アラブ世界に四十年間滞在し、戦争までも経験したイスラム教徒の林楠松(リン・ナンソン)さんは、アラビア語を通して華人社会とアラブ世界との間に架け橋を築いた。今も信仰は変わっていないが、視野は以前よりも広くなった。
台南慈済中学で、マンナハイ師長と姚智化校長(右)が向かい合って交流し、林楠松さん(中央に立っている人物)が通訳を務め、両者の円滑なコミュニケーションを支えた。
「
皆さんが助けてくれたからこそ、私はより多くの人々を助け、喜びを与え、彼らの人生をより良いものにする機会を得たのです。ありがとう、證厳法師。ありがとう、慈済」。台湾で迎えた二〇二四年の年末、法師との心温まる分かち合いの中で、マンナハイ国際学校教務主任のオメル・イルマズ氏は、自分の避難体験と、同校でボランティアとして働くまでの道のりを語った。アラビア語で語られた彼の心の声は、通訳兼ボランティアの林楠松(リン・ナンソン)さんによって忠実に中国語に訳され、伝えられた。
敬虔なイスラム教徒で今年六十五歳になる林さんは、四十年間リビアに滞在し、目まぐるしく変化する中東情勢を見てきたが、シリア人ボランティアとの交流を思い出すと、今でも感極まって胸がいっぱいになるという。
「トルコにやってくる難民の誰もが無傷で脱出できる可能性は、それほど高くないと分かっていただけると思います。家族が銃で撃たれるか、そうでなければ爆弾で死亡するかもしれないのです。そしてトルコに辿り着いても仕事を見つけることができません。彼らの話では、自分たちの経験は互いによく似ていて、もし慈済がいてくれなかったら人生が好転しなかったそうです」。
林さんは若い頃、リビアに留学し、卒業後は先ず台湾の駐リビア事務所で働いた。そこで同じ台湾出身の留学生だった胡光中(フー・グォンヅォン)さんと出会った。二人は同じ大学の先輩と後輩だった。数年後には別々の道を歩んだが、それ以後も連絡は取り続けた。
「二〇一一年二月十七日にリビア革命が勃発しました。私たちが台湾を出発してリビアに戻った、その日です」。その年は、親戚を訪ねるために妻と息子を連れて台湾に帰国したのだが、リビアに戻った途端、暴動に遭遇した。無事にその場は離れたものの、避難する途中で銃声や砲声が絶えず、ちょっとしたことで飛行機に乗れなくなる可能性があった。「リビアの情勢不安が二十点としたら、シリアは八十点だと言えるでしょう。戦争というものは容赦がないのです」。
二〇一四年に台湾に戻って定住した林さんは、台湾とアラブ諸国の交流活動で、よく通訳として招かれた。また、後輩で、慈済トルコ連絡所代表を務めるようになった胡さんの大切なサポーターとなり、中国語とアラビア語の翻訳で慈済トルコの活動を支援するだけでなく、信仰の面でも励ましてきた。胡さんによると、同じイスラム教徒である友人や親戚の多くは、彼が慈済に参加したことを理解してくれなかった上、彼が「宗教を放棄したのでは?」と誤った考えを持つ人までいたという。「しかし、林さんがいつも私を励ましてくれたので、他人が何を言おうが気にすることはない、私たちの活動はアッラーがご存じであればいいのだから、と言いました」。
この二年間、林さんは台中に住み、シリアの慈済ボランティアと證厳法師、慈済人たちの通訳の架け橋となってきた。二〇二四年の年末、シリア人ボランティアチームに同行し、海外の慈済人認証式が円満に終わった。台南慈済中学校との交流、台北のモスク訪問などの重要な活動にも付き添った。スタッフには中国語とアラビア語の通訳が一握りしかいないため、林さんはほぼ一日中、頭と口を使わなければならず、精神的にも肉体的にも疲れたが、楽しかったそうだ。
林さんは、法師が仏陀の故郷に恩返しをしたいと願う気持ちを例に挙げ、ネパールやインドといった仏教の聖地にも助けを必要としているイスラム教徒の家庭がたくさんあるのだから、イスラム教徒も同じようにケアできる、と信じている。慈済の民族や宗教を差別しない大愛精神こそ、戦火のさなかにある中東が切実に必要としているものなのだ。
「心に憎しみを抱いている場合、テクノロジーは殺戮を助長する道具となるのです。慈済の大愛は、世界の安定に重要な役割を果たしています。人心が平静になれば、安定を感じるようになります。外の世界がどんなに混沌としていても、少なくとも自分の心だけは安定を保つことが大事です」。
翻訳する過程で、「無縁大慈、同体大悲」(見知らぬ人に大慈をかけ、相手の身になって悲しむ)という大愛を理解した林さんは、アッラーへの信仰心は少しも変わっていないが、視野が以前よりも広くなったと確信している。「紹介する人として役割を果たすことで、長い年月をかけて発展してきた慈済に、少しでも貢献できればと思っています」。
(慈済月刊六九九期より)


