アチェ州最大のバイトゥラフマン・グランドモスクの前に、静けさと安らぎが広がっている。人々はランプーク海岸を散策し、自然が織り成す美しい風景を楽しんでいる。
二十年前、この地が災害に見舞われた時の光景は、忘れられてはいない。人々は、今も大津波で無くなった家族や友人のために祈りを捧げると同時に、これは天から与えられた二度目のチャンスであり、力強く生き続けている。
インドネシア・スマトラ島のアチェ州ランプーク海岸は、 20年前の津波で壊滅的な被害を受けたが、現在は観光地として復興を遂げている。(撮影・アリマミ・スルヨ・アスモロ)
インドネシア・アチェ州のバンダ・アチェ市から約二十キロ離れたランプーク海岸は緑豊かな丘のふもとに広がり、青と緑のグラデーションが透き通る海の驚くほど美しい景色は、国内外の多くの観光客を惹きつけている。
ランプーク海岸は、二○○四年十二月二十六日の大津波の無言の証人である。当時、アチェ州海岸線に沿ったインド洋でマグニチュード9・1の巨大地震が発生し、大津波が陸地に向かって押し寄せた。巨大な波は住宅やホテルを破壊し、ランプーク村では、住民の半数が亡くなった。
津波後の数年間、心に傷を負った住民たちは一時期、再びこの海岸に近づこうとはしなかった。しかし、復興が進むにつれ、ランプーク海岸の観光業も徐々に回復した。そして近くのランプーロ村には、津波によって民家の屋根の上に打ち上げられた一艘の漁船が、バンダ・アチェ市政府によってそのまま保存されている。当時、激しい波の中を人々はこの漁船によじ登り、一切が収まるのをじっと待った。この漁船は、五十九人の命を救ったのだった。
アチェ州で十万人以上が命を落としたあの災害から二十年が経ち、そこは、今ではアチェの人々の不撓不屈の精神を象徴する場所となっている。
津波の衝撃で民家の屋根の上に打ち上げられた漁船。当時59人の命を救い、今は教育施設の一部となっている。(撮影・アリマミ・スルヨ・アスモロ)
津波発生から二日後に被災地に入った
二十年前、中国上海で家族と年末の休暇を過ごしていた慈済インドネシア支部の副執行長の郭再源(グォ・ザイユエン)さんは、花蓮本部の職員からの電話で、津波がアチェを襲ったことを知り、急遽ジャカルタに戻り、直ちにボランティアを招集して、各種支援物資を緊急に調達した。慈済インドネシア支部の執行長劉素美(リュウ・スゥメイ)さんはその時、台湾で両親と休暇を過ごしていたが、直ちにジャカルタに戻った。
朝から晩まで続いた緊急会議を経て、十二月二十八日には第一回の人員と物資が派遣されることとなり、午前四時、十一人のボランティアがジャカルタのハリム・ペルダナクスマ空港に集まった。そのうち三人は医者だった。飛行機の貨物室には食料、毛布、医薬品など十二トンの救援物資がいっぱい積み込まれていた。
それは津波発生から三日目のことである。アチェ州の通信網は完全に遮断され、大型旅客機も空港を離着陸できなかったため、郭さんは小型民間機フォッカーF50を手配して現地に向かった。アチェのスルタン・イスカンダル・ムダ空港に到着すると、悲痛に満ちた雰囲気を感じ、多くの被災者が素足で空港に向かって駆け寄ってくるのを目にした。「ある被災者は二日間何も食べておらず、自宅から半日かけて歩いてきたとのこと。理由を聞いてみると、反政府武装勢力がこの機に略奪を行うのではないかと恐れ、逃げてきたのだそうです」。
多くのアチェ住民が近隣のメダンへ避難したが、家族と離れ離れになってしまった人も多数いた。メダンの慈済ボランティアもすぐに動員され、救援ステーションの設置や物資配付の準備に取り掛かった。
津波が発生する直前、当時のスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領は、インドネシア最東端のパプア州ナビレで、一カ月前に起きた地震の救援活動の視察中だった。北西に位置するアチェ州で大災害が発生したことを知った大統領は、慈済の慈善活動を良く知る社会部のバフティアル・チャムシャ大臣と共に、直ちに現地に向かった。
当時の大統領専用機は、現在のように高性能ではなく、マカッサルとバタムで給油した後、アチェのロークスマウェに到着したのは夕方のことだった。町全体は破壊され、ヤシの木は一面に倒れ、亡くなった人々の遺体が至る所に見られた。翌日朝九時にバンダアチェへ飛んだが、飛行機の窓から見渡すと、町のインフラは破壊されて、廃墟となっていた。着陸後、チャムシャ大臣は慈済ボランティアのチームに会ったが、誰もが深刻な面持ちで、目の前の深刻な被災状況にどう対処すればよいかと戸惑っている様子だった。
「大統領閣下、私たちは今朝着きました。一部の救援物資はすでに倉庫に搬入され、その他の物資も準備中です」と郭さんが大統領に報告した。慈済は、まず被災者を収容するためのテント村を設置する予定だった。
「どれだけの住宅を建てる予定ですか」と大統領が尋ねたので、「千戸か二千戸であれば、建てる手伝いができます」と郭さんは誠意をもって答えた。
ボランティアたちは、大統領一行とバンダアチェの被災地を視察した。「途中で、突然車が止まったので、私たちも大統領に続いて車を降りました。近くの空き地に、たくさんの遺体が置かれてあったのです。大統領は、犠牲者のために祈りを捧げるよう、その場にいた全員に促しました。一分間の黙祷の後、私たちは次の場所へ向かいました。私は今でも、たくさんの遺体が道端に置かれていた光景を忘れることができません。あの場所で私たちは大自然の力を目の当たりにし、人間の力では対抗することができないことを痛感しました」と郭さんが語った。
数万人が命を落とした大津波発生から10日後、バンダアチェ市内には異臭が漂っていた。激しい波に押し流された一艘の漁船が、市中心部のホテルの前で止まっていた。(撮影・顏霖沼)
五年かけて住民の生活を再建
援助活動の初期、インドネシア慈済は三つの支援拠点を設置した。ジャカルタに対策本部を置き、メダンに物流センターを設け、バンダアチェで直接、物資の配付を行った。また、慈済はアチェの再建に向けて三段階の復興計画を策定した。短期的には救援と医療サービスを提供し、中期的には仮設テント村を設置して被災者が住む場所とし、そして長期的には三カ所に「大愛村」を建設するというものであった。その三カ所とは、パンテリー地区、ヌーフン地区、そして西アチェ県のムラボ市である。
多くの男性ボランティアたちは、初めて被災地に入り、住宅の中や海岸沿いから遺体を運び出した経験を思い出すそうだ。劉さんは、「師兄(男性ボランティアの呼称)たちは本当に大変でした。中にはジャカルタに戻ってきた後も、服に遺体のにおいが染みついていたと言う人もいました」と語った。彼女は、メダンとジャカルタのボランティアたちに心から感謝している。少なくとも五年もの間、アチェを訪れては住民に寄り添ってきた。「ジャカルタの李彬光(リー・ビングォン)師兄は大愛村建設の主要責任者で、アチェとジャカルタを六十回以上往復しました」。
また、師姉(女性ボランティアの呼称)たちは、炊き出しのために現地での滞在は数カ月にわたった。劉さんは当時を振り返り、「師姉たちの功績も大きいのです。師兄たちが前線で奔走していた時、その後方で三食の食事を支えていました。ある時、中国からきた救援チームが慈済ボランティアたちを見かけると、師姉たちに『長い間、お粥を食べていないので。作っていただけませんか?』と尋ねました。すると師姉たちは、もちろんですと答え、『ご飯を食べたい時は、いつでも来てください』と言い添えました」。
なぜ、慈済は五年もアチェに寄り添って来たのか。劉さんは、「大愛村を建設し、住民は既に入居しましたが、コミュニティの管理も指導し、彼らが自立できるようにしたのです。また、土地の権利証の手続きも手伝って、政府から各世帯の住民に引き渡されたのです。これらのプロセスには長い時間が必要でした」と説明した。
慈済の医療チームも、被災地で施療を実施した。多くの外部団体は現地の文化習慣を理解しておらず、最終的にいくつかの国の医療チームはそのまま薬を慈済に託した。「アチェの住民はイスラム教を信仰しており、皆保守的です。慈済人医会(慈済の医療ボランティアチーム)の医師にはムスリムの人が多く、また、薬の説明もインドネシア語で行うので、現地の人々には受け入れ易かったのです」。
慈済は、津波で被災した人々のために3つの大愛村を建設した。最も規模が大きい大愛村は、西アチェのムラボ市にあり、約1100世帯が入居している。3つの大愛村を合わせると約2700世帯で、住民の資格審査、建設、引き渡し及び入居といった一連のプロセスには4年以上の歳月を要した。(撮影・アリマミ・スルヨ・アスモロ)
大愛住宅は一戸あたり約36坪の広さで、リビングルームと寝室2部屋、キッチン、バスルームが備えられている。さらに表と裏には庭があり、住民が緑を植えることができ、緑豊かな環境となっている。(撮影・顏霖沼)
災害から思いかけず得られた平和
二○○三年に慈済インドネシアは、全国で五万トンの米を配付した。その配付地域の一つがアチェだった。当時、反政府武装勢力が「自由アチェ運動」を展開して、社会情勢が不安定となり、慈済の配付は容易ではなかった。劉さんは、「反政府武装勢力は慈済が現地の人々を助けるために来たことを知り、協力してくれました。慈済の車列を見かけると、安全に通過させてくれたのです」と語った。
二○○五年末にパンテリー大愛村が完成し、その住民の中には被災した反政府武装勢力の者もいた。劉さんは力強く言った。「被災者がいる限り、私たちは手を差し伸べるべきです。今、大愛村では反政府武装勢力と住民たちとの間には、もう対立や衝突はありません。とてもよい縁なのです」。
かつて「自由アチェ運動」の司令官だったムザキール・マナフさんは、津波で七人の家族を亡くした。彼は慈済の大愛を目の当たりにし、「もし誰かが私たちを真心で助けてくれるならば、私たちは真摯に感謝すべきであり、それを妨害してはなりません。とにかく、私たちは慈済がアチェに来てくれたことにとても感謝しています」と語った。
アチェ州代理知事のサフリザルさんは、津波の前からアチェは長年にわたり紛争状態にあり、この津波がアチェと世界に、平和こそが最良の道であることを気づかせてくれたと述べた。「二○○五年八月十五日、インドネシア政府と『自由アチェ運動』がヘルシンキ和平合意に署名したことは、一番の証と言えます。アチェの人々は、災いが転じて福を得たと言えるかもしれません」。
またサフリザルさんは、津波から二十年が経った今もなお、アチェの住民たちの心の奥深くに複雑な感情を抱いていると言った。「災害による悲しみは依然として存在しており、犠牲となった肉親を思い出すと、今も思わず涙がこぼれるそうです。この傷は永遠に癒されることはないのかもしれません」。
当時、世界六十の国と地域から数百の団体が、その難関を乗り越えられるようにと支援にやって来た。アチェの人々にとって、忘れることができない出来事である。「私たちは非常に感動し、慈済がアチェの人々に寄せてくれた愛と関心に、心より感謝しています。津波が発生した時、情勢がまだ不安定で、多くの団体はアチェに入ることを躊躇していましたが、慈済は真っ先に、見返りを求めず、手を差し伸べてくれた団体でした」。
慈済は、駆けつけたことで、人道精神があらゆる隔たりを超えたことを意味した。サフリザルさんが最も印象深かったのは、慈済が住宅というハード面を提供したのみならず、愛のこもった形で支援を行ったことである。「慈済が建てた住宅は、最高の建材を使い、高い耐震基準に合致するよう設計されており、住民の住み心地も十分に考慮されていました」。
2006年にパンテリー大愛村に入居したリナ・グスティアナさん(右端)は、現在は慈済ボランティアだ。チャリティー販売に地域住民と一緒に参加している。
メダンのボランティアが善の循環をもたらした
メダンはアチェから百キロ以上離れているが、慈済ボランティアは訪問を続け、配付活動、施療、環境保護の推進、ボランティア研修などを行った。メダンのベテランボランティア、楊樹清(ヤン・スゥーチン)さんは、「アチェ慈済ボランティアの最初の種子である彭文窗(ポン・ウェンツワォン)さんの献身と寄り添いの姿勢に、とても感銘を受けました。大津波の数日後、彼はジャカルタから駆け付け、現地で愛を募る活動を続けていました。私がアチェに来た時には、すでにそれら愛の種が芽を出していたので、付き添いの過程で、少し肥料を与え、彼らを日の当たる場所に導くだけで、立派に成長するのです」。
現在、アチェには百五十人以上の慈済ボランティアがいて、バンダアチェ市、ヌーフン地区、ムラボ市、ロークスマウェ市など、十の地域を網羅している。津波後にアチェに定住した彭さんは、すべての地域に慈済ボランティアがいて、災害時にすぐ駆け付けて支援できることを願っている。
リナ・グスティアナさんは、十三歳の時に津波に遭遇した。三十メートルもの黒い巨大な波が建物や車の残骸を巻き込みながら押し寄せ、彼女は家族と避難中に離れ離れになった。善意ある人々の助けで、冠水地帯を越え、遺体の間を通り抜け、最終的に民間テレビ局前のテントで家族と再会できたことに感謝している。
二○○六年、彼らはパンテリー大愛村に引っ越し、今に至っている。リナさんは普段、子どもたちにコーラン経を教えており、次世代に良い品格を育む責任があると考えている。また、夫と共に脳卒中の高齢者の世話にも尽力している。二○二四年四月には慈済ボランティアとなり、地域の家庭を一軒一軒訪ねて募金集めをして、住民が共に善行することを呼びかけている。
同じくパンテリー大愛村に住む廖賜泳(リャオ・スーヨン)さんは、今年二十六歳だが、当時、一家で或るホテルの五階に上って避難し、木材やトタン板など様々な雑物を巻き込んだ黒い津波から逃れることができた。水が引いた後、或る寺院に避難したが、祖父母と叔父、叔母を亡くした。
廖さんの父親はラジエーターの溶接で生計を立て、母は仕立屋だった。二○○六年、慈済が公園や学校、礼拝堂を備えたコミュニティに、安心して住める家を提供してくれた。慈済ボランティアのケアは細やかで、教育のことも考慮してくれた。廖さんは、「二○一○年から二○一六年まで慈済の奨学生として、中学と高校を無事に卒業することができました」と言った。
二○一四年、廖さんの父が病で亡くなり、彼は毎日、母と自分のために祈った。数年間の低迷期を経験した後、立ち直った。「低迷期から抜け出せたのは、多くの人の愛があったからです。特にお寺の友人や慈済の師兄・師姉たちの支えでした」と振り返った。
二○二二年、廖さんはボランティアに加わった。週に一日しか休みはないが、その時間を有効に使って、慈済の活動に参加している。「慈済では学ぶ機会がたくさんあり、翻訳、記録、事務作業など様々な仕事を通して、自分の異なった潜在能力を引き出し、毎回が新しい体験なのです」。
恐怖心から感謝と恩返しの気持ちに変わった
二十年が経ち、大愛村の住民の多くは、慈済が建てた住宅を当時のまま大切に使い、良好な状態を維持している。これは建材の質の高さを物語っている。一方で、経済状況が改善した一部の家庭では、二階建てに増築したり、店舗に改装して商売を始めたりする様子も見られる。
ヌーフン大愛村区長のアルフィアンさんは、津波で妻を亡くした。「当時から今に至るまで、慈済は私たちのコミュニティをずっと気にかけてくれました。私たちも人助けをして恩返しすべきだと思います」。彼が慈済ボランティアになったのは、その恩に報いるためだった。
住民のスリ・ワユニさんは、バンダアチェ市の環境局で臨時職員として働きながら、慈済ボランティアとしても活動している。自宅の一部を慈済の活動スペースとして提供し、定期的に献血活動やケア世帯への物資配付を行っている。また、米貯金を奨励し、各家庭が日々、節約した一握りの米を困っている近隣住民に寄付している。
「津波の時、弟と一緒にモスクのドームの上まで登って難を逃れました。その夜、やっと夫と再会できました。あの日はまるで世界の終わりのように思え、二十年が経った今でも、海を見るたびにあの恐怖が蘇ります。モスクの前を通り過ぎる時もいつも、あの時の体験を思い出します」。今では恐怖心も感謝の心に変わったと語るスリさんは、モスクに避難して生き延びることができたことと、天からもう一度命を与えられたことに感謝している。
「真っ先にアチェの人々を助けてくれたのが慈済でした。ゼロから今に至るまで、私たちに寄り添ってくれました。他の団体は一度支援をして終わりでしたが、慈済は住まいを提供してくれただけでなく、その後の生活までずっと見守ってくれました。このことは、私の心に深く刻まれています」。今も津波で亡くなった方々のために祈り続けている。「彼らが安らかに眠れますように」。そしてもっと重要なのは、呼吸をするたびにその瞬間を大切にし、毎日を前向きに生きることだ!
(慈済月刊七〇一期より)


