ハイチのコロナ禍は深刻だ。輸入ワクチンは限られた数しかなく、伝染病予防に関する住民の認識も低い。災害支援に立ち塞がる感染防止という難題を克服する必要がある。
もう一つの難題である、軍や警察でさえ抑え切れられないギャングという問題は、困難を極める。ボランティアは、輸送中の強奪から支援物資を守るためにギャングの封鎖した道路を避けて遠回りしただけでなく、深夜に被災地に到着して、翌日の配付準備をしなければならなかった。
二〇二一年の夏、南北アメリカとアジアでコロナ禍が依然として猛威を振るっていた中、世界を震撼させる天災や人災が起きた。カリブ海の島国ハイチの大統領が、七月七日に暗殺されたのである。政局が動乱する中、八月十四日にマグニチュード七・二の地震が発生し、死者二千人余り、損壊した家屋は約十三万軒、緊急支援を必要とする被災者は六十五万人に上った。
続いて八月十五日、アフガニスタンの首都カブールで、過激派組織タリバンが政権を奪い、政治の流れが大きく変わって大勢の人が国外に逃れた。この事件は世界の関心を集め、ハイチ震災は国際的な焦点から外れた。
しかし、慈済は、被災地で支援を待っているハイチ人を見捨てることなく、地震発生直後から現地調査と支援活動を行った。慈済アメリカ支部災害支援ケアチームは、九月一日に首都ポルトープランスに到着し、協力関係にあるオーシャン・エンジニアリング社(OECC)園区に入り、同社に勤務している慈済ボランティアの張永忠(チャン・ヨンジョン)さんや現地ポランティアのズッキ・オリブリス神父たちと今後の方針を協議した。ハイチ時間の九月八日からは、被害の大きかった南西部の町レ・カイ市で大規模な配付活動を展開した。
災害支援チームはハイチで支援物資を現地調達したのだが、業者は買付と梱包に協力しただけでなく、スタッフを動員して、受け取る人にこれは世界中の愛がこもる物だと分かるように、慈済のステッカーを袋に貼ってくれた。
被災した住民を守ろうと身心共に疲れていた神父や修道女にとって、慈済ボランティアの到着は天佑のようだった。地震の後、住む家をなくし、緊急に医療と生活物資を必要としていた人々に、慈済は食糧を配付しただけでなく、世界中から人々の善意の気持ちを伝えた。そして現地の教会や民衆はそれを感じ取ってくれた。
「地震の後、我々にはすぐに配付できる物資など何もありませんでした。慈済が来てから、全ての支援活動が始まりました。これは住民にとってとても大きな意味があります!」とレ・カイ市にあるサレジオ会の責任者、ローズ・モニケ・ジョリコウ修道女が喜びと共に語った。
しかし、順調に進むとみられた支援の行程だったが、コロナ禍や強奪など様々な危険や障害が待ち受けており、第一線のボランティアとパートナーたちは、最大の警戒心を持ちながら前進した。
ボランティアの張永忠さんは被災状況の視察のためレ・カイ市に赴いた。貧困に喘ぐ現地住民の住宅は建築基準に沿って建てられておらず、鉄筋の代わりに曲がった木の幹を使用していて、強震に立ち向かうことは難しく、損壊していた。 (撮影・Réginald Louissaint Junior)
コロナ禍とハリケーン、地震
「私はここに来て二十二年になりますが、二〇一〇年の大地震の時は、ちょうど休暇で台湾に戻っていたため、遭遇しませんでした。今回が初めての大地震です」と張さんが言った。「地震は午前中の勤務時間に発生したので、ショックでした。正午近くになって、南西部が震源地であること、教会や民家が多く倒壊したことを知りました」。
ハイチの慈済ボランティアとして、地震の後、先ず、現地ボランティアの安否を確認した。また、二〇一〇年の地震の際に慈済の再建支援を受けた、シスターズ・オブ・セント・アン教会(Congregation of Sisters of St. Anne)を含む三つの学校に電話をし、建物の損壊状況を確認した。ポルトープランス市は震源地から約百二十キロ離れていたため、幸いにしてボランティアに怪我をした者がいなかった上、支援再建した各学校やハイチ慈済志業センターも無傷だった。
しかし、震源地である南西部では多くの死傷者が出た。今回の地震で放出されたエネルギーは、二〇一〇年の大地震の二倍で、南西部の大都市であるレ・カイ市やジェレミー市などは甚大な被害を被った。
七月上旬、大統領が暗殺され、八月には強い地震とハリケーンに見舞われ、貧しいハイチは単独で相次いてやってきた危機に対応することができないでいる。大統領代理を務めるアリエル・アンリ首相は国際社会に支援を求めた。ハイチ当局と中華民国駐ハイチ大使館は、直ちにハイチ慈済センターにスタッフを派遣して、協力を要請した。被災地ではテントと寝袋などの生活用品を緊急に必要としており、張さんは直ちに五百枚のエコ毛布をハイチ当局に寄付して緊急に対応した。
現地ボランティアの如済(ルージー)神父もアメリカ支援チームが到着する前に、新学期始業後子供たちの給食に使う予定だった食糧を災害支援に回した。「今は命を助ける時です。災害支援が先です」と如済神父が思いやり深く説明した。
瓦礫となったキャン・ぺリン市の民家。住民は住む家を失った。(撮影・ファン・ビン)
エコ毛布の第一便を送り出すと、張さんは視察のため、八月二十一日に南に向かった。目にしたのは瓦礫とテント住まいの住民の姿だった。五百年の歴史を持ち、風光明媚な港町であるレ・カイ市では、少なくとも三つのホテルと二つの教会が倒壊した。元市長は不幸にして亡くなり、病院は負傷者で溢れかえっていた。しかし、一番生活が困難なのは、やはり貧しい農村地域だ。農民が自分たちで建てた簡単な「土壁造りの家」は、今回の強い地震でほとんど倒壊してしまった。
土木技師である張さんによると、南部は首都ポルトープランスと違って、南北に風を遮る山はなく、現地の人々はどんなに貧しくても、風を遮ることができる家を建てる必要がある。「しかし、彼らは建築基準に従って、良質の鉄筋コンクリートで家を建てることができないため、多くの場合、曲がった木の枝を柱にしたり、セメントと砂利を一定の配分で混ぜなかったりするので、地震が来ると耐えられないのです」。
政局の動揺と深刻な災害の中、慈済はアメリカボランティアによる震災支援を発動した。かつて二〇一〇年のハイチ地震の支援活動に参加したシニアボランティアの陳健(チェン・ジエン)さん、邢敏(シン・ミン)さん、范婷(ファン・ティン)さん、そして撮影記録係のジェイミー・プエルタさん一行四人が視察に向かった。より多くの現地ボランティアを募って、災害に対応する能力を高め、彼らに任務を担う志と能力を持ってもらうよう養成しなければならない。「ハイチは自立しなければなりません」と慈済アメリカ総支部の曾慈慧(ゾン・ツーフイ)副代表が厳粛に言った。
ハイチ支援に関する出来事
1998年10月
ハイチ、ドミニカなどの国をハリケーン・ジョージが襲い、甚大な被害をもたらした。慈済基金会は6つの民間慈善団体と合同調査チームを作って、被害調査を行った。翌年、慈済は「中米を援助する・情のある人が寄り添う」という物資の援助を展開した。
2008年8、9月
4度にわたってハリケーンが襲った。
2009年1月
慈済は「ハイチ人道支援・災害支援プロジェクト」を開始した。
2010年1月
12日に発生したマグニチュード7.0の強震で、150万人余りが被災し、30万人余りが亡くなった。 慈済は77日間にわたって、緊急支援、施療、大規模配付、食糧による労働支援活動を展開した。
2012年11月
5日連続の豪雨で、第2の都市であるカパイシアンが深刻な水害に見舞われた。現地ボランティアが被害を調査し、単独で配付を行なった。
2013年5月
支援再建した、ハイチのシスター・サン・エン教会の3つの学校が落成。
2013年8月
台湾農業委員会に外国支援米を毎年申請し、現地の貧困世帯や障害孤児などを支援している。
2014年11月
ポルトープランスとカパイシアンで豪雨による水害支援が行われた。
2015年7月
ソリノ地区で支援再建したドリューシャー幼稚園が落成した。
2021年8月
4日、マグニチュード7.2の強震が発生し、コロナ禍の中で支援活動が始まった。
感染予防と共に強奪も予防しなければならない
八月下旬、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、ハイチへの渡航勧告をレベル4に引き上げた。現地は医療資源が欠乏しており、人々の感染予防知識も低く、ワクチンの接種率が低いため、如何に感染を予防するかが最前線で活動する人にとって難題の一つである。アメリカの支援チームメンバーは全員ワクチン接種を終え、マスクの着用と体温測定を徹底することで個人の感染防止対策を行っている。
もう一つの難題は、軍や警察でさえも制圧できないギャングである。張さんによると、彼が八月二十一日まで南下できなかったのは、ギャングが主要道路を封鎖していたからだった。二〇一〇年のハイチ地震の時は、各救援団体は国連平和維持軍と米軍の護衛を受けていたため、ギャングは一線を越えることができなかった。今は外国の軍隊が撤退したため、救援物資を満載したトラックが間違えて彼らに封鎖された道に迷い込むと、略奪される可能性があるのだ。
このような高度な危険をはらんだ変化球に直面して、慈済ボランティアと協力パートナーは、一歩一歩着実に、且つ臨機応変に対応することにした。九月一日午後、アメリカのチームメンバーがポルトープランスに到着した時、慈済と赤十字社からの支援物資も同日にハイチ慈済センターに到着した。また、慈済アメリカのボランティアによって梱包された六千五百個余りの家庭用医薬品セットもコンテナに積まれ、マイアミから船でハイチに向けて出港していた。
台湾とアメリカからの支援物資を受け取るほか、ボランティアは現地の仕入先と積極的に連絡を取ったり、ハイチ・カリタス基金会と配付に関する協議をしたりした。仕入先の協力の下に、大量且つ多様な食糧を確保し、一世帯あたり三十七キロの物資を用意することができた。それは、十二キロ半の米一袋と、豆やトウモロコシチップ、パスタ、マカロニ、食用油などが入った二十五キロの食糧袋である。
被災地の飲料水の衛生問題を考慮して、慈済ボランティアは百ガロン(約三百七十八リットル)の水を浄化できる一パック二十錠入の浄水錠剤も提供することにした。慈済がそれを支救物資と一緒に梱包することを知った同行の現地カメラマンのケジアー・ジーンさんは驚き、そして喜びを表した。というのも、その浄水錠剤は普段から需要が高く、地震後には更に品不足になっていたからだ。「慈済の食糧袋を手にしたハイチ住民はきっと喜ぶでしょう。ハイチは長年飲料水の問題を抱えており、多くの人が汚れた水を飲んで病気になって亡くなっています。慈済がそこまで考慮しているとは、実に心配りが行き届いています」。
もう住民を待たせてはならない
ポルトープランスにある穀物問屋の倉庫では、支援物資の準備が着々と進んでいた。五千セットの物資が、赤、緑、オレンジ、黄色、青色の手提げ袋に分けられていた。住民が片手で下げられるようにと食糧を種類別に包装したのは、受け取る側のニーズに配慮したものである。
慈済ボランティアと何日も共同作業をした穀物問屋の副総裁ダスカ・ベネット女史は感動して、「あなたがたが自分の国を離れて、人助けのためにここに来たのであれば、私ももっと貢献すべきです」と述べた。
配付の準備に加えて、シニアボランティアたちは時間を無駄にすることなく、現地ボランティア向けの養成コースを展開し、彼らの疑問や意見を聞いた。また、今後の炊き出しに備えて、炊事担当ボランティアに、手早く即席飯を調理する方法を指導した。
しかし、変化球は次から次へとやってきた。
ギャングが道路を封鎖していたため、物資が予定通りに届かず、ボランティアは、九月八日の午前中にレ・カイ市のソイルス修道院と共同で行う予定だった大規模配付を、延期せざるをえないのではないかと心配した。しかし、連絡して分かったのは、修道女たちが既に一千世帯のリストを確認し、受け取る時のクーポンまで配っており、住民は当日に物資の受け取りを心待ちにしていたことだった。
用意した物資を安全に出荷できないため、災害支援チームは仕入れ先に、臨時に配付会場であるレ・カイ市近くで一千世帯が必要とする米を調達できないか、と問い合わせてもらった。電話であちこちの業者に問い合わせた結果、やっと一袋当たり十二・五キロの米を二千袋調達できる現地の問屋を見つけた。
買い付けを完了したのは九月六日で、配付開始の九月八日朝まで四十八時間もなかった。二千袋の米が予定通り配付会場に到着できるか否かは依然未知数だった。
ハイチのギャングは、ポルトープランスを封鎖し、九月六日は誰も外出してはならないとまで公言していた。ポルトープランスにいた災害支援チームは心を静めるしかなかった。「あの数日間、私は毎晩気掛かりで眠れませんでした」とリーダーの陳健さんが振り返えった。
今回の震災に対し、中華民国政府と慈済、そして赤十字社が力を合わせて二十五トンの物資を寄贈した。九月七日にポルトープランスで物資の寄贈式が行われ、慈済ボランティアは落ち着かない気持ちで出席した。ハイチのアリエル・ヘンリー首相は中華民国駐ハイチ大使の古文劍(グー・ウェンジエン)氏の同伴で出席し、国家元首の代わりにハイチ政府からの感謝の意を表した。式典後、慈済チームと現地ボランティアは当日の午後四時にポルトープランスから、百五十キロ離れたレ・カイ市に向かって出発した。
人員の安全を確保するため、一行はギャングが支配する道路を避けて、わざわざ遠回りした。二手に分かれたチームがレ・カイ市に到着したのは深夜十二時近くだった。米を積んだトラックは早朝の六時に到着し、年配の修道女たちが奮闘してコンテナから積み荷を降ろした。熱心な信者たちも早起きして、一緒に重い米を配付会場まで運んだ。
異なる業者から購入した二千袋の米がすべて予定取りに到着したのを見て、何日間も心配していた陳健さんはやっと一息ついた。「私は、数えきれないほど配付活動をしてきましたが、配付する米が当日の朝に到着するのは、今回が初めてです。今回の配付は正にミッション・インポシブルと言えます」。
アメリカからやって来た支援チームメンバーは、養成コースを終えたハイチの現地ボランティアと記念撮影をした。リーダーを務めたシニアボランティアの陳健さん(左から2人目)がハイチに来たのは、今回で79回目である。
長期支援のための幕開け
九月八日午前十時、予定した配付がやっと始まった。被災した住民は朝から学校の外で待ち、警察の厳重な警戒体制の下、秩序よく会場に入場した。人々は表情を崩して、二袋合計二十五キロの米を住んでいる所に持ち帰った。
「私は家が倒壊し、脚も怪我して、今日まで路上で生活してきました。震災後は食糧の価格が暴騰しました。あなたたちに感謝しています。もっと多くの人がハイチを助け、私たちが再び安心して生活できるように力を貸してください」と住民のローズさんが期待を込めて言った。別の住民のアルフォンスさんによると、被災地は食糧不足で、人々は緊急に食糧を必要としているそうだ。「神がボランティアに力を与え、また戻って来て、我々を助け欲しい」。
被災者が緊急の食糧を得ただけでなく、ハイチの「慈済二世」である若者も、奉仕する過程で人助けの喜びを感じた。 「以前、ボランティアになりたいと思ったことがありましたが、父は私が若すぎると言いました。当時は十六歳でしたが、今は許してくれています。ここに来て力になれたことを嬉しく思います」と ボランティアのジェニファ・オーソンさんが誇らしげに言った。
九月八日、配付が終わった後、慈済のロゴが貼られた米と食糧袋がやっとレ・カイ市に到着した。支救チームは直ぐにカリタス基金会とサレジオ会(Salésien de Don Bosco)と協力して、二千世帯余りに緊急支援の食糧を届けた。
住民は引き換えクーポンを手にして、和やかに列を作って順番を待っていた。列が長過ぎるからといって焦る人はいなかった。物資を受け取った後、ほとんどの人は小型トラックのタップ・タップ(現地の乗合タクシー)に相乗りして帰宅した。それは、大きな二袋の食糧を持って、食糧が欠乏した被災地の街を歩くのはとても危険だったからだ。
「今まで、ハイチでこのように秩序正しく、和やかで且つ互いに尊重し合う態度を保った配付活動を、見たことがありません。住民は重くても愛情がこもった食糧を受け取ると笑顔を見せました。今回の特別任務に我々も感動し、多くの家庭を変え、彼らに希望を与えることができました」。困難で危険な道のりだったが、仕入れと物流を担当したダスカ・ベネットさんは、慈済と行動を共にできたことをとても光栄に思うと言った。「私を必要とする時は、必ず全力を尽くします。忘れないでください」。
地震から一カ月以上が経ったが、被災地の住民は帰る家がなく、食糧と医薬品不足は依然として深刻だ。支援チームのリーダーである陳健さんは、見るに忍びなかった。「今回、テント・エリアを視察しましたが、二〇一〇年の地震の後とは全く違っていて、今回はビニール・シートでさえ、「豪邸」なのです。殆どヤシの葉や草でできたテント区域もあります」。
慈済は引き続き、地元の教会関係者と密接に協力し、緊急に食糧を提供するほか、現地ボランティアの育成を続けていく。異なる宗教と協力して、善のエネルギーを結集することで、1+1=2以上の相乗効果を発揮し、被災者が震災後の困難を乗り越え、再び立ち上がれるよう力を貸している。
(慈済月刊六五九期より)