善行に尽くす社長 病院用ベッドを担ぐ

元はバリバリの営業マンだったが、今はリサイクル福祉用具を配送する「お節介」ボランティアである。「お客様」はケア世帯で、「彼らの笑顔を見るために、一所懸命やらないといけない!」と言った。

小型トラックをゆっくりと走らせながら、運転に集中する謝國榮(シャ・グォロン)さんは、若い時に営業をしていた時に、あちこちにいるお客さんを訪ねるために身につけた「道探しの技」を発揮し、GPSを使わなくても、街のあらゆる路地を自由自在に行き来できる。

「もしもし、福祉用具を申請したいのですか?あとで、オンライン申請書を送ります。少し待っていて下さい!」一台のスマホとトラック一台が彼の移動オフィスである。毎日、リサイクル福祉用具を回収したり、届けるだけで忙しい日々を送っている。午前中だけで何度も携帯が鳴り、一旦出かけると、帰宅はいつも夜になり、その翌日早朝には告別式や助念に出かけることもある。

六十五歳の謝さんは高齢者の仲間入りをしたばかりだが、平日は自分の仕事の合間に、ボランティア活動に情熱を注いでいる。年齢では「年寄り」にあたるが、しっかりした足取りと元気いっぱいな様子から、全く年齢を感じさせない。元会社社長が、今は全く違う「お客様」と向き合っている。

謝國榮さんはトラックから病院用電動ベッドと車椅子を下ろした。一日も早く貧困世帯の負担が軽くなればと願いながら。(撮影・蕭耀華)

暮らしの改善 小さな営業マンの願い

貧しい家庭に生まれた謝さんは、十人兄弟の中で育った。幼少期で一番印象に残っているのは、「お腹を空かし、冬に寒さを凌ぐ服がない」ことであった。退役後は、家の暮らしを改善しようと、セールスの仕事を始め、高価な事務機器を販売した。当時、受けた訓練のことを笑いながらこう話した。「店に来たお客さんにポケットのお金を使ってもらえるまでは帰らせないというもので、いわば売り場の『殺し屋』を養成するようなものでした」。

謝さんは事業に打ち込み、学びと成長を怠らず、自分の力で短期間に管理職の座に就いた。どのように売り込むかを覚えた後は、建設会社に職を変え、営業部長にまで上り詰め、一人で十数件の建設案件を任される能力を持つまでになった。

子供の頃の願いは「商売をして家庭環境を改善すること」で、充分な経験を積んだ後、彼は会社を辞めて起業した。水道、電気、木工、塗装などの工事をする人材を育て、お客様との商談から施工の監督まで励み、あらゆる事を自分でこなした。

「内装の仕事は思っている以上に難しいのです。例えば、クーラーの配管をどのように配置すれば美観も損なわないか?です。とても大事なことです」。細かいところまで見逃すことなく、良いものを作るために、時には損をすることがあっても構わず、品質にこだわり続けた。彼は冗談混じりに、「自分はこんな性格だから、あまり儲かりませんでした」と言った。

一介の営業マンから営業販売部のマネージャー、そして会社の社長になった彼は、商売を通じて多くの人と関わり、客の要望を上手く聞き出して、それを業績に繋げていった。しかし、貧しい家庭に育ったことから、常に人助けをすることことを忘れず、積極的に慈善活動に参加するようになった。

「九二一地震の時、初めて身近に『慈済』という慈善団体と触れ合う機会に出会いました。当時、多くの地域の人が、慈済ボランティアを深く信頼していたことに気づきました」。慈善団体と一緒に被害の大きかった中部の被災地に向かった。謝さんはボランティアが霧峰地区で被災者のために仮設住宅を建てているのを目にして、自分がやってきた建築の仕事を活かして被災者を支援することができればと思い、自分から慈済台北支部に連絡を取り、そこから慈済との縁が始まった。

「慈済に入ってから、最初に参加したのが医療ボランティアです。一回で平均して三〜四日、最も多い時で年に二十七回参加しました」。医療ボランティアを始めた時のことを振り返り、「オンライン予約」システムはすでに導入されて久しかったが、多くのお年寄りにとって操作はやはり難しく、「朝の四時、五時頃から、カウンターで予約するために、病院の外で待っているお年寄りたちがいました」。このような状況に遭遇した時、謝さんは根気よく一人ずつお年寄りの予約の手伝いをした。彼は仕事で培った忍耐と気配りを慈善活動に取り入れ、相手のニーズに合わせて、より適切で的確な人助けをした。

二〇二〇年、政府が慈済と協力して進めた多元的就職方案において、謝さんは木工部門の指導を任された。定期的に花蓮の加湾部落を訪れ、部落の若い人たちが木工を学ぶのを手伝った。例えば、椅子、ベンチ、棚など簡単な家具造りから始め、部落の人たちが手に職をつける手伝いをし、そこから彼らが安定した仕事を見つけられることを願った。彼は花蓮までの往復を苦に思わなかった。

謝國榮さんは、花蓮加湾部落の青年に木製家具の作り方を教えているが、手に職をつけられるよう願っている。(撮影・呉金圳)

善行プラットフォーム 行動すれば、感動がある

「ある時、支援を求めていた人から電話が入り、あまりに急いでいたので、バックして駐車する時、後ろを柱にぶつけたことがあります」。謝さんは気まずそうに笑いながら、「恥ずかしい体験」を話してくれた。その様子から、どんなことでも自分にできることはまっすぐにやり遂げる人だということが分かる。

中年になってからボランティアに参加するようになった彼だが、その積極さは若い時のセールスでの意気込みと変わらない。「福祉用具の回収と配送はもう十五年も続けています!」二〇〇六年、彼は、ある慈済ボランティアが古いトラックに老いた母親を乗せて、申請者の元に病院用ベッドなどの福祉用具を届けているのを見てとても感動し、心の中で「自分も病院用ベッドを運ぼう」と思った。

その年から、リサイクル福祉用具を必要としている家庭に届けることを自分の役目としてきた。過去の輝かしい実績と面子へのこだわりで、輸入車や有名ブランド腕時計などで自分の身を固めていた彼が、地域の訪問ケア、人医会の施療、福祉用具の搬送などの過程で、生と死や出会いと離別を目にしたことで、車を小型トラックに変えた。今ではペンキの剥がれた古いトラックは、空で福祉用具を取りに行くか、消毒して修理された福祉用具を満載して、何年も各地を走り回って来た。一番長い距離を移動したのは、台北から屏東に行った時だった。

自分の名前の中国語の発音が、一九七〇年代の有名なアニメ「マジンガーZ」の台湾版の主役「国隆(グオロン)」と似ていることから、あるボランティアが冗談混じりで、謝さんはまるでマジンガーZのようで、体力もボランティア精神も無敵だから、と言ったことがある。「一度やると決めたら、ちゃんとやりたい、というのが私の性格です」。

「慈済は、『善行するプラットフォーム』のようなもので、多くの人を助ける機会を与えてくれています」と謝さんは言う。このように実際に行動して、奉仕する機会があるからこそ、やればやるほど投入するようになったのだそうだ。彼は自嘲気味に、「自分はどちらかというと『お節介』ですから、自分の出来る範囲内で、より人助けができればと思っています」と言った。
  
今の彼は、建設現場に足を運んで工事の進み具合や品質のチェックをする以外に、時間を見つけて助念に参加したり、花蓮に行って木工クラスを教えたりしている。しかし、一番時間を費やしているのは、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームの仕事である。

二〇一七年を皮切りに、慈済のリサイクル福祉用具プラットフォームが各地で立ち上げられ、申請の受理、修理、配送は全てボランティアが担っているが、需要がますます増えるにつれ、ボランティアは申請者たちを待たせたくない気持ちで、申請書が届くと直ちに連絡を取って、車で回収や配送をするようにしている。たとえ、自分の仕事が忙しくても、謝さんは自分で福祉用具を申請者に届けることをモットーにしている。なぜなら、リサイクルした用具を再使用すれば、経済的に余裕のない人たちの負担を減らすことができると共に環境にも優しいことを知っているからだ。

「もっと大事なのは、プラットフォームを通して慈済の温もりを届けることです」。申請者が福祉用具を受け取った時、心から感謝する。その温かいやりとりを見ていると、その全ては、ボランティアがやり続ける強力な支えになっていることが分かる。

妻と家族に感謝 長い道のりでも前に進める

長年、リサイクル福祉用具の流通に携わって来たが、近年ようやく多くの人に認識されたり、注目されるようになった。謝さんは、もっと精を出さないといけない、と言った。

毎日早朝に出かけ、夜遅くに帰ってくるが、スケジュールは事業と志業の双方をこなすことができるように調整している。「妻はもちろん、私が外で忙しすぎることを望まず、家でもっと一緒にいて欲しいと言います」。自分がいつも外を掛け回り、妻一人に家庭を任せっきりにしていることと、妻と娘が自分のハードなスケジュールを心配してくれていることに対して、反省している。「ただ、後悔はしていません。理由は、自分が何をしているかはっきり分かっているからです。家族の支えに感謝しています」。彼は重たい病院用ベッドを担ぎ、再びトラックを走らせた。

商売上での騙し合いへの警戒心を捨て、以前の高度な営業スキルを活かして、人々のニーズを理解して支援するのは、本当のマジンガーZにはなれないかもしれないが、優しい「お節介」な気持ちから慈善に投入し、使命をやり遂げる精神は今でも、「無敵」である。


(慈済月刊六五二期より)

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