フィリピン慈済三十周年—宝刀未だ錆びず 勇敢に邁進する

フィリピン

(写真提供・フィリピン支部)

三十年前、フィリピンで慈済の志業が始まった。これまで二百回余りの大規模な施療活動を行い、一万三千人の貧困学生を支援してきた。

去年七月、一期目の恒久住宅「大愛村」への入居が始まり、同時に施療も行われた。二十九年前、第一回の施療に参加した多くの外科医は、今回も来てくれた。宝刀未だ錆びず、愛は続いている。

千の島からなる国、フィリピンを見下ろしながら、飛行機はゆっくりと首都マニラに着陸した。この国に対する印象は、「安心して自由に歩き回ることができない」である。公共交通機関が発達しておらず、治安も良くはないという環境の中で、慈済ボランティアはフィリピンで依然として勇敢に汗を流しながら、三十年もの間、活動を続け、今日に至るまで、無数の貧しい人々に幸福と希望の光をもたらしてきた。

私たちは、ボランティアチームと共にレイテ州を訪れ、取材を行った。その海辺は穏やかで静かな様子を見せ、十年前の十一月、台風30号(ハイエン)の巨大な波によって四百万人が家を失い、巨大な貨物船が東部タクロバン市の市街地にまで押し流されて来た時の光景を、ここで想像するのは難しかった。当時、世界中の慈済ボランティアが力を合わせて支援活動を行い、「仕事を与えて支援に替える」活動で、被災地の復旧に取り組んだ。また、甚大な被害を受けたパロ市に大愛村を建設した。当初建設された二百戸の仮設住宅は、その後の人口の流動に伴い、現在では六十戸の恒久住宅に改築され、去年七月に入居が始まった。

ボランティアの呂騰波(リュー・トンボ)さんと呂紅濤(リュー・ホンタオ)さん兄妹は、心を一つにしてその建設に尽力し、長距離の移動に加え、資金や労力を惜しまず投入した。騰波さんは次のように語っている。「慈済フィリピン支部の執行長である楊国英(ヤン・グオイン)さんの願いは、台風ハイエン災害から十年目の年が慈済フィリピン支部設立三十周年という節目にあたるので、それまでに工事を完成させることでした」。また、気候変動などの要因を考慮し、基礎の深さであれ鉄筋の基準であれ、その施工品質を高め、未来の風雨にも耐えられるようにした。

マニラの慈済ボランティアたちは、まるで自分の家族の祝い事をするように、住民の新居を飾り付け、引き渡しの日に訪れるあらゆる来賓のために、心を込めて食事を準備した。三十年間倹約して「家を守って来た」、調理統括の慈済ボランティアの呂麗卿(リュー・リーチン)さんは、現地で調達できる素材を活用し、「ランブータンでテーブルを飾るなど、現地のものを使って飾り付けをしました」と言った。調理チームのメンバーには、台風ハイエンで被災した住民も少なからず参加しており、ここ数年の研修を経てボランティアになり、自主的に手伝いに来ていた。林慧菱(リン・フウェイリン)さんは、「両親の家は二階まで浸水しましたが、慈済の支援のおかげで家を復旧させることができました」と振り返った。また、ベーカリー部門を担当する洪米安(ホン・ミーアン)さんは、「私たちは、家も車の修理工場も全壊しましたが、その時から支援活動に参加して慈済のボランティアとスタッフになりました」。

フィリピンで初めて恒久住宅を建設した村落には、広さ一・五ヘクタールのコミュニティスペースがあり、セントラルキッチンや職業訓練センターを備えている。今後、幼稚園と集会所も順次建設される予定である。多くの入居者は大家族なのだが、六十歳のカマリタさんの話では、「我が家は八人家族ですが、若者たちはここで職業訓練を受け、小さな孫たちも今後近くの幼稚園に通うことができます」。

当時、大愛村の近くにあった橋は台風で流されたため、最寄りのアラド小学校まで徒歩で一時間以上もかかっていた。慈済ボランティアが「大愛の橋」を修復したことで、子どもたちは通学時間を半分に短縮することができた。

大愛村の建設は、着工から引き渡しまで約一年半を要した。この歴史的な瞬間を目の当たりにしたパロ市のペティラ市長は、「慈済は十年間に亘ってパロ市を支援してくれました。私は市民の新しい生活のために全力を尽くすことを約束します」と語った。また、楊国英さんも感動を抑えきれなかった。政府との土地の交渉に始まって、建築設計に至るまでの様々な困難を振り返り、「見返りを求めず、ただ被災者が長く安心して暮らせる場所を持てることだけを願って尽力してきました」。

パロ大愛村には60戸の恒久住宅があり、さらにセントラルキッチン、職業訓練センター、幼稚園などの公共スペースも建てられる予定。(写真提供・フィリピン支部)

施療に「これで最後」は無い

パロ大愛村の住民が平穏な暮らしを始めたことで、遠方から駆けつけたボランティアたちもようやく安心することができた。入居日と同じ日に、フィリピン慈済人医会は、レイテ州で二百六十五回目の大規模な施療活動を行った。フィリピンの施療受診者と重症患者の人数は、世界中の慈済の施療の中でも稀に見るほど多い。フィリピンの慈済志業は、医療から大きく発展したことを物語っている。

一九九五年に行われた第一回施療を振り返ってみると、マニラからバギオまで車で六時間ほどかけて移動し、バギオライオンズクラブの施設を借りて診察室や手術室として利用した。病床もなく、医療器材も借り物という状況ではあったが、四日間で百七十三人の貧しい患者に手術を行った。外科の柯賢智(コー・シエンヅー)医師は、「初めての施療では、何も揃っていなかったので、度胸を据えて臨みました!」と語った。手術を終えた後、医師たちは肩の荷を下ろしたかのように、自ら子どもたちを抱きかかえたり、担架を担いだりした。

しかし、「初めて」の施療は、危うく「最後」の施療になりかけた。フィリピン支部の初代執行長である林小正(リン・シァオヅン)さんによると、中華崇仁病院が、もし医療紛争でも起きたら、慈済ではなく病院が責任を問われるのではないかと心配していたそうだ。それでも林元執行長は諦めることなく、積極的に奔走した。

「すべては人の努力で成せるのです!施療活動に招いたのは主治医ばかりで、助手を務めたのもまた主治医でした。手を伸ばすとすぐに必要な器具が渡され、作業は迅速でチームワークも完璧でした。こうして、フィリピン全土で最も強力な医療チームが誕生したのです」。

それ以来、施療は年に数回行われるようになった。「初回は外科だけだったので、医師が手術を終えるのを待つ間、星や月を眺めながら、次回は内科、小児科、歯科を加えようと願をかけました。現地には多くの口唇口蓋裂の患者がいるため、整形外科と皮膚科も必要でした。そのように患者のニーズに応じて診療科を一つずつ増やしていきました」。林さんが星空の下で抱いた壮大な願いは、少しずつ実現していった。

一番早く施療チームを率いた崇仁病院の呂秀泉(リゥ・シュウチュエン)副院長は、二〇一二年に他界した。彼は生前こう語っていた。「フィリピンでは、多くの人が華人のことを『お金持ちで横柄だ』と感じていました。しかし、慈済が施療によって貧困層の住民をケアし始めたことで、現地社会の華人への印象が徐々に変わっていきました。また、施療に訪れた幾つかの地域に、地元の華人たちが慈済の連絡拠点を立ち上げました」。

呂副院長は施療活動のサポートを続け、自らも慈済人医会の医師として活動したが、多くの地域から慈済の施療を要請する声が寄せられたと語った。「先ず現地を視察し、最も必要としている地区を優先しました。施療に参加して、この世には本当に苦しんでいる人がたくさんいることを深く実感しました」。

ボランティアは医療チームを背後で支えている。外科医の盧尾丁(ルー・ウェイディン)さんは、「今でも覚えていますが、手術後に吐き気をもよおした患者さんに受け皿を持って行くのが間に合わなかったので、私たちの年配ボランティアは手で受け止めたこともありました。愛がなければ、誰にもそのようなことはできません!」

施療活動は回を重ねるごとに、数百人から数千人規模へと拡大していった。フィリピンで最も古く、百四十五年の歴史がある中華崇仁病院は、慈済と共に三十年近く歩んできた。崇仁病院外科の柯医師は、「三十年が経ち、私の髪も白くなりましたが、忘れられないのは患者さんの笑顔です。その笑顔があったからこそ、今も施療活動に参加し続けているのです」。

慈済ボランティアの何白雪(ホー・バイシュエ)さんは八十五歳だが、この三十年間の活動では、いつも患者を案内する彼女の姿がそこにあった。「地方に行って施療活動をするので、ボランティアの人数はそれほど多くありません。特に白内障手術の場合、患者さんは直ぐに見えるようになるので、その瞬間の喜びには、心打つものがあります」。

フィリピン慈済の施療活動史を見届けてきた、九十歳の陳寶蓮(チェン・バオリェン)さんは、今もなお活動に携わっている。「小児科では、水で溶かして使う粉薬があるので、私は薬剤調合部門の担当をしています。慈済で活動があれば、私はいつでも駆けつけ、喜んで参加しています」。

去年7月、レイテ州立病院で行われた慈済の施療現場。子供の患者が食事を禁止され、点滴を受けながらヘルニア手術を待っていた。(写真提供・フィリピン支部)

全身に脂肪腫ができたバナさんは、施療当日の最後の患者だった。医療チームは、早朝から始まって深夜になっても手術を続けた。手術後、バナさんは笑顔を見せた。(写真・林道鳴)

貧しい患者のために深夜まで手術を

去年七月十一日から十三日まで、パロ市で施療活動が行われた。二手に分かれ、眼科、歯科、内科、小児科、婦人科、中医科の鍼灸などがレイテ州会議展示センターで行われる一方、外科はレイテ州立病院の手術室を借りて、六つの手術台で同時に手術を行った。

夜になり、最後の患者は頭から足まで全身に脂肪腫ができた、四十五歳のバナさんだった。「こんなになってから治療に来てしまったことを、少し恥ずかしいと思うこともありますが、医療費が高過ぎて、負担できなかったのです。今は心がとても平静で、先生が助けてくれると信じています」。執刀した柯医師は朝の八時から手術を始めたが、手術が終わるのは深夜になると予想した。「もし患者にチャンスを与えなければ、一生このままで過ごすことになるでしょう」。

だが、解決が難しい問題もある。例えば、ローナさんの肩にできた「重荷」、それは検査の結果、悪性腫瘍であることが判明した。彼女が毎晩、痛みで寝返りを打ちながら眠れないことは想像に難くない。施療活動のあらゆる調整事項を総括している慈済ボランティアの洪英黎(ホン・インリー)さんが、そっと彼女に声をかけた。「私たちは全力であなたを支えますから」。医療チームは病理報告を見て話し合ったが、そこで処置することはできなかったので、マニラの病院に紹介状を書いた。

六歳のブッダ君は鼠径ヘルニアを患っていたが、幸いにも手術を受ける機会が得られた。母親のノヴリンさんは、医師が自分の子を抱きかかえているのを見て、「まるで宝くじに当たったようで、現実とは思えませんでした!医師がこの子を連れて行った時、この子がやっと良くなるのだと思うと、涙が止まりませんでした。手術費は私たちの家計ではあまりに重い負担でしたが、神が慈済を導いてくださったことで、娘が良くなり、もう痛みで苦しむことがなくなるのです」と言った。

喜びのあまり涙を流したのは、シングルマザーのマリリンさんも同じである。彼女は五人目の子どもを出産した後、甲状腺腫があることが分かり、重労働ができなくなった。周囲の好奇の目にも不安を感じたが、「お母さん、僕たちはお母さんのために祈っているよ」と子どもたちが言った。宗教や人種を越えた温かい慰めを感じたマリリンさんは、「ボランティアの皆さん、寄付してくださった方々、医師の皆さん、フィリピンまで来てくれたことに感謝しています。慈済がこれからも多くの人を助けていくことを願っています」。

二〇一三年の台風三十号(ハイエン)の時に生まれた「ハイエンベビー」のジョージ君も、ヘルニアの治療に来た。母親のグレッチェル・ソーさんは、当時受け取った「福慧紅包(赤い封筒のお年玉)」を今も大事に持っている。「ジョージは十一歳になり、今日は新しい福慧紅包を受け取りました。本当にラッキーで嬉しいです。周りの人から『身につけていると福を呼ぶよ』と聞き、ここ何年もずっと持ち歩いています」。

村人の一日の収入は多くないが、施療で恩恵を受けたことで、竹筒募金箱に心を込めて寄付し、遠路はるばる来てくれた医師たちに感謝した。

1998年の施療活動で、柯賢智さんが幼稚園の教室に設置された手術室から、手術を終えた小さな患者を抱えて出て来た(写真1)。2023年のダバオでの施療活動(写真2)では、黒かった髪が白髪になっていたが、柯医師の姿は相変わらずそこにあった。(写真・ジュッド・ラオ)

勇敢に次の三十年に向かって邁進する

マニラに戻り、慈済はフィリピン大学のキャンパスで初めて開催したチャリティーマラソン大会を催した。去年七月二十一日早朝五時に、人々は勉学サポートのために、スタートした。イベントの一週間前から申し込みの電話が鳴り止まず、最終的に六千人が参加した。ボランティアの施映如(スー・インルー)は、「参加者が五十人に達するごとに、一人の奨学生の一年分の学費を支援します!参加者の六割は二十五歳から三十五歳までの若者で、このイベントを通じて、若者に慈済の活動を理解してもらっています」と嬉しそうに言った。

慈済の奨学金プログラムは一九九五年から今までに一万三千人以上の学生を支援してきた。奨学生のクリスティンさんは、「慈済は私が学業を続けられるよう支援してくれました。毎月第二日曜日の補習はとても励みになり、眼鏡のレンズ交換も支援してくれて、視界がクリアになりました!」と言った。

コロナ禍の間、一時失業していたジープニー運転手のジミーさんは、早朝三時からボランティアをしに来た。「こんなに早く起きたので、ワクワクしました。慈済のチャリティーマラソンに参加する学生たちの送迎を手伝うのです。失業した時に助けてもらったことがあり、慈済がどのように支援をしているのか、他の人にも知ってもらいたいのです」。

貧困を乗り越えよう!希望の道を一歩一歩進もう!第四代執行長の楊さんは、どんな挫折や困難にも、笑顔で向き合っている。「小正師姐、萬擂(ワンレイ)師兄、偉嵩(ウェイソン)師兄が先頭に立って道を切り開いてくれたおかげで、フィリピンでより多くの菩薩が参加し、活動拠点が増え、より多くの人を助けることができているのです!もう少し多ければ、もっと良いと思います」。

慈済フィリピン支部は、設立三十周年を迎えるにあたって、次の三十年も勇敢に「駆け抜ける」ことを願っている。

(慈済月刊六九五期より)

早朝の5時、慈済奨学金プログラムとコラボしたチャリティーマラソンが、フィリピン大学のキャンパス内でスタートを切った。(写真提供・フィリピン支部)

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