あなたが居てくれて良かった

この道にあなたたちが居てくれて感謝しています。 これによって、この世にこんなにも多くの善行が為され、また皆さんの生命にも価値をもたらしているのです。

福の中の福人、善の中の善人

九月二十四日、フイリピンの慈済人がオンラインでグレートマニラ地区とボホール島、ザンボアンガ市、オルモック市で行った貧困世帯に対する慈善配付活動について報告しました。ボランティアは「ジプニー」運転手の失業問題を報告しましたが、上人は、先日の新聞で読んだ記事を思い出しました。それは、タイ・バンコクのタクシー運転手たちがコロナ禍で失業し、生計を立てるためにあらゆる方法を考えた結果、タクシーの屋根の上に野菜を植える、というものでした。

「世界にはお腹いっぱいに食事することができない人がとても多いため、私は毎日、食事する時には必ず心から感謝します。今、オンラインで参加している人たちは皆、福の中の『福人』です。私たちが他人を支援できるということは、支援を受ける人よりも幸せだからです。ミャンマーの農民のように清貧な生活をしていても、彼らは毎日、一握りの米を米貯金しています。皆が貯金した米を持ち寄れば、数多くのより貧しい人を助けることができるのです」。

上人は、「人助けする」善意の念さえ起こせば、助けを必要としている人を支援する行動に出ることができる、と言っています。つまり、人々がそのような心を持ち、その力を寄せ集めれば、この世で飢餓に苦しんでいる人を助けることができるのです。「弟子たちの人助けをする過程や愛の心を募る感動的な話を聞いて、師父としてとても嬉しく思いました。というのも、師父が日頃から言っていることを皆が心に聞き入れて実践している上に、大衆に対して実践した後の感想を分かち合っているからです。また、師弟が同じ心と志、そして共通した慧命を持っていることをつくづく感じました。人それぞれ異なった人生環境があっても、慈済人には共通の心の境地と願力があり、その精神と願力は『愛』から来ているのです」。

「この道にあなたたち皆が居ることに感謝しています。こんなに多くの人が心を一つにしているからこそ、慈済がこれほど多く世を利することができ、また、私たち自身の生命の価値を成就させているのです」。慈済が人間(じんかん)で奉仕して来た力は少しずつ集まったものであり、水滴が河となるように、衆生を潤すようになったものです。今、世界には飢餓に直面している人は非常に多く、慈済人の力だけでは焼け石に水で、その力は弱すぎます。従って、途切れることなく人間(じんかん)菩薩を募って、一人ひとりが善行するよう誘わなければなりません。毎日、少しでも節約できれば、大勢の力と合流して人助けができ、少しでも多く善意を施せば、それだけ多く人助けができるのです。

フィリピンの多くのトラック運転手はコロナ禍で生活に影響を受け、慈済フィリピン支部はケソン市で400人余りの運転手に米と物資を配付した。(攝影・ ジャマカ・ディゴ)

上人は、蔡青山(ツァイ・チンシャン)師兄が頻繁にボホール島で住民に関心を寄せ、ボランティアを導いていることに感謝しました。もし、慈済が一方的に配付ばかりしていたとしたら、その力には限りがあります。それよりも、現地の人が互いに助け合うよう励ませば、貧しい人も貧しい人を助けることができ、そうすれば、人心を落ち着かせることができます。また、貧しい人々に野菜や瓜、果物の栽培方法を教えるのです。勤勉で真面目に働く気さえあれば、生活は安定します。しかし、高齢者や病人、障害者に対しては、愛でケアしなければなりません。従って、現地の企業家と住民を励まして愛の力を発揮させ、多くの奉仕を求めるのではなく、皆に発心を呼びかけて善に向かうよう導くのです。善があれば福が訪れ、災害は少なくなります。

「人間(じんかん)にはこんなにも苦難が多く、その苦難を翻すのはとても重い負担です。しかし、やはり自信を持って、絶えず大衆が発心立願し、共にその重責を担うよう導かなければなりません。福を造る人が多ければ多いほど、福の力は大きくなり、災害を減らすことができるのです。さもなければ、人類の欲は益々大きく膨らみ、業力もどんどん重くなって、人口の増加と共に、想像を絶するような結果をもたらします」。

「ですから今、人々を菜食に導いて、地球の負担を減らし、これ以上牧畜業者が飼育している家畜を増やしてはなりません。また、一人ひとりの愛と善意を啓発しなければならず、生活に支障がなければ、足ることを知って感謝すると同時に布施すべきです」。上人によれば、生活が裕福で愛に富んでいる人は「福の中の福人」ですが、生活が裕福でなくても、足ることを知っていて、いつも楽しく、また、喜んで布施する人が「善の中の善人」なのです。慈済人は人々を「福の中の福人」と「善の中の善人」に導かなければいけません。

「皆が一層尽力し、私自身も頑張らなければなりません。生命は一分一秒と消えていきますが、それを輝かせることが大事です。蝋燭のように、その価値を発揮させるためには、火を付ける必要があります。暗いところを照らす時、一本から数多くの蝋燭に灯すことができ、益々広い範囲を明るく照らすことができるのです」。上人と大衆が共に人々の命の光を啓発すれば、社会に善と福が訪れ、善と福は気流となって、保護膜のように、この世の平安を守ることができるのです。


(慈済月刊六六〇期より)

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