時を超えた仏像芸術の旅

ガンダーラ地方とは現在のパキスタン北西部ペシャワールとアフガニスタン東部に隣接する地域に相当する。ペシャワール博物館が収蔵されているガンダーラ仏の彫りの深い顔立ち、高い鼻筋、薄い唇、螺髪、ひいては服の皺まで刻まれた手法は、ギリシャ彫刻に似ている。

仏像伝統的な姿に拘らなくても、古今東西の様々な文化と融合する中で再構築されてきた。

我々は更に多元的に思考して斟酌を加え、仏像画によって智慧を教え伝えた先徳らを大切にしなければならない。そうすれば、仏法が世の中に存在するという現実性が浮き彫りになり、慈悲と智慧を備えるという仏陀の本懐を理解するに至る。

それが、時を超えた仏像芸術の旅で得られる最高の収穫となる。

仏像芸術は古くから存在し、古今東西の様々な文化と融合する中で再構築されてきた。夫々異なった時代の精神価値を秘めたそれらは、人類社会で最も特色ある、完成された芸術なのである。

初期の台湾における仏教の発展は、明朝末期から清朝初期の福建と浙江地域の、主に泉州と福州から文化がもたらされたことに始まる。後の日本統治時代には東洋と南洋の風格が持ち込まれ、古いものと新しいものが同時に取り込まれた。戦後、台湾が失地回復すると、中国大陸からの多元的な仏教要素が入って来た。チベット仏教や南伝仏教(上座部仏教)及び現代仏学研究が順次加わった結果、新旧が共存共栄し、調和のとれた形態を生み出した。

当代の仏像は古くからの制度に則っている他、国際交流による刺激も受け、多元的な社会で異彩を放った。造仏師たちは、仏陀の法相の視覚造形により多く当代の世界と人文に関する因縁を取り入れることで、現代人がこの時代の荘厳な法相に一層喜びを持って接してもらえるよう努力したが、それには、集結した智慧の刺激と心温まる慈悲が必要だった。

台湾には当代の仏像が数多くあるが、慈済宗門を例にとると、二十一世紀に存在する「現代の仏陀」であってほしいという慈済人の期待と思いから、「宇宙の大覚者」という姿で誕生させたと言える。慈済の利世精神を「地球を浄化し慰める」ことで具現化し、同時に、慈済人が智慧を修め、慈悲の心を人生の中心に据えていることを象徴している。

仏像は、必ずしも伝統的な姿に拘らなくても、異なった時間、場所、状況の下に造られた仏像であってこそ、庶民の生活と密接に結びつくのである。

「宇宙の大覚者」は利世精神を「地球を淨化し慰める」ことで具現化し、同時に慈済人が智慧を修め、慈悲の心を人生の中心に据えていることを象徴している。(撮影・経典雑誌 安培淂)

形のないものから始まった、
古インド仏像の変貌

釈迦牟尼という覚者に対して、原始仏教の教団はその姿を造形化しないという原則を貫き通し、そうすることで仏陀と仏法を尊重してきた。こう考えてみるといい――仏陀は無常無我を教えているが、その智慧の意味を有限で有形の枠に嵌めることなどできるだろうか。

しかし、仏陀入滅後、時間が経つにつれ、仏弟子たちは厳格に戒律を守って、経典を朗唱伝承し、着実に禅修行をするはもとより、精神の導師を追随する思いが益々強くなった。そこで、法輪や菩提樹、仏の足跡、三宝の印など象徴的な物で、仏陀に対する敬意と想いを表すようになった。

二千二百年余り前、マウリヤ朝のアショカ王は仏教を崇拝し、広く仏塔や石柱を建立して仏陀の弘法の足跡に追随した。仏塔を荘厳にして守るための芸術形態がそこに生まれ、インドの神である夜叉や外来の動植物像に対する崇拝が徐々に仏塔の装飾に取り入れられた。これが仏教芸術の起点と見なされている。

紀元一世紀から三世紀のクシャン王朝は、ガンダーラ地方一帯に仏教の新局面を切り開いた。当時としてはアジア全域で最も壮大な仏塔を建て、大乗仏教を護持して広め、独特の「ガンダーラ美術」が形成された。

ガンダーラ地方に、アレクサンダー大王の東方遠征によって文化芸術の種子がもたらされた。仏像はインド、ギリシア、ペルシア文化がもたらした影響の下で誕生した。経典には仏陀の法相が生き生きと描写されており、完全無比の姿で表されている。造仏師はギリシアの神々の理想を仏陀の信仰情緒と融合させた。その造形と神韻のような優れた趣は、ペルシヤと地中海文化の影響から来ており、活発で躍動的な体で表現されている。もう一つ仏像芸術の中心地はマドゥラ地方にあって、そこでの造形はインドの伝統的な文化を発展の基礎にしており、穏健で力強い感じが出ている。

この二大中心地では、異なった美学を基礎にした仏像芸術が創り出された。仏像は次第に仏塔と融合して、教団や寺院にとってなくてはならないものとなり、強大な摂引容受(しょういんようじゅ)の力を発揮するようになった。

凡そ中国の東晋朝の時、インドを統一したグプタ朝がインド文化の黄金時代と言え、その時期の仏像作成中心地は、一つがマドゥラ地方で、前王朝の風華を引き継ぎながら益々精緻になって行き、もう一つは鹿野苑(現在のサールナート)で、新しい考えの下に簡潔で端厳なものが作られた。グプタの造仏師たちは切磋琢磨して、仏像に精神を集中させた観心と平穏、静寂さを表現し、簡潔で洗練された仏像と豊富な装飾を施した後光や背屏を組み合わせたものが新しい時代の美感となった。その頃、鹿野苑での造形は、すっきりと上品な体型で手足が長くなり、着衣にはひだが彫られず、肉体の線に沿った形に作られた。

グプタ王朝が滅亡すると、インドは再び分裂し、パーラ朝が勃興して、新しい政治集団となり、主に東インドを制覇した。この時の仏教はパーラ皇室の支持を得て、三密に呼応したヨガ修行の特質を展開し、即身成仏の素晴らしさを広めた結果、仏教徒の間で競って学ぶようになり、インド仏教の最後の華々しさを飾った。密教の仏像は前時代とは全く異なり、仏陀や変化観音像、憤怒尊(明王)など様々だったが、主にグプタ様式を踏襲しており、一部はヒンズー教の神像が取り入れられた。

それぞれの時期のインドの仏像は、宗教がアジア各地に伝授されると共に、美しい仏陀元来のDNAが順調に「無相であり無不相である」という教えと儀式の中に秘められ、早くから新天地で開花した。

北朝時代は大仏を作る風潮が起こり、北斉天統五年に竣工した山西省晋陽古城の蒙山大仏は、ある夜、万を越す油燈が灯され、遠く晉陽宮まで照らしたという。

西域から中原へ 
庶民生活の中の仏像美

経典と仏像は、伝法と僧侶の東方への移動に伴って、中央アジア、新疆、河西回廊を経て、長安と洛陽に入り、その過程で少しずつ適応しながら変化して行った。それはある種の宗教文化の伝播、移植、転換、成熟の記録であり、次第に中国仏教の仏像芸術を創り上げ、遂には庶民の心に根付いて、「どの家にも阿弥陀仏、あの家にも観世音」が中原(中国)庶民生活の一部となった。

北魏で初めて造られた石窟仏は、今でも山西省大同市の雲岡石窟に保存されている。その第一期工事は高僧の曇曜法師が設計と施工監督を担当した。彼は河西地区涼州の仏像造りの経験と鮮卑民民族の美観を結合させて、首都平城の和平風格を作り出した。続いて孝文帝時代は、太和風格として発展させ、皇室は漢民族化すると同時に洛陽に遷都した。後の宣武帝は龍門石窟の賓陽中洞に当代仏像芸術の最高峰を実現させた。

魏晉南北朝時代の北齊と北周は、巨大仏像を建造する風潮を起こし、その時代における景観芸術の頂点に立った。一方、南朝仏教の発展も忘れてはいけない。梁武帝はインドのアショカ王が仏塔を建てて仏教を盛んにしたことを敬い慕い、「アショカ王が釈迦像を造る」という仏像造り風潮を広めた。その時の仏像の特徴は、ガンダーラ初期の樣式を踏襲していた。

唐貞觀十九年、玄奘法師がインドから唐朝に戻った。彼の経典の翻訳と新思想の啓発及び造仏の推奨などは全て、規範となる指導作用が伴っていた。玄奘法師は亡くなる前、特別に嘉壽殿にマガダ王国ブッダガヤで仏陀が成道した像を造らせた。それは東土の「菩提瑞像」の始まりと言える。

全体的に見れば、唐代前期の仏像は、勢いのある気迫、ふくよかな体つき、恩恵と威光を兼ね備えた表情を持っており、きらびやかな装飾が施されている。これはインドと華夏(中国)の二大文化の伝統を結合した新芸術の結晶である。例えば、龍門奉先寺洞窟にある高さ十七メートルの盧舎那大仏とそれを取り巻く仏像群のように、グプタ様式の影響を受けているとはいえ、唐代の国際観を持った姿勢と気品が見られる。それは中国美術史または世界芸術史において、なくてはならない唐代独特の仏像であり、当時の仏像美の象徴でもある。

五代十国の分裂で、政治の中心が南に移り、都経済の発達で、禅宗と浄土の思想や信仰が庶民生活と深く結びつき、社会の各階層にまで浸透した。儒教と仏教が入り混じって、宋代仏像の新しい様式ができあがり、その容貌は益々温和で慈悲深いものとなっていった。

宋、遼、金、西夏は、同じ歴史の時代に代わる代わる存在していた。遼代の仏像は、鼻柱が高く、鼻先は少し上を向いていて、すぼんだ口角をしており、体型はモンゴルのケイタン族の特徴を持っている。金朝は遼代の風格を受け継ぎ、顔つきはふくよかで眉間には剽悍な気配を漂わせたもの、または女真族の容貌を真似たものがある。

明朝以降、チベット仏教は明朝と清朝の多くの皇帝の崇拝と保護を受け、宮廷内に造仏機関を設置したことで、漢民族と蔵(チベット)」族の仏像が更に融合し、明朝初期には「漢蔵様式」という新趨勢を作り出した。河南嵩山少林寺の千佛殿には鋳銅の盧遮那仏が祀られており、漢蔵融合の特徴が現れている。頭には五仏宝冠を頂き、体は千葉宝蓮の上に蓮華座し、両手は胸の前で「最上菩提印(智拳印)」に組んでいる。それは正に華厳と円覚の合流であり、チベット仏教の要素である造仏の典型と融合したものである。明朝の民間で流行した彩色塑像の仏像は複雑且つ精緻で、装飾性が極めて強い。山西平遥双林寺の彩色塑像は、早くから世界中の美術家たちから絶賛されていた。

山西省の双林寺にある釈迦殿の塑像は、明の時代に流行した彩色様式で作られており、細かい描写とその装飾性が際立っている。(撮影・袁蓉蓀)

インド、中国から台湾に至るそれぞれの時代の仏像発展の歴史に、古人が仏像を造ることで慈悲を訴えた苦労が感じ取れると同時に、仏法が各地に到達して世俗の風習に適応して行き、仏教諸派の仏像画に対する異なった解釈を見て取ることができる。唯一失われていないのが仏陀の「諸行無常,是生滅法,生滅滅已,寂滅為樂」という基本の教えである。「三十二相、八十種随行好」に対する正しい理解と上手に善く運用してこそ、人間(じんかん)の物事に惑わされて仏に助けを求めるようなことがなくなるのである。ここからも、性相の融合がどれほど難しい修行であるかが分かる。
私たちはより多元的な思考と斟酌が必要であり、仏像画でもって智慧を教えている先徳を大切にし、引き継ぐことである。仏法の人間(じんかん)における現実性を際立たせ、慈悲と智慧という仏陀の本意を把握すれば、この時空を超えた仏像芸術の旅における最高の収穫となるだろう。

(慈済月刊六七四期より)

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