異なった宗教でも方向は同じ、それは善と愛。
感謝、尊重、大愛
五月五日、基金会の管理職と職員たちの報告を聞いた後、上人はこう開示しました。「慈済では、国内外の不思議な縁による出会いの話を聞きます。異なった宗教が無私の大愛のために同じ理念を持っているのです。宗教は人々を導いてくれますが、その方向は善と愛です」。
宗教処の職員である黃静蘊(フワォン・ジンユン)さんは、次のように語りました。「四月三十日、トルコの慈済人が二十名のシリア人ボランティアに慈済委員の認証を授けました。その中には、海の事故で亡くなったマンナハイ学校の教師アナス・カバニさんとモハメッド・アルカナフェさんも含まれており、彼らの未亡人が出席して受領しました。アルカナフェさんの妻のルビさんは、ご主人の精神と使命を引き継ぎたいと発願しました」。
上人はこう言いました。「無常が目の前に現れ、二人の教師は不幸にも命を落としてしまいました。奥さんたちの悲しみは余りあるものでしょう。しかし、幸いにも慈済という大家族の中で、多くの人が愛を以て彼女たちに寄り添ってくれました。この愛こそがこの世で最も温かみのある情であり、この愛を捧げる人こそ仏教で言う『覚有情』なのです」。「『覚有情』は、見返りを求めない奉仕をして、あらゆる人を自分の肉親のように愛護し、大切にします。この敬虔な大愛は宗教を問いません」。
「台湾は慈済発祥の地です。この愛は台湾に始まり、小さな一粒の種のように、土と空気、水、日光を取り込み、この世に縁を結ぶことで芽を出すことができました。そして、時間の経過と共に一本の大樹に育ち、毎年花を咲かせて成果を収め、無量の種を作り出しています。しかし、全ての種が縁を結んで成長できるのでしょうか。もし水や土、日光、空気などの要素が種と出会わなければ、暫くすると、種の活力は消え、芽を出すことはできません。従って、私たちは縁を逃さず、全ての種からやがて無量の果実が実ることで、数えきれないほど多くの種を得られるのです」。
源が同じ「因」だからといって、同じような「果」をもたらすとは限りません。人の心や考え方は、それぞれ違うからです。上人によれば、もし同じ事に対して、誰もが自分の意見に執着すれば、元来は単純な事も複雑化してしまいます。地球の人口が増えるにつれ、人の心や思想は益々複雑になり、その上、欲に任せて地球を開発し、破壊し、環境汚染を引き起こしているため、地球は危機に直面しています。慈済が大衆の先頭に立って資源の回収を行い、回収物の再利用をすることは、地球環境の汚染と破壊を軽減する一つの方法です。
「衆生は果てしなく輪廻を繰り返しますが、私たちが輪廻させるべきは、善でしょうか、悪でしょうか。善と悪の違いは、習慣の違いから来るのです。同じような環境下でも、人はそれぞれに業(カルマ)を背負って、縁のある人たちと繋がりができます。肉親の情、友情、愛情等々、情は感覚的なものですが、どのような情で人々を愛すればよいのでしょう。菩薩は覚有情とも言われますが、無私の大愛を以て世の衆生を愛し、天下のあらゆる物を大切にします。善に向かって進みさえすれば、それは善の道と愛の道、人徳の道を歩んでいることになります。もし方向が間違っているか、認識がずれていたら、元来は良いことであっても、権力や利権争いに使われてしまい、非常に良くない結果をもたらします」。
「ですから、些細なことも軽んじてはなりません。一瞬の間違いは些細なことのように思えますが、善の念を起こせばこの世を利することができる一方、僅かに逸れたなら、この世に悪影響を与え、苦難をもたらします。この世の物事自体には善も悪もなく、それを使う人の見識と心の持ち様次第なのです。従って、宗教によって人々を導く必要があるのです。世の宗教にはそれぞれの名称がありますが、その主旨は皆、愛と善を向いており、人は元来、善良であると認めています」。
「たとえ宗教は違っても、進む方向が善に向かっていれば、感謝と尊重、愛の心で共に進み、この正しい道を歩んでいかなければなりません」。また、「凡夫の心は兎角お互いを区別し、排除し、利益のために争います。もし世の衆生が事理に明るく、規則を守り、皆で正しい方向に向かって歩めば、心は清らかになり、争うこともなく、平穏な日々を過ごすことができるのです。それが、この世の浄土なのです」。
(慈済月刊七〇四期より)
20名のシリア人ボランティアがトルコで認証を授かった。亡くなったアルカナフェさんとアナス・カバニさんという二人のボランティアの妻たち(左から一人目と二人目)は、夫たちの精神と使命を引き継いだ。(撮影・ムハンマド・ニムル・アルジャマル)


