう導いてくれました」。法師の慈しみ深く、彼女が毎日念仏を唱えて息子を祝福するよう諭した。

「おっしゃる通りにします」と彼女は言った。その日、帰宅するやいなやピアノの上にあった息子の写真を裏返し、写真立ての裏にカレンダーから切り取った、赤地に金字で「福」と書かれた紙を貼った。「昇くん、あなたは幸せですよ!あなたは阿弥陀仏と共に行き、自由になったのよ。お母さんはもう手放すからね」。それ以来、念仏が息子を思う気持ちに取って代わり、徐々に心の安らぎが得られるようになった。

劉秀菊さんは豊富な教育経験を活かし、日本でボランティアで中国語発音クラスを開設。最初は3名の子供を教えたが、好評を博した。(写真提供・劉秀菊)

中国語を教える義務

二年後、夫の転勤で日本に行き、電話で謝富美師姐(シエ・フーメイ・スージエ、後の慈済日本支部初代執行長)に挨拶をした。一九九一年六月に慈済日本支部が設立すると、謝師姐は彼女を誘い、その場でボランティアの発心について話してくれた。彼女も現地で貢献できるようなことをすると発願し、中国語発音クラスを開いて、中国語を教えることにした。

ある日、電車に乗っていると、ボランティアの頼淑恵(ライ・スウフェイ)師姐と偶然出会った。彼女は娘を台湾に帰して中国語の勉強をさせようと考えていた。「もし、日本に中国語クラスがあっても、娘さんを台湾に帰しますか?」と聞いたことから、二人は意気投合し、頼師姐は積極的に授業する場所を探し、生徒を募った。そしてすぐに、彼女のクラスは三人の生徒から始まり、授業の教材や道具は、自ら台湾に帰って購入した。

彼女は日本語があまり上手でなかったこともあり、頼師姐と東京大学に留学していた江伶萩(ジャン・リンチュウ)さんが授業の翻訳を手伝った。。生徒数は三人から二十人、五十人へと増えていった。年齢は五歳から高校生までおり、中国語のレベルが違うため、生徒を三クラスに分けた。授業時間は午後四時から七時で、毎週三回にした。彼女は忙しさでてんてこ舞いだったが、主婦とボランティアの両立ができた。

初期の教室は、港区南麻布にある中正堂会館を借りていた。そこは国民党が所有する場所だった。ある日、「李おじいさん」と呼ばれていた、華僑界リーダーの李海天(リー・ハイティエン)さんが授業を参観した。七十歳の李おじいさんは、授業内容と生徒の反応を観察し、その後しばらくして、発音クラスに資金を送ってきた。

「劉先生、あなたはすでに時間と体力を費やしています。これ以上あなたにお金を使わせるわけにはいきません」と李おじいさんは教材の購入と印刷代を支援して、クラスを応援した。彼女の努力が認められたのだ。

より良い教育成果を出すため、劉秀菊さんは中国語の教材を求めて、そのために台湾へ帰国して自費で教材を購入したこともある。後に、それを聞いて感動した華僑界から経費の支援をもらった。(圖1写真提供・劉秀菊)
中国語クラスの生徒から反応は良く、人数も増え続け、その後、年齢と程度別に3クラスに分けた。劉秀菊さんは忙しくなったが、海外にいる次世代の華人に語学を教えることで文化を大切にしてくれることを願った。(圖2写真提供・劉秀菊)

頭を切り替え、暗い過去にさようなら

 一九九七年、劉さんは夫と共に台湾へ帰国した。日本にいた七年間を振り返ると、発音クラスで中国語を教えた六年は素晴らしい思い出に満ちていた。その中には、慈済ボランティアがおにぎりを路上生活者に配ったり、また隔月の日本語機関誌を刊行したこと。また、彼女と謝富美師姐は会員の郵便資料を整理して、それを郵便局へ運ぶことに忙しかったこと。謝師姐の励ましの下、彼女は養成講座を経て慈済委員になり、台湾へ帰国する前に中国語クラスを慈青(慈済青年ボランティア)の程建文(チェン・ジェンウェン)師兄に引き継いでもらい、良いバトンタッチをすることができた。

劉秀菊さん(右6人目)は日本支部執行長の謝富美さん(中央)の励ましから、養成講座を経て慈済委員になった。初めは、リフレッシュのために日本に来たが、思いがけず、ボランティア人生の起点となった。写真は慈済32週年祝賀行事に参加し、日本支部のボランティアと共に花蓮静思堂で歌と舞を披露した時のもの。 (写真提供・日本支部)

二〇二一年末、慈済日本支部の昔馴染みの友人との食事会で、スカーフがコートのファスナーに噛まれた出来事から、不意に、抱えていた重い過去の記憶が呼び起こされた。そして彼女は息子が仏法と慈済に引き合わせてくれたことに感謝した。この誘拐殺人事件は未解決のままだが、煩悩で自分を苦しめることはなく、息子への深い愛をあまねく世に広めた。

行き詰まった時は、念仏を唱えてください——劉秀菊さんは笑顔で、「阿弥陀仏」を唱えると祝福がもたらされると話した。

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