ドイツ西部の水害 キッチンカーで復旧を応援

ヨーロッパ各国の作業員がドイツの水害被災地に入り、先の長い復旧工事を支援した。慈済ボランティアはキッチンカーで彼らに食事を提供し、中華式の麺やご飯のメニューで彼らのお腹を満たし、いつもと違うコックが来て料理を美味しく調理したため、マイスターも満足して一括注文した。また住民もガスや水道の復旧を待つ間、温かい食事を摂ることができた。みんな毎日楽しみにしていたのだ—「今日のメニューは何だろう?」

朝八時にオーストリアの国境を越えてドイツへ入った私たちは陳樹微(チェン・シューウェイ)師姐(女性ボランティア)と合流し、私が九人乗りの小型バスを運転して、ドイツ西部の主要都市、ケルンに向かって出発した。一時間余り後にミュンヘン市に入る前から渋滞し始め、ノロノロ運転になり、午後になって、ドナウ河畔のウルムで昼食をとった。そのあと三百キロ余り走って夜になると、ようやくケルンに着いた。この日は一日で十二時間、約千キロ運転したので、少し自己満足感に浸っていた。まだまだ自分は衰えていない!

翌日の十時半、陳樹微師姐がヴァイラースヴィスト市の社会福祉人員と連絡をとり、一軒のレストランで落ち合うことになった。その女性は、ドイツ各都市とオーストリアから来た私たちに、半月前に起きた水害について話してくれた。

七月十四日から雨が降り始め、次の日の朝方になって突然大洪水になった。その水の勢いは、まるでダムの放流のようで、地勢が低い場所にある家々は瞬く間に浸水し、住民は心の準備をする間もなく、洪水は地域全体にわたって農地、道路、樹木、堤防、車…を押し流した。

街の中心を流れる小さな川が洪水の猛威を振るった。道路のアスファルトを削り取り、家々の壁をもぎとった。家の外観は変わっていなくても、浸水した基礎部分のコンクリートは脆くなり、居住には適さなくなった。(撮影・劉晃汶)

その後、私たちは幾日も被害が甚大な地域を視察し、バート・ノイェンアールやアールヴァイラ、バート・ミュンスターアインフェル等の町を回った。そこで目にした災害後の惨状は、言葉で形容できないほどだった。水の勢いは、河川の両側にある街道を覆い尽くし、家が基礎部分から流されてしまったため、大きな穴が開き、電線、ガス管、水道管の全てが露出していた。商店街は無残にも歩道が泥まみれになり、店は内外共に破壊されてしまった。また、容赦ない洪水は、小さな橋すら見逃さずに破壊した。跡形もなく破壊されてしまった何軒かの家を目の当たりにして、住民は無事に逃げたのだろうかと不安になった。

多くの家は歴史的建築物一覧に載っていて、二、三百年の歴史があるが、建材は現代のように頑丈ではなく、セメントというよりも、土と藁をこねたものでできた壁などは、洪水で溶けてしまった。石膏ボードの壁も洪水の侵食には耐えられず、天井も一緒に落ちてしまっていた。

最も心を痛めたのは、ジンツィッヒにある二十八名のお年寄りと身障者をケアしていた健康センターが被災したことである。洪水の勢いが増した夜、救助隊員は先ず十六名の住民を安全な場所に避難させたが、再びそこに戻った時、すでに目の前で激しく水が流れ、水位は二階の高さまで上り、残りの十二名の住民は逃げ後れてしまった。

あの数日の視察から、すでに半月が経っていたが、道中、空に鳥が飛んでいるのを見たことはなく、草地にも野生の小動物を見かけなかった。その様子から、当時の雨足がどれほど恐ろしいものだったかが想像できよう。

慈済のキッチンカーはバートミュンスターアイフェル市の市政府広場に停車し、ボランティアが車の外に「今日のメニュー」を書いた小さな黒板を置いて、毎日100から500食を提供した。(写真の提供・林美鳳)

さようならを言うのが名残惜しい

被害が大きかった地域では水道、電気、ガス管のどれもが破損していて、住民は三食を作ることもできなかったため、支援者団体がキッチンカーを出して、ドイツソーセージやフライドポテトを提供していた。被災者と作業員はすでに二週間も同じ食べ物を口にし続けていたので、八月四日、私たちがバートミュンスターアイフェル市を訪れた時、ザビーネ市長が慈済にそれまでと異なる昼食を提供してもらえないかと提案した。

八月六日午前中、災害視察を終えて帰る途中にフランクフルト市を通った時、樹微師姐がケルン市にある特殊用途の自動車工場と連絡が取れたというので、私たちは直ちにケルン市に引き返し、その工場へ移動式キッチンカーを見に行き、その場でリースすることを決めた。

そのキッチンカーには、コンロが四つ、シンク、冷蔵庫、オーブン、換気扇、作業台などが全て揃っていた。八月十二日、ボランティアが再びバートミュンスターアイフェル市に向かった。キッチンカーの性能を十分に理解した後、八月十三日、初めてキッチンカーで食事を提供することになり、ドイツに住んでいる三人のシェフ級のボランティア、楊文村(ヤン・ウェンツン)師兄(シーシオン)、林森喜(リン・センシー)師兄、謬連煌(ミウ・リエンホワン)師兄が調理を担当して、二百食の菜食焼きそばを提供した。

ドイツ政府は規定を緩めたので屋外でマスクを着用する必要がなくなった。各国から来た作業員は、被災地で温かい食事をとれることに感謝し、慈済が広めている菜食は地球にとって有益だと賛同した。(写真提供・林美鳳)

ドイツ各都市やオーストリア、オランダからボランティアが交代で手伝いに来てくれたので、住民もバリエーションのある料理に新鮮さを覚えたそうだ。八月二十一日、オーストリア・ウィーンのボランティアチームは劉建国(リウ・ジエングオ)師兄を先頭に、各種調理器具と調味料、米とパスタを携えて出発した。食事を提供する前、キッチンカーの前にある自転車置き場と市役所前の長テーブルや椅子を臨時に置く場所を綺麗に掃除したので、清潔感あふれる環境になったと良い評判をもらった。

住民は慈済の菜食を絶賛し、鍋を持参して昼食用に持ち帰る人もいた。食事を提供していた時間はまるで小さな食事会のようで、とても賑わった。この食事提供サービスは九月十一日に最終日を迎えた。私たちがキッチンカーでそこを離れる時、多くの人は名残惜しく思い、慈済の美味しい昼食やあの和気藹々とした雰囲気を忘れることができなかったそうだ。最後にコンロの火を消したのが私でなくて良かった。なぜなら、彼らの悲しむ表情を見るのは辛かったからだ。災害後の復旧作業は、二年もかかると予想されている。さようなら、友よ!また会う機会まで。

7月中旬

• 豪雨が西欧諸国を襲い、ドイツ、ベルギー、オランダは極端な降雨量を記録した。24時間に現地の平年の1カ月分を超える雨が降った。

•ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州とラインラント・プフェルツ州は河川が氾濫して町に浸水し、土石流で建物が倒壊し、死者170人余り、避難した人が数万人に上った。ドイツ気象庁は「世紀の大水害」と発表した。

8月3日〜5日

•ドイツ・ハンブルク、ミュンヘン、フランクフルトとオーストリア慈済人は西部の大都市ケルンで合流し、多くの被災地を視察して、ノルトライン・ヴェストファーレン州のバートミュンスターアイフェル市を重点ケア区域に定めた。

8月13日〜9月11日

•ケルン南方のバートミュンスターアイフェル市は、古城のある風光明媚な歴史ある街だ。人口は約1万7千人で、住民の生活は観光業と小規模の家内工業が主だが、洪水は家屋と経済活動を破壊し、推計で2千5百世帯が被災した。市長によると、今回の水害は第二次世界大戦以来最も深刻な被害をもたらしたそうだ。

•軍隊、エンジニアチーム、民間団体が被災地に駐屯して復旧に協力した。簡単な食事だがボランティアが炊き出しをして人々に寄り添い、励ました。

•ボランティアはドイツのハンブルク、ミュンヘン、フランクフルト、ケルン、そしてオーストリア、オランダから、合計延べ3030人を動員した。

•提供された食事:10021食。

年を重ねても、幸せを感じる

文/游月英(オーストリア慈済ボランティア)

一年半以上になるコロナ禍で、ヨーロッパ慈済人の活動は止まってしまい、今年の七月上旬に、ようやく再度セルビア難民キャンプへケアに行くことができた。嬉しかったのは、夫の劉晃汶(リウ・ホワンウエン)師兄も同行し、ヨーロッパ慈済所属の車の運転を担当してくれたことである。七月中旬、ドイツは百年に一度と言われる水害に見舞われ、私たちは再び被害視察を行った。

八月初め、ミュンヘンからグラサウに向かい、陳樹微師姐と合流して四日間の視察活動を行ったが、心を大きく揺さぶられた。そこでは證厳法師が口を酸っぱくして言っている「時間がない、時間がない…」という言葉が思い起こされた。

被災地は断水と停電が続いていたので、チームはまず温かい食事を提供し、被災者と復旧作業員の心身を温めることを最優先にした。そして、素早く行動に移して帰路にはキッチンカーを選定し、ウィーンに帰った三日目には、陳師姐と共にキッチンカーをリースしに行った。劉師兄は迷うことなく運転を引き受けてくれた。

劉師兄の以前の職業は、船の機械エンジニアだ。キッチンカーを運転するのは初めてだったが、すぐに使用方法を習得した。一回目の炊き出しを担ったハンブルクの三人の師兄に、キッチンカーの機能と使用方法、注意事項を伝え、全ての手はずを整えた後でウィーンへ戻り、炊き出しをしてくれるボランティアを募った。その時コロナ禍で外出できないという返事が大部分だった。

ボランティアがいなかったらどうすればいいのかと焦っていたところ、一本の電話が入った。それは、劉建國師兄が一緒にシェフとして参加し、陳秀花(チェン・シウホア)師姐が調理補助をしてくれる、という連絡だった。私は安心して、応募リストにオーストリアが二回目を担当する、と記入した。

八月二十二日から一週間、私たちは毎日異なる菜食料理を提供した。以前中華料理のレストランを開いたことがある私たちからすれば、外国人が好む味は分かっており、中華風焼きそばにもやしサラダ、キムチ、トマトの卵炒めにガルバンゾを加えたものなど、タンパク質、カルシム等の栄養に気を配った。多くの人が食事を取りに来て、毎日五百食以上も提供した。オーストリアからの五人のボランティアは疲れ切っていたが、住民と作業員たちがみな親指を立てているのを見ると、疲れは吹き飛んだ。

八月二十九日、ハンブルクのボランティアが三回目を担当することになったので、私はそこに残ってサポートした。その後、九月十一日に終了して十三日にウィーンに戻った。

「前例のない」今回のキッチンカーによる炊き出しに参加でき、高齢ながら私はとても幸せだった。八月初旬から九月の半ばまで、千キロの道のりを六回往復して二十三日間、炊き出しを担当した。毎朝七時過ぎからスーパーで必要なものを買うと、急いで食材をキッチンカーに持って行って準備し、八〜九時間立ち続けた。四十六人分の大きな電気鍋で、オーストリアボランティアが担当した週は毎日七から八回、ご飯を炊いた。十一回炊いた日もあった。チームの中で私が一番年長だが、体力はほかの師兄師姐の誰にも負けない。奉仕できる体力があることに感謝している。人生は無常なゆえに、片時も無駄にはできない。そして私を愛し、この輝かしい菩薩道を歩むことを優しく見守ってくれる家族に感謝している。


(慈済月刊六五九期より)